20世紀アヴァンギャルド文学・芸術におけるプリミティヴィズムーブレーズ・サンドラールを中心に 西村靖敬


はじめに

 19世紀後半に始まったとされる西洋「モダニズム」は、その名の示す通り、古き過去から決別して現代的な新たな価値を探求し標榜する潮流であり、20世紀前半に多発したアヴァンギャルドの諸運動は、このモダニズムの先鋭部隊であったはずだ。だが、前衛美術運動であるキュビスムをやがて樹立し主導するピカソが1907年に何度かの改作を経て「アヴィニョンの娘たち」を完成させるプロセスに、パリのトロカデロ民族誌博物館での古いアフリカの仮面との出会いが介在していたことはすでに美術史上の定説となっている。このことは、名称からして「現代主義」であり未来志向であるはずのモダニズムアヴァンギャルドが── それらに属する運動や傾向の決してすべてではないにしても── 、「過去」への志向、すなわち「プリミティヴィズム」を内包していたという逆説を示している。
 この「逆説」を美術の分野で最も大規模に全面的に展開して見せてくれたのは、1984年9月から翌年の1月までニューヨーク近代美術館で開催された「20世紀美術におけるプリミティヴィズム── 『部族的』なるものと『モダン』なるものとの親縁性」展であった。この展覧会を企画したのは当時の同館の絵画・彫刻部名誉部長であったウィリアム・ルビンであったが、彼は、ゴーガン、マティス、そしてピカソを経て、ブランクーシジャコメッティ、ヘンリー・ムーア、アースワークへと至るモダン・アート150点と、アフリカ、オセアニア南北アメリカ等の「作品」(プリミティヴ・アート)200点を並置して展示し、前者と後者の「親縁性」(affinity)を浮かび上がらせようとしたのだった。
 この展覧会ならびに、ルーピン編集のこの展覧会の解説論文集── 単なる解説書というにはあまりに大部である── に対しては、賞賛とともに批判の声も寄せられた。批判の急先鋒に立ったのは、文化人類学者のジェイムズ・クリフォードであった。彼は『文化の窮状:20世紀の民族誌、文学、芸術J The Predicament of Culture- Twentieth -Century Ethnography, Literature, and Art (1988)の第9章を構成することになる論文「部族的なるものとモダンなるものの歴史」“Histories of the Tribal and the Modern" (Art in America 誌1985年4月号)において、この展覧会のコンセプトそのものを論難して、「この展示でモダニズムと似させるために選ばれた『部族主義』とは、それ自体が、似させるという仕事を遂行するために考案された構築物なのである」*1と断じたのであった。このクリフォードからの批判にルービンも反論する*2など、この展覧会は非常に大きな反響を巻き起こした*3。クリフォードらの批判にもかかわらず、「部族美術」や「プリミティヴ・アート」の名で呼ばれる非ヨーロッパ世界で生み出されたものがピカソの「アヴィニョンの娘たち」を初め、19世紀末から20世紀に至るモダン・アートに何らかのかたちで影響を与えてきたこと── 「親縁性」とは何か、そして両者の「親縁性」をどこに見出すべきかについては様々な見解があり得るとしても── は否定しようのない事実であろう。
 そして、非西洋の「プリミティヴ」なものの西洋への影響は、何も美術の世界に限られたものではなかった。それは、文学を含む「アート」全体に及ぶものであった。ここでは、スイス生まれの詩人・作家ブレース・サンドラール Blaise Cendrars(1887-1961)を中心にして、彼と黒人文化との関わりについて見ていくことにしたい。


1.第一次世界大戦と黒人文化

 前記のピカソなどを重要な先例とするような西欧への非西洋の「プリミティヴ」なもの、とりわけ黒人に関わる文物の影響や流入第一次世界大戦を機に加速される。それは1つには、たとえばフランスの場合、植民地であったセネガルなどのアフリカ諸地域の黒人兵が戦時中フランス兵として勇敢に闘い、フランスの勝利に多大な貢献を成し遂げたことにより、戦後のフランス社会において黒人に対する認知度や好感度が大幅に上昇したというような事情もあっただろう。
 しかしながら、そのより根本的な要因は、第一次大戦によって価値観やパラダイムの転換と言えるような地殻変動がヨーロッパとその文化にもたらされたことに求めるべきであろう。すなわち、大戦までのヨーロッパの国々や人々は、自分たちがこれまで長い年月にわたって全世界の文化の先導役をつとめてきたことにいささかの疑いも抱かなかったわけだが、1914年から1918年にかけて戦われた第一次大戦こそはヨーロッパ大陸を主戦場とし、全人類のリーダーを自認してきたヨーロッパの国々と人々が2つの陣営に分かれて相闘うという、まさに「文化」の名を汚し、「文化」の対極にある「蛮行」そのものに他ならなかった。戦後になってこのような冷厳な事実を自らに突きつけられたヨーロッパ諸国は、戦勝国と敗戦国の別を問わず、「文化」的リーダーとしての自信と自負を一様に喪失して途方に暮れざるを得なかったのである。このことが何よりも端的に表明されたのは、敗戦国ドイツの思想家オスヴァルト・シュペングラーOswald Spengler (1880-1936)の文明論、その名もまさに『西洋の没落』Der Untergang desAbendlandes (1918、22)であったし、戦勝国フランスの詩人、批評家のポール・ヴァレリーPaul Valeryd 871-1945)もまた、「精神の危機」《《La crise de Fesprit >》(1919)においてこう述べざるを得なかったのだった。

 ヨーロッパ文化に対する幻滅があり、また知識はいかなるものの救済においても無力であることが証明されました。(中略)
 ところで、現代は次のような重要な問いをはらんでいます。すなわち、ヨーロッパは、あらゆる領域においてその優越を維持することになるのでしょうか。
 ヨーロッパは、現実にそうであるところのものに、すなわち、アジア大陸の小さな岬になってしまうのでしょうか。
 それともヨーロッパは、そう見えているところのもの、すなわち地上の貴重な部分。地球の真珠、巨大な身体の頭脳であり続けるのでしょうか*4

 このように第一次大戦後のヨーロッパは深刻な危機意識に見舞われたわけだが、それではこのような危機を打開する道は果たしてあるのか。この時期のヨーロッパの知識人や文化人の少なくとも一部にとって、こうしたヨーロッパの危機を脱するための活路と映じたのは、行き詰った彼ら「白人」の対極にあり、これまでヨーロッパの「白人」だちから「未開」「野蛮」な存在として無視ないし軽蔑されてきた「黒人」の文化を学び、それを受容することによって自らの精神文化を一新することであった。(すでに大戦中の1916年に、戦争参加を忌避する青年たちによって中立国スイスのチューリヒで開始されていたダダの運動は、このような戦後の動向を先取りするものであった*5。)
 かくして、第一次世界大戦を機とするヨーロッパにおけるこのような価値体系や文化的パラダイムの転換の中で、非ヨーロッパ、非白人の「プリミティヴ」な黒人文化こそが、ヨーロッパの白人たちにとってその未来を切り開いてくれる最先端のもの、その意味で最も「モダン」なものであるという逆説が成立することになったのである。


2.ブレース・サンドラールと黒人文化

1)コスモポリタン詩人・作家サンドラール


 ブレース・サンドラールBlaise Cendrars とは、braise (煥火)、cendre (灰)、art (芸術)をつなぎ合わせたペン・ネームであり、その意味するところは、「(既成の)芸術を煥火で燃やして灰にする」とでもいうところであろうか。前記の通り、第一次大戦によって旧来の芸術や文化が灰燈に帰する中で活躍を開始するこの詩人・作家は、その名の示す通り、まさに時代の申し子たるにふさわしい。句読点を無視した自由な詩形式、「同時詩」の試みなど、サンドラールアポリネールGuillaume ApoUinaire (1880-1918)などど並ぶ現代詩の旗手であった。
 また、彼の活動の主たる舞台はフランスのパリであり、1916年にフランスに帰化するのではあるが、スイスに生まれた彼は生来のコスモポリタンで、17歳で学業を放棄して以降、ロシア、中国、ベルギー、イギリス、合衆国、ブラジル等々と、まさに世界各地を放浪し、冒険を重ねながら創作を行なった。彼が1919年に刊行した処女詩集は、その名もまさに『全世界』Du monde en tierであった。第一次大戦前後の時期のフランスには、彼以外にも、ヴァレリーラルボー Valery Larbaud (1881-1957)、ジュール・シュペルヴィエル Jules Supervielle (1884-1960)、ポール・モラン Paul Morand (1888-1976)、ルイ・シヤドゥルヌ Louis Chadourne (1890-1925)などのコスモポリタン詩人・作家が輩出するが、サンドラールの地球規模的な行動範囲の広さは群を抜いている。


2)黒人文化との出会い

上記の通り、地球規模で活動したコスモポリタンのサンドラールにあっては、アフリカや黒人文化との出会いはすでに少年期に始まっている。彼の自伝的な著作『大空の分割』Le Lotissement du del (1949)には、まだ読み書きもできなかった頃、父親の目を盗んで父の書斎に無断で入り込み、いつもどきどきしながら本箱の鍵を開けて、そこから取り出した1冊の本をめぐる次のような思い出が綴られている。

それは、エリゼ・ルクリュの『世界地誌』であった。私はついに手を伸ばし、大いに努力しながら1冊の本を動かすのだった。それは決まって同じ本、第9巻の「赤道アフリカ」で、一番軽い巻だったが、私を引きつけた本だった。それをからだで受け止めると、その本はいつも同じページで開き、そこには原始林の巨大な木の下にうずくまった木製の大きな偶像が描かれてあった。そのどっしりした偶像の眼は異様に大きく、歯は歪んでいて、私を怖れおののかせるのであった*6

 そして、このようなアフリカの偶像との出会いのあった夜はベッドの中で悪夢にうなされることになるのだが、「次にまた父が背中を向けるや否や、強く禁じられていたことではあるが、父の書斎に忍び込み、私の遊び、私を恐れさせる遊びをまた始めるのだった。そしてそれは何年か続いたのである*7。」
 このアフリカの偶像との関わりは、サンドラールが学齢期に達してもなお続き、その頃には父親から書斎への入室を許されていた彼は友人たちを誘って、名前も由来も所在地もわからないその偶像を眺めては、「あれこれと憶測をめぐらす*8」のであった。そして、「よく見てみると、それにはまた男性性器、鐘の舌のようなすりこ木も付いて*9」いたので、(仲間の1人がある日拡大鏡を持ってくる*10」ようなことにもなり、その結果、「夜、私の不安と悪夢はみだらなものになっていった。それで、父の書斎にはもう誰も呼ばなくなり、長らく第9巻に触れることもなくなってしまった*11」のであった。


3)黒人文化に関する資料収集と『黒人選集』

 ところが、14〜15歳の頃に1つの転機が訪れる。その頃サンドラールの父親は息子をスイスのヌーシャテルの名門商業学校に進学させようとしていたのだが、サンドラールはそれに反発し、家を出て中国にでも行きたいと考えるようになっていた。そして、あまり学校の授業には出ず、湖で遊ぶ時以外は父親の書斎に閉じこもって過ごしていた。そのような状況の中で、彼はエリゼ・ルクリュの『世界地誌』を第9巻のみならず、今度は全巻(25巻)隅から隅まで読み通したのだった。そしてその際久し振りに手にした第9巻には、不思議なことに、例のアフリカの偶像の絵が剥がされてしまっていたのだが、そのページの下の方に、著者ルクリュによる黒人説話「ソウと白ネズミの物語」の仏語訳を発見する。それは彼にとって、(黒人の世界とその驚異への大いなる啓示*12」となり、以後彼は町のあらゆる古書店でアフリカに関する書物を渉猟することになるのである。『大空の分割』によると、彼が当時読んだ主な本は、フランスのプロテスタントの宣教師エドゥワール・ジャコテEdouard Jacottet (1858-1920)やスイスのプロテスタントの宣教師アンリ=アレクサンドル・ジュノ―Henri-Alexandre Junod (1863-1934)によって採集し翻訳されたアフリカ黒人の説話、アメリカのアフリカ探検家スタンリーHenry Morton Stanley (1841-1904)の『わが黒人の仲間たちと彼らの不思議な物語J My dark companions and their strange stories、ジェイムズ・ジョージ・ブレイザーJames George Frazer (1854-1941)の『トーテム信仰と外婚』Tbtemism and exogamy、フランスのカトリック宣教師アンリ・トリュ Henri Trilles (1866-1949)のガボンのファン族の伝説に関する著作などであった。そして、サンドラールはこう述べる。

 それ以降、あらゆるかたちの黒人文学に対する私の愛は決しておさまることはなく、(中略)言語学者でもなく、また専門的に研究しようとも思わなかったが、この方面の学殖が高じて、1919年には『黒人選集』を制作することができたのだった*13

 ここで言及されている『黒人選集』Anthologie negre は1921年に刊行されるが、ここにはアフリカ各地の黒人諸部族の実に108にも上る神話・伝説が、「世界創造の伝説」に始まる21の章に分類されて紹介されている。そして巻末には、これまた実に175冊もの「文献目録」が添えられている。 Christine Le Quellec Cottier によれば、このような『黒人選集』の構成の仕方はフランソワ=ヴィクトール・エキルペック Frangois-Victor Equilbecq(1872-1917)の『西アフリカの民間伝承』Contes populaires de FAfrique ocddentale (1913)にならったものであり*14、またH章からV?章を「フェティシズム」が占めるなど、分類の仕方もややいびつである感を免れないが、それにしても、この「選集」が編者サンドラールのきわめて体系的な先行文献の渉猟と咀嘔の結果である事実は疑うことができない。


4)バレエ『世界の創造』

 そして、サンドラールはこの『黒人選集』に収めていたファン族の創世神話── 「原初の伝説」《《La Legende des origines )》と題して『黒人選集』に収録── を元にして、1923年には『世界の創造』La Creation du Mondeというバレエ作品の脚本を制作する。
 筋書きは、以下の通り、きわめて簡単なものである。幕が上がると、舞台は真っ暗である。やがてそこに、ヌザメ、メデール(メペール)、ンクワという3つの創造神が姿を現し、混沌としたものの堆積のまわりで呪文を唱える。すると中央の塊が動き、木が生じ、木から葉が一枚地面に落ちて大きくなり、歩き出して動物になる。やがてゾウ、カニ、サルなどの動物が次々に誕生する。舞台は次第に明るくなり、動物たちは3つの神々たちのまわりを踊る。神々は新たな魔術によって1人の男と1人の女を生じさせる。彼らは踊り、恍惚状態になって抱擁し合い、春となる……
 こうしたストーリーに含意されていたものは、第一次世界大戦によって荒廃し、破壊され尽くしたヨーロッパ、さらには全世界を、ブラック・アフリカの原初的なエネルギーで再生させ、再創造しようという希求であった。
 この作品は同年10月25日に、当時パリで活躍していたスウェーデン・バレエ団によってシャンゼリゼ劇場で初演される*15が、舞台装置や衣装を担当したのは両家のフェルナン・レジェ Fernand Leger (1881-1955)であった。そしてレジェもまた、この作品に協力するに当たって、アフリカの諸部族が伝えてきた鳥や動物などの彫像の研究に力を注いだのであった*16
 そして音楽を担当したのは、ダリュス・ミョー Darius Milhaud (1892-1974)であった。ミョーは第一次大戦後、合衆国の黒人音楽であるジャズに親しみ、このバレエ作品が制作される前年の1922年にはニューヨークのハーレムに出かけてジャズを満喫したのであった。そして、ハーレムで買い求めたジャズのレコードをフランスに持ち帰って繰り返し聴き、やがてジャズのスタイルを用いた室内楽曲をつくることを思い立つ。ミョーはこの頃のことを回想して、後にこう述べている。

私はというと、私は少し前にアメリカに滞在し、そこでジャズに大いに興味を抱いたのだったが、ジャズは黒人街ではまだ白人の観光客の好奇心を引くには至っていなかった。私の考えたことは、ダンスホールのジャズの語法をシンフォニーの領域に導入することであり、それこそまさに『世界の創造』の楽曲において実現したことであった*17

 こうして誕生したのがこのバレエ音楽であった。特にジャズの要素が取り入れられたのは「序曲」に次ぐ第2曲であり、コントラバストロンボーンサキソフォンとトランペットがジャズの主題によるフーガを奏でていく。エヴリン・ユラール=ヴィルタールは、ミョーのこの楽曲とジャズの関係につき、以下のような評価を与えている。

ミョーはジャズのテクニックを「クラシック音楽のスタイルで」使っている。ジャズの要素のいくつか(リズム、シンコペーション、楽器のソロ使用)を、真面目なバレエに実験的に適用しようとしたものだ。サンドラールの想像した黒人の宇宙論に、この雰囲気がよくマッチしている*18

 以上のように、バレエ『世界の創造』は、サンドラールの脚本に、レジエの装置・衣装とミョーの音楽が見事にコラボレートしてでき上がった「黒人文化」に基礎を置く芸術作品であったと言えよう。


5)サンドラールにとっての黒人文化

 先述の通り、サンドラールは黒人文化を、第一次大戦後のヨーロッパならびに全人類の社会や文化を再生させるための言わば「触媒」と見なしていたと言えようが、彼は黒人文化のいかなるところに人類文化再生の夢と希望を託していたのだろうか。
 サンドラールは『黒人選集』の序文に、アフリカに存在する多数の言語に関するイギリスの文献学者カスト Robert Needham Cust (1821-1909)の所説を以下のように引用する。

それらはこの上なく豊かだ。小山、丘、山、峰のそれぞれに名前がある。河川、小さな谷、平野の1つひとつがそうであるように。これらの名前の意味について議論するには一生かかることだろう。(中略)歩き方、散歩、ほら吹きの多様な様態を表すための単語がおよそ20個も存在するほどに、言葉はきわめて豊かなのである。歩き方の一つひとつが特別な言葉で表現されるのだ*19

 これは、アフリカの諸言語が「きわめて豊かで」、自然や生活の現実に個別かつ具体的に対応していることへのカストの共感の言であり、サンドラールもこの共感を共有する。そして、1924年5月にブラジルのサンパウロで行なった「黒人文学について」《Sur la litterature des Negres 》と題する講演において、こう述べている。

 黒人文学全体を特徴付けているものは、その叙情性(リリスム)です。
 叙情性は存在のあり方であり、感じ方です。
 私たちは、言語が人間の意識の反映であるということを十分に知っています。(中略)
 文明人の精神は未開人の精神よりも抽象に向いています。なぜならば、文明人の生活の条件が具体的なものを犠牲にして、精神を抽象的な考察に仕向けるからです。
  (中略)
 言葉は具体から抽象へ、神秘から合理へと向かいます。
 未開人たちの言語は具体的なカテゴリーに富んでいます。
 叙情(リリスム)はその根を通って個人の意識の深みへと没入していきます。詩が花開いて人々の口の端に上るほどに力を引き出すのはまさにそこからなのです。
 そういうわけで私たちには、合理的で抽象的な言語を、それが私たちの言語だからといって、具体的で神秘的な言語より優っているとみなす権利はないのです*20

 そしてサンドラールは、同じ講演の少し先のところで、さらにこう述べる。

それら〔未開人や黒人たちの言語や文学〕に文献の痕跡や埃をかぶった記録があまり見られないとしても、それらは、しばしば飾り気のない、容易に理解できる形で、私たちに私たちの最も遠い祖先たちの思考そのものや存在のあり方を見せてくれるのです*21

 これらの発言にうかがえるように、サンドラールは、プリミティヴなアフリカ黒人たちの「具体性」と「神秘性」、「叙情生」に満ちた言語や文学、文化の方が、「抽象性」や「合理性」によって規定されたヨーロッパ白人のそれらよりもむしろ豊饒で優っており、人間存在の根源により直接に結び付いていると考えていたのである。
 このようなサンドラールの黒人文化観は、たとえばダダのリーダー、トリスタン・ツァラのそれを想起させる。ツァラは後年のエッセイ「いわゆるプリミティヴ・アートの発見」《《Decouverte des arts dits primitifs ・》(1951)の中で、ダダと「プリミティヴ・アート」との関わりについて回想しながら、以下のように述べている。

 芸術を人間の多かれ少なかれ意図的な、人間の内奥の本性からいわば切り離せる所産と見なしたアポリネールの美学的関心に対して、ダダはより広い概念を対置した。すなわち、プリミティヴな民族の芸術は社会的、宗教的機能と絡み合って、彼らの生の表現そのものとして現れていたと考えたのである。「ダダ的自発性」を称揚していたダダは、詩を知性と意志の副次的な表現というよりも、1つの生き方とすることを欲していた。ダダにとって、芸術とは、その深い根が感情生活の根源的構造と一体となるあの詩的活動の万人に共通の形態の1つだった。ダダは即興のダンスと音楽の黒人の夜会を催して、黒人の、アフリカの、オセアニアの芸術を、現代人の精神生活とその直接的表現に結び付けるこの理論を実践しようと試みたのであった。ダダにとっては、意識の奥底に詩的機能の沸き立つような源泉を見出すことが重要であった*22

 サンドラールはダダの運動とは直接の関係を持たなかったし、彼をダダイストと呼ぶことはできない*23。しかしながら、プリミティヴなものとしての黒人文化の受容の仕方、そしてそれを通して文化の再生を図ろうとする志向、これらの点において、サンドラールとダダは軌を一にしていたと言えるだろう。

*1:ジェイムズ・クリフォード『文化の窮状:二十世紀の民族誌、文学、芸術』(太田好信、慶田勝彦、清水展、浜本満古谷嘉章、星埜守之訳)、人文書院、2003年、248頁。

*2:このニューヨーク近代美術館の展覧会の解説論文集の邦訳(1995年淡交社刊)の「日本語版のための補遺編」に収められた「吉田憲司氏の日本語版『あとがき』に寄せて」(吉田憲司訳)は、ルービンのクリフォードに対する徹底的な反論である。

*3:この展覧会をめぐる論議については、吉田憲司『文化の「発見」:驚異の部屋からヴァーチャル・ミュージアムまで』(岩波書店、1999年)、大久保恭子「プリミティヴィズム(Primitivism)の変容一観念の相対性をめぐる考察」(『関西外国語大学研究論集』第77号、2003年2月)、同「ニューヨーク近代美術館(MOMA)と20世紀モダニズム」(『立命館産業社会論集』第40巻第2号、2004年9月)などを参照のこと。

*4:Paul Valery, Variete, Gallimard, Paris, 1924, pp.15-23.

*5:たとえば、彼らは「黒人の歌」を朗誦し、仮面をつけて「黒人ダンス」を踊ったのだった。

*6:Blaise Cendrars, Le Lotissement du del. La Banlieue de Paris,≪ Tout autour d'aujourd'hui 〉》, Volume 12 、 Denoel, Paris, 2005, p.258.

*7:Ibid,-9.259.

*8:Ibid, p.260.

*9:Ibid, p.262.

*10:Id.

*11:Id.

*12:Id.

*13:Ibid., pp.263-264.

*14:Ibid., p.xv。

*15:ちなみに、この初演の際に振付けを担当し、主役の「男」を踊ったのは同バレエ団の主演ダンサーのシャン・ボルランJean Borlin (1893-1930)であったが、ボルランは同バレエ団の結成に先立つ1920年3月25日に『黒人彫刻』Sculpture negreのソロ公演を行なっている。この作品で、ボルランはアフリカの木の彫像を模した衣装に身を包み、木の仮面を付けて、スローなテンポで踊ったという。(Bengt Hager, Ballets Suedois,Thames and Hudson, London, 1990, p. 13.参照。)そして『世界の創造』の振付けに当たっては、アフリカの黒人たちのダンスの記録フィルムを見て、研究したという。(Ibid.,p.42.参照)

*16:ローラ・ローゼンストック「レジエ『天地創造』」(上田真紀訳)(ウィリアム・ルービン編『20世紀美術におけるプリミティヴィズムー「部族的」なるものと「モダン」なるものとの親縁性J n、淡交社、1995年、所収)参照。

*17:Darius Milhaud, 《《Cendrars et les musiciens 、》, Mercure de France, mai 1962,pp.166-167.

*18:エヴリン・ユラール=ヴィルタール『フランス六人組 20年代パリ音楽家群像』(飛幡祐規訳)、晶文社、1989年、183頁。だが、ここで注意すべきことがある。ミョーの音楽の「ジャズの要素」が「サンドラールの想像した黒人の宇宙論」に「よくマッチしている」とはどういうことか。前者のジャズはアメリカ黒人の現代音楽であり、後者はアフリカ黒人の古い神話伝承であり、地域も異なれば歴史的時間も相異なる。 したがって、両者は無条件で「マッチ」するはずもないのだが、このユラール=ヴィルタールの評言は、1920年代のヨーロッパ社会に生きた多くの白人たちの意識においては、ブラック・アフリカとブラック・アメリカがいわば未分化の状態で分かち難くつながっていた事実を物語っている。そしてこのことは、当時の西欧におけるプリミティヴィズムの1つの重要な特質を浮彫にしてもいるのだが、これについてはまた別の機会に論じることにしたい。

*19:Blaise Cendrars, Anthologie negre,Petits Contes negres pour les enfants des Blancs,Comment les Blancs sont d'anciens Noirs, La Creation du Monde,≪ Tout autour d'aujourd'hui 〉》, Volume 10, Denoel, Paris, 2005, pp.3-4.

*20:Ibid., pp.479-480.

*21:Ibid., p.482.

*22:Tristan Tzara, (Euvres completes, Tome IV, Flammarion, Paris, 1980, pp.301-302.

*23:とはいえ,ダダがまだ正式に誕生する前の時点ではあるが,やがてダダの拠点となるチューリッヒのキャバレー・ヴォルテールで1916年2月7日に開催された集会において,サンドラールの詩── それが何であったかは不明だが── が朗読されたという記録があるのは興味深い事実である。(フーゴ・バル『時代からの逃走』〔土肥美夫・近藤公一訳〕,みすず書房,1975年,99頁,参照。)