アカデミックな馬

 動物界の歴史では、唖然とするような変態がただ相次ぐだけであり、そこには人間の歴史に特徴的な決定要因、つまり哲学、科学、経済条件の変様、政治や宗教の革命、暴力と錯乱の時代......を思わせるものは、見たところなにもない。さらにそれらの歴史的変化は、まずは因習的に人間に与えられた自由に属するのであり、人間とは、行動と思考において逸脱が認められた唯一の動物なのである。人間は、自分だけがその自由の発現であると思い込んでいるが、しかし同様にその自由が、なんらかの動物、つまりその独特な形態が、無数の可能性から無根拠に選択されたことを表す動物の真実でもあることは、それでも明白である。実際のところ、その形態が同類によって同じまま繰り返されていようと、それは重要ではない。つまり、馬や虎の驚くべき多様性は、得体の知れぬ決定の自由をまったく損なうことはないし、その自由にこそ、それらの存在に固有な原理を見出すことができるのである。後はただ、恣意的な発想を退けるために、動物の形態的な相違と、人間の実存条件を周期的に覆す矛盾した諸決定の間に、共通尺度を確立するだけである。
 
 人類の発展に関連した造形形態の交代が、自然形態の発展が特定の場合に示す形態の交代に類似しているように思える。たとえば、アカデミックあるいは古典的な様式は、バロック的で常軌を逸した、あるいは野蛮なあらゆるものと対立していて、根本的に異なるそれらの二つの範疇は、矛盾した社会状態にときには対応しているのだ。そのように様式を、本質的な状況の表現や徴候とみなすことができるのであり、動物の形態もまた、アカデミックな形態と常軌を逸した形態に分類することができるのだから、それと同様なのである。
 征服以前には、ガリア人の文明は、中央アフリカに住む現存部族の文明と似通ったものであり、社会的な観点では、そうして古典的な文明に対する真の反定立となっていた。ギリシア人やローマ人の体系的な征服に対して、イタリアやギリシアを横断するガリア人の支離滅裂で徒労に終わる侵入を、難なく対置することができるし、恒常的な組織力に対して、不安定性や行き場のない興奮を一般的に対置できるのである。 規律正しい人間に価値や公的権威の意識を与えられるあらゆるもの、つまり建築、理論的な法律、世俗的な科学、文学者の文学を、ガリア人たちは知らないままであった。彼らはなにも計算せず、いかなる進歩も考えず、直接的な暗示やあらゆる暴力的な感情を自由に湧き上がらせていたのだ。
 まさにそのような対立に対応するものとして、造形的な次元の事実を示すことができる。外来のいくつかの貨幣を 商業的な交易で利用していたガリア人は、すでに紀元前四世紀から、いくつかのギリシア式貨幣、とくに裏面に馬が表象された貨幣(たとえばマケドニアのスタテール金貨) を模刻して、独自の発行貨幣を鋳造し始めた。しかし、彼らの模倣は、彫刻師の不器用さによる通常の野蛮な変形を単に示しているのではない。さまざまな部族が想像した常軌を逸する馬は、技術的な欠陥よりも積極的な法外さによるものであり、当初の図式的な解釈を、いたるところでもっとも不条理な帰結へといたらしめた。
 ギリシアガリアの二つの表現にある関係は、もっとも完璧でもっともアカデミックなものに当然のように数えられる動物、つまり馬の高貴で正確に計算された形態が問題であるだけに重要である。いかに逆説的に思えようとも、奇妙な一致からアテナイ起 源とされる馬(2)は、たとえばプラトン哲学やアクロポリスの建築と同じ資格で、イデアのもっとも完璧な表現の一つである。そして、古典時代におけるこの動物のあらゆる表象は、人々を熱狂させるかもしれないが、それでも共通の尊大さ、つまり古代ギリシア的精髄との深い類縁性を必ず露わにしているのだ。確かに、あらゆる価値の源泉である一種のイデア的な完璧さへと、あたかも社会形態や思考形態と同様に身体の形態が向かうかのように、事態は生じているのである。あたかもそれらの形態の段階的な組織化が、不変の調和と階層性を、つまりギリシア哲学が、具体的な事実とは無関係にイデアの固有性として示そうとした調和と階層性を、少しずつ満たそうとしてきたかのようである。いずれにせよ、高貴で決定的な観念が物事の推移を統制して導くと、そう考える欲求にもっとも従属した民族は、馬の身体を形象化して自分の妄念を容易に表現することができたのだ。ならば、蜘蛛やカバの忌まわしく喜劇的な身体は、 その精神の高揚に応えることはできなかっただろう。
 
 野蛮な民族の不条理さは、科学的な尊大さと矛盾していて、悪夢は幾何学的な図面と、ガリアで想像された怪物馬はアカデミックな馬と矛盾している。 これらの幻想が生じた未開人たちは、秩序だった民族に人間的な威厳を意識させる主導的で偉大な観念に、滑稽で支離滅裂な動揺、暴力的で恐ろしいイメージの連続を還元することなどできず、彼らに届いた貨幣に描かれた整った形態と、 魔術的な価値をはっきりと区別することもできなかった。しかしながら、不条理な要素の入る余地をなくす完璧な正確さと明瞭さは、警察の規則が泥棒仲間の喜びと対立するように、彼らの習慣と対立していたのである。実際、ギリシア人の観念論的な発想を必然的に麻痺させるあらゆるもの、つまり挑発的な醜さ、血まみれの光景や恐怖と結びついた興奮、度外れな叫喚、すなわち希望も安定ももたらさず、いかなる威厳も与えず、いかなる意味、いかなる有用性ももたないものが問題なのであった。そして、だんだんと古典的な馬は解体され、最後には形態の 狂乱にいたったのだが、この解体は規則を侵犯したのであり、暗示のまにまに生きるこれらの民族の怪物的な心性を、正確に表現することができたのである。ガリア人が生み出したおぞましい猿やゴリラのような馬、言語道断な習性の動物 たち、醜さの極みは、しかし荘厳な幻影、驚天動地の驚異であり、滑稽で身の毛もよだつ人間の夜が、観念論者たちの凡庸さや尊大さに突きつける決定的な反駁を、そうして表していたのだ。
 見たところ人間の活動領域に限定された以上の対立を、動物界全体で示される同等の対立になぞらえる必要がある。確かに、蜘蛛、ゴリラ、カバのような自然が生む特定の怪物は、ガリアの想像上の怪物と不可解だが深い類似性を明らかに示していて、それらの怪物のように、アカデミックな動物、とりわけ馬の正確さをあざ笑っているのだ。したがって、熱帯地方の腐りかけた森とよどんで腐った沼地は、調和に満ちて規則正しいこの世のあらゆるもの、正確な様相によって権威を持とうとするあらゆるものに対して、言葉に表せないような反駁を再び行うだろう。そして、蜘蛛たちが身を隠して共食いをする、われわれの家の地下室もまた同様であり、さらに自然の恥辱が住み着く他の隠れ家もまた同様であろう。あたかも忌まわしい恐怖が、動物の生が示す高尚な形態に抗う、確固不動で不可避な反論であるかのようだ。
 そして、現在の馬が鈍重な厚皮動物から派生していると、古生物学者が認めていることをこの点で指摘するのは重要であり、この派生を、醜悪な類人猿に対する人間の派生と関連づけることができるのだ。おそらく、少なくとも外見の様相に関しては、馬と人間の正確な祖先について確信を抱くのは難しい。しかしながら、カバやゴリラ のような現在の特定の動物が、非常に均整の取れた動物に対して原初的な形態を表していることは疑う余地もない。したがって、生むものと生まれるもの、父と息子に関してこうして考察された対立を位置づけるべきであり、吐き気のする掃き溜めから現れる高貴で優雅な姿を、典型的な事実として表さねばならないのである。こうして対立する二項に客観的な価値を授ける必要があるなら、自然は、両項の一つと常に激しく対立して進行するのであり、自分自身に常に反乱を起こす状態で表されねばならないだろう。つまり、あるときは不定形で不明瞭なものに対する激しい恐怖が、人間という動物や馬の明確さにいたり、あるときは深刻な動揺のなかで、もっともバロック的でもっとも吐き気を催させる形態が相次いで生じるのである。人間の生に固有と思えるあらゆる転覆は、この入れ替わる反乱、つまり怒りの爆発とともに生じる苛酷な 揺動の一様相に他ならず、果てしなく続く、脈打ち沸き立つ革命の連続を限られた期間に恣意的に、雷雨の日に生じる一つの波のようにみなすなら、それが分かるだろう。
 
 おそらく、それらの揺動の意味を歴史的な変転を通じてたどるのは難しい。ただときおり、たとえば大侵略におけるように、段階的な組織化の理性的な方法に対して、もはや望みなき支離滅裂が勝るのをはっきりと見ることができるのだ。しかし造形的形態の変質が、しばしば大いなる転覆の主要な徴候を示しているのである。したがって今日、あらゆる規則的な調和の原理に対する否定が、こうして変革の必然性を証明しに到来しなければ、なにものも転覆されることはないと思えるだろう。一方で、最近のその否定が、実存の基盤そのものが問われたかのように、このうえなく激しい怒りを引き起こしたことを忘れてはならない。そしてその一方で、まだ推し量りがたい 深刻さで、人間の生の現状とはまったく相いれない精神状態を表しながら、事態が生じたことを忘れてはならないのだ。