書評:中生勝美編『植民地人類学の展望』(風響社、2000年) 小田亮


 アジアとくに東アジアをフィールドにする人類学者たちを執筆者とする本書は、題には掲げられていないが、「日本の植民地人類学」、すなわち、日本における民族学や人類学と、植民地や戦争との関係を考察するための初めての論集である。その背景には、日本の民族学文化人類学社会人類学が、その成立に大きな影響を与えたはずの植民地や戦争との関係について議論してこなかったという実情への自省がある。
 植民地と人類学の関係について、日本の人類学者がまったく議論してこなかったわけではない。むしろ最近ではそのような議論が盛んになされていると言ってよい。けれども、その多くは、イギリスやフランスなどヨーロッパ諸国の植民地になった地域を扱うものか、あるいはエドワード・サイードの『オリエンタリズム』などのポストコロニアル理論の輸入による議論であった。例えば、山下晋司・山本真鳥編『植民地主義と文化』(1997年)には、日本の植民地を扱った論文は1つも収録されていないし、栗本英世・井野瀬久美恵編『植民地経験』(1999年)にも、15本の論文中1本しかない。
 本書の目的は、編者の中生勝美が序論でいっているように、戦中の民族学的研究の戦争責任を「告発」することでも、それらの研究の民族誌的リアリズムを「脱構築」することでもない。本書に収録された、扱う対象もスタイルも個々に異なる各論文にほぼ共通してみられることは、それらの研究がそれぞれもつ個々の事情を当時の歴史的文脈に置いてみるという、比較的地味な作業である。そのような作業に対して、すでに輸入されたポストコロニアル批判の議論に洗礼をうけている読者は物足りなさを感じることだろう。あるいは、日本の民族学の戦争責任ないし戦後責任の追及という「告発」の姿勢をもっと明確に出すべきだという者もいるだろう。しかし、「脱構築」も「告発」も、その対象を「戦争協力した学者・学問」とか「現地人を単なる研究材料として上から見下ろす学者・学問」といったように、単純化・一元化しなければできない。本書のねらいは、そのような単純化や一元化を避けながら、しかも「日本のオリエンタリズムの克服」をめざすということにある。そのねらいそれ自体は悪くない。とすれば、本書にとってもっとも重要な問いは、個々の事情を歴史的文脈に置くという作業を、どのように「日本のオリエンタリズムの克服」に結びつけてゆくのか、その糸口が見つけられるか、という問いだろう。それについては、各論文を紹介したあとで検討してみたい。
 まず、編者である中生勝美の「序論 植民地人類学の射程」から見ていこう。この序論で中生は、本書でいう「植民地人類学」の目的は、ポストモダン思想の影響下でその内外から批判されている人類学を再生させることだという。「植民地人類学」とは具体的にどのようなものなのか、ひとつのモデルが提示されている。それは、植民地的状況において書かれ、古典として読み継がれてきた民族誌を、その対象となった地域を「再調査」することを通して、「それが書かれた歴史的文脈に置いて、政治的経済的状況との関連で民族誌の書き方や、民族誌の支柱となった理論を脱構築する」(28-9頁)というものである。それは「結果としてフリーマンの『マーガレット・ミードとサモア』の手法に似ている」(28頁)とされ、それ以外にも、シャロン・ハンチンソンらのヌア族(ヌエル族)の再調査によるエヴァンス=プリチャードの民族誌の再検討や、ダグラス・ラミスが『内なる外国』で行っているルース・ベネディクトの『菊と刀』批判などが、例として挙げられている。
 ただし、対象地域の再調査を通した古典的民族誌の再検討が、どうして理論や民族誌の書き方を脱構築することになるのか、あるいはその脱構築ポストモダン理論による脱構築とどう異なるのかについて、この序論は明確な答えを与えてはくれない。フリーマンの『マーガレット・ミードとサモア』は、「古典的民族誌を、それが書かれた歴史的文脈に置いて民族誌の支柱となった理論を脱構築する」という性格をもつものではなく、むしろミードの描くサモア像が真実ではないという批判に重点が置かれたものだからである。そして、エヴァンス=プリチャードの民族誌の再検討についても、「再調査をした研究者たちのとまどいは、現前の事実がエバンス・プリチャードの調査した時代から半世紀を経て対象社会が変化したのか、エバンス・プリチャードの記述に歪曲があったのか、また調査資金を支援したスーダン政府というパトロンの要請に配慮したことで、彼が偏った記述を残したのかは判然としない」(29頁)と述べられており、「真実」がいかなるものであったかが問題とされているところをみると、中生のいう人類学史や古典的民族誌の再検討とは、歴史的「真実」の探究ということらしいのである。さらに、ダグラス・ラミスの『内なる外国』についても、「この本のように、本国人による検証は、その国でしか伝達されていないインフォーマルな情報も含めて考察できるのであり、人類学史、および民族誌の検証において、自国のそれに近い研究者が行う有利さは否定できない」(30頁)と述べられているが、日本において日本の民族学・人類学の歴史を検証をする本書にも通じるものとされているこの「有利さ」はいうまでもなく、歴史的真実を検証するにあたっての有利さである。
 植民地や戦争と密接に結びつきながら書かれた民族誌や人類学的研究を歴史的文脈に置きなおすためには、歴史的事実を発掘することは必要な作業である。しかし、それだけでは民族誌の書き方や民族誌の支柱となった理論を脱構築することにはならない。まして、他者には知られていない「真実」を書くというレトリックそのものが従来の民族誌の書き方として批判されていたはずである。であるとすれば、歴史的真実の検証が、どうして脱構築につなげることができるのか、説明が必要であるように思われる。
 つぎに、田中雅一の「大東亜共栄圏のインド――戦中の邦語文献におけるカーストと民衆ヒンドゥー教」についてみていこう。本論文は、日本で戦中にたくさん出版されたインドについての文献のうち、民衆ヒンドゥー教カーストについて書かれている地理や民族学関係の文献、研究者による紀行文を対象にしている。それらの文献が出版された背景には、日本軍のシンガポールやマレーシアなどのイギリス植民地への侵攻と「解放」により、一部のインド独立運動が日本軍に支援を求めたことなど、大東亜共栄圏がインドに拡がることが現実味を帯びてきたことがあるという。
 田中は、戦中に書かれた文献を、?サイードのいうオリエンタリズムの典型としての非歴史的・固定的なインド観がみられるもの、?一見現在のオリエンタリズム批判の視点と似ているような英国植民地統治の犠牲者としてのインドという見方があるもの、?カーストに他の東洋社会に共通する集団主義という積極的な役割を見るもの、の3つに分けて紹介している。?の、西洋流のオリエンタリズムによるインド観の例として挙げられているのは、インドの固定的な国民性を論じた木村龍寛(日紀)の「印度の民族」という論文である。そこでは、インドの保守的で内向的な国民性が一方で高い精神文化を創りだしたが、他方それらは活動性や武力的能力の欠如をもたらし、同時にその雑然とした国民性は政治的分裂と経済的停滞を招いたとされている。田中は、インドの無秩序を普遍的で超歴史的な本質とみなすこのような議論は西洋のインド観にも共通して見られたと指摘している。
 また、?の、インドの無秩序と劣位を同じように指摘しながら、それを超歴史的な本質とするのではなく、英国の植民地支配に原因があるという言説の例としては、網本行利の『印度の全貌』や河東忠の『蹶起した印度の実相 印度の苦悩』などが挙げられている。しかし、この英国の植民地支配の犠牲者としてのインドという視点は、同じアジアのインドの苦悩を救う大東亜共栄圏の指導者としての日本の使命という言説に繋げられていたと指摘されている。そして、他の言説ではインドの停滞や無秩序を表すものとして否定的に語られていた、ヒンドゥー教カーストに積極的な意義を認める?の言説として挙げられているのが、戦後もヒンドゥー文化研究者として活躍した佐保田鶴治の東洋的国家論である。佐保田は、カーストに日本のイエや中国の宗族と同じような血族的集団意識を見出し、それこそ個人主義にもとづく西洋国家に優る東洋的国家の基盤となるものとしている。これは、オリエンタリズムにおける優劣を逆転させた「オキシデンタリズム」と呼ぶこともできるだろう。
 田中は、これらの戦中のインド観が、戦後のインド観と連続している点に注意を促している。インドを非歴史的に捉え、カースト制度ヒンドゥー教を近代化の阻害要因である非合理的な迷信とするオリエンタリズムは現代のインド観にも一般的に認められるし、その優劣の価値を逆転させたオキシデンタリズムも、シューの『クラン・カースト・クラブ』などの人類学的研究や日本のイエ論に重なっているという(浜口惠俊の「日本的集団主義」論も付け加えてもいいだろう)。
 そして、田中は、「犠牲者としてのインド」という言説が今日ではさまざまな領域に拡散しているとし、その一例として、謝秀麗の『花嫁を焼かないで』(1990年)のダウリー殺人についての、「インドの女性たちは子どもの時から自己犠牲と献身を教えられる。……その結果彼女たちは、抵抗すること、反抗することを学ばないまま大人になる。……ダウリー〔高額な持参金〕で苦しめるよりは、死んだ方が良い、自分さえ我慢すればみんなが幸せになれる。こう考えてインドの女性は忍従の日々を過ごしてきたのである。……20世紀のダウリー殺人を引き起こしている要因の一つに、彼女たちの極端な自己犠牲の精神を挙げるのは残酷だろうか。だが彼女たちに罪はない」という記述を挙げている。田中は、この語りは、インド人の態度に「彼等自身の運命を打開すべきあらゆる努力を放棄せしめる傾向」をみる網本の語りと同質のものであり、「そこで犠牲者としてのインドと女性とはどちらも主体性のない存在として口を閉ざされてしまうことになる」(64頁)と指摘する。そして最後に田中は、河東忠の文章を引用しながら、「河東の文章はインドが迷信の国であること、それについて英国はなんの改革も行わなかったことを寡婦が直面する悲惨な状況を例に鋭い口調で論じている。しかし、かれはそこからインド独立に際しての日本の役割や意義、さらには日本の優秀さの礼賛へと筆を運ぼうとしない。その代わり、かれは競泳などに熱中する若者たちへと視線を移し、そこにインドの可能性を求めようとする。わたしには異文化を一枚岩とみなそうとしない、こうした記述にこそ、ポスト大東亜共栄圏の状況を克服する可能性が潜んでいるように思えてならない」(65頁)と結んでいる。
 ここで「異文化を一枚岩とみなそうとしない」記述とされている河東の文章とは、「併しこの古い印度を後目にかけるように火葬場のすぐ川下には青年たちの水泳場がある。死骸を焼いた灰の流れる水を呑吐して盛んに競泳をやったり、ウオーターポローを楽しんでいる。迷信に骨の髄まで蝕まれて死ぬ準備に忙しい老人や不具者の群のみを見て印度の全貌を判断するのは誤りだ。英国がいかに嫌っても妨害してもこの腐った印度を肥料として若い目覚めた印度はどしどし発育していくのだ」というものだ。田中が、おそらく人類学者がフィールドで見聞する日常生活の多様性を念頭におきながら、それを一枚岩の記述に整理してしまわないことに、ポストコロニアル、ポスト大東亜共栄圏的状況の克服の可能性をみていることは理解できるが、因習に囚われた老人たちと文明化の未来を担う若者たちとを二分法的に対置する、河東のこの文章は、「文明化の使命」を掲げる植民地主義的言説では紋切り型といってよい。それは、教育の犠牲者であるインドの女性たちの極端な忍耐強さ(受動性)と目覚めたフェミニストたちとを対置させる謝の言説と同質の言説であり、そこでは、対置されたそれぞれの集団が一枚岩とみなさているのではないだろうか。それを克服するには、「迷信に骨の髄まで蝕まれて」いる老人たちや、「極端な自己犠牲の精神」を押し付けられてきた女性たちの日常生活にこそ多様性を見出していくことが必要とされているのではないか。
 つぎの百瀬響の「北進と民族学――河野広道の軌跡を通じて」は、編者のいう「植民地人類学」にもっとも忠実な論文である。ここで百瀬は、昆虫学者であり北海道の民族学と考古学の草分けとされる河野広道(1905-1963)の研究を詳細に追いながら、その歴史的・個別的文脈を考察している。百瀬は、河野が「軍事昆虫学」の研究として北樺太の吸血昆虫の調査などをしたが、それは北方の厳しい自然環境での軍事行動や出稼ぎ労働のためだけではなく、そこに定着して生活するために必要な「森林昆虫学」や北方の生活文化の研究に繋がっていたと指摘する。そして、河野の「北方文化論」は、資源収奪型の植民地経営が北海道や樺太での移住者の定着率を低下させ、定住に必要な「北方文化」の建設を妨げていると批判するとともに、経済的利益から離れた精神性を強調する従来の北方文化論と違って、逆に「“土着”の北方人」の経済的利益を優先する論を説いたと述べ、そこに科学主義とともにマルクス主義の影響をみている。
 百瀬は、「当時の時代背景に加え、関与した研究者らの個々の『事情』をも合わせて論じることは、単純な過去の批判に堕することのない、より『実際』に近い日本民族学の歴史を記す上でも必要である」(104頁)という。アイヌ研究者としての河野は、「アイヌ解放運動」の文脈では、「アイヌを単なる研究材料としてしか見ない」典型的な「和人のアイヌ学者」とされている。しかし、百瀬は、父河野常吉と同様に広道にも多くのアイヌと物心両面における交流があったことが現在河野家に残されている手紙などからわかるとしながら、注で、現在の河野のイメージは、アイヌ出身の言語学知里真志保との学説上の論争における知里の河野に対する言説を、政治運動上の文脈において「アイヌによる批判」として囲い込むことによって形成されたものと指摘している。このような個別性を重視する百瀬の姿勢に評者も賛同するが、研究者の個々の「事情」を見てしまうことが「告発」を困難にするとともに、和人とアイヌの間の支配−被支配関係を隠してしまう恐れもある。個々の事情を見ていくことがどのように従来の研究の「脱構築」へと繋がるのかという問題がここにも現れているように思われる。
 4番目の宋秀環の論文「日本統治下の青年団政策と台湾原住民――アミ族を中心として」は、編者のいう「植民地人類学」というより、山下晋司・山本真鳥編『植民地主義と文化』などに収められた諸論文に近いものである。この論文で、宋は、台湾アミ族の伝統的な年齢階級制が、日本統治下で皇民化運動を推進するための「青年団」へ、その類似性ゆえに速やかに組替えられていったと同時に、その年齢階級制の原理そのものによる抵抗によって、皇民化・日本化は言われているほどには浸透していかなかったと論じている。年齢階級制がないタイヤル族では、青年団が同化や皇民化政策を浸透させるのに一定の役割を果たしたのに対して、厳密な年齢階級制が存在したアミ族では、若者が年長者に影響を与えることが無理という矛盾をもっていたゆえに皇民化運動を浸透させることは困難だったというわけである。それについて宋は、前川啓治の『植民地主義と文化』の中の論文における「翻訳(的適応)」という説明を引きながら、「被支配の彼らはいくら権威の下に置かれても、外来のものを全面的に受け取るわけにはいかない。彼らは『自身の伝統的な観念や価値に基づ』いて、戦略的にそれを受けとったのである。この戦略は外面的には、受け取ったと見えても、内面的では拒否していたといってよい」(160頁)と述べている。
 ただ、青年団と年齢階級制との間の「翻訳」は、アミ族の側だけが行ったのではなく、最初に行ったのは植民地政府の側による年齢階級制の「青年団」への翻訳である。つまり、アミ族は、外来の新しいものを、彼ら自身の伝統的観念や価値に基づく形態へと「翻訳」したのではなく、何に翻訳すべきかをすでに指定されていたというべきだろう。そして、宋は、それらの「翻訳」において、官製の青年団のほうは意図どおりにならずに変質されられたとしているけれども、アミ族の年齢階級制の変質については共同体の原理が貫徹されたとしか捉えていないようにみえる。たしかに、宋は「植民地政策を完全に拒否することは不可能なので、その政策を部分的に受容していくうちに、伝統的な政治形態、社会集団の機能、年齢の威信体系などに多少の変化が生じていく」(161頁)と述べているが、具体的にどのような変化があったのかは明らかにされていないのである。
 宋の論文はたしかに日本の植民地統治を扱ったものだが(そして論文の水準も低くないものだが)、そのスタイルは、戦前の民族誌民族学的研究を歴史的文脈に置くという「植民地人類学」とは違って、編者の中生が外国のポストコロニアル理論を輸入したものとする、近年の日本人人類学者の植民地やオリエンタリズムを扱った論文のほうに類似しており、正直にいって、編者の意図がどこにあるのか、よく分からない。
 崔吉城の「日帝植民地時代と朝鮮民俗学」は、他の論文と違い、植民地時代の朝鮮民俗学に関わった日本人学者と被植民者である朝鮮人学者の双方の研究を扱っているという特徴をもつが、秋葉隆の研究と朝鮮観を詳しく取り上げている点で、「植民地人類学」に忠実なものといえるだろう。崔は、植民地統治初期の朝鮮民俗の研究が、同化政策と近代化を推進する朝鮮総督府主導の調査研究から始まり、そこには日本人と朝鮮人の学者の間に民族による差別はなかったが、互いに協力しあうといっても実質的には朝鮮人学者があたかも日本人学者の被調査者のように扱われるなかで、朝鮮人学者による朝鮮民俗学は、日本人学者への反発と刺激によって出発し発展していったという。そして、戦後の韓国民俗学は、同じく反日・反植民地のナショナリズムに出発点をもつために、総督府の調査研究資料に対して先入観による否定的評価をする傾向にあるが、学問的連続性はあり、資料批判をした上で学問的価値を受け入れることは、韓国研究に実り多いものとなるという。
 また崔は、秋葉隆の研究と朝鮮観を、入手した未発表原稿を使いながら示しているが、その記述は揺れ動いているようにみえる。まず、秋葉が「本国に対しては朝鮮の保護者のような態度を取り、朝鮮に対しては帝国主義者のような態度を取ったようである」(182頁)としながら、差別感をもっている「朝鮮人」と呼ばずに「朝鮮の人」「朝鮮民族」という言葉を使い、「朝鮮を客観的に見ようとしていた」という(193頁)。さらに、「しかし、秋葉の公平な視点の限界は、朝鮮の人の美点とか良い点ばかりを見ることこそが偏見であるとは思わなかったことである」と指摘しながら、「このような言説は、朝鮮について悪く言う人が多かったので、美点を探してバランスをとり、全体的に公平にしようという考えがあったのであろう」(195頁)とも述べている。そして、秋葉は「内鮮一体」や「大東亜共栄圏」に付和雷同の考え方をしていると言いながら、朝鮮が健全な共同社会を維持しながら発展していく可能性をもつとし、その点では日本より可能性をもっていると考えていたと指摘している。評者は、秋葉が朝鮮の良さとして「共同社会」や「原始宗教」を強調することは典型的なオリエンタリズムだと言えると思うが、崔は、秋葉が、民族学者としては当然のようにインフォーマントに丁重に接する一方で、当時としては当たり前の植民地主義者だったという指摘だけで終わっているようにみえる。
 最後の、中生「内陸アジア研究と京都学派――西北研究所の組織と活動」は、敗戦直前に張家口に設立された西北研究所の組織と活動を、当時の所員の聞き取りによる証言も使いながらまとめたもので、そこで組織された蒙古草原探検隊の成果が、所長で探検隊長だった今西錦司や隊員の梅棹忠夫らによって、戦後「遊牧論」となり、京都大学の生態人類学の形成に繋がったこと、また、そこでの研究が蒙彊連合自治政府の統治政策と関わりがあったとしながら、ソ連国境付近に居住していたオロチョン族やイスラム教徒の動向調査と宣撫工作に比べてモンゴル人への宣撫は軍事的側面からは重視されていなかったため、西北研究所のモンゴル研究は自由な研究が可能だったたこと、国策に沿った研究は民族研究所との共同プロジェクトであったイスラム研究のみだったことを指摘している。
 西北研究所の当事者へのインタヴュー調査をしながら歴史的事実の「発掘」を行う中生の地道な作業は、日本の民族学・人類学史を書く上での貴重な基礎研究となろう。中生は、「戦時中の研究を、戦争協力という単純な図式で否定することはできない。戦前と戦後の連続性の認識のなかで、研究と時代の制約を認識することが、現在の民族学・人類学の存在根拠であることを、歴史資料を通じて明らかにしたい」(247頁)と述べている。けれども、この論文だけにかぎれば、同研究所に多くいた「戦後の民族学を支えてきた研究者」が、たまたま国策から離れた自由な研究ができ、その資料を持ち帰ることができたという、同研究所の個別的な「事情」を認識することが、どうして「現在の民族学・人類学の存在根拠」を明らかにすることになるのか、評者にはよく理解できなかった。
 以上、各論文に対するコメントを述べてきたが、ここで最後に、本書の作業が「どのように『日本のオリエンタリズムの克服』につながるのかという、冒頭に挙げた問いへの答えを考えてみたい。最初にも述べたように、研究者の戦争協力や植民地主義オリエンタリズムを「告発」する語りは、どうしても告発の対象を単純化・一元化して「一枚岩」とみなす語りになる。つまり、それが批判しているはずのオリエンタリズムと同質の語りになってしまうのである。評者が本書を高く評価するのは、そのような単純化・一元化を意識的に避けようとしている点である。田中論文では、「異文化を一枚岩とみなそうとしない」記述に「ポスト大東亜共栄圏の状況を克服する可能性」を見出していたし、百瀬論文では、「研究者らの個々の『事情』をも合わせて論じること」が「単純な過去の批判に堕することのない」歴史を記す上で必要だとされていた。そこには、文化を「一枚岩」とみないことがその内部の階級やジェンダーや世代などを一枚岩とみなすことにつながる危険性や、個々の事情の多様性・個別性を論じることが全体的な支配−被支配関係を隠してしまう危険性は見過ごされていたようにみえるけれども、評者は、基本的にはそのような姿勢に賛同したい。
 しかし、本書がはらんでいる最も重大な問題点は、歴史的真実を検証するといった一見中立的な作業が、「真実」の探究を前提としている点で「告発」の語りやオリエンタリズムの語りと同質になってしまうことにある。編者は「あとがき」で、人類学による「記憶の発掘」と歴史学による「記録の発掘」の「二つをフィールドワークでつなぐことが、本書で提唱する『植民地人類学』なのである」(263頁)と述べているが、その作業が人類学の「再構築のための創造的破壊」となるためには、フィールドワークによる「記憶の発掘」の目的を、歴史的事実の検証とすべきではないだろう。編者は、フィールドで「植民地体験を語ってくれる人々の記憶は、単に文献の上に残された記録とは種類の異なる、タイムカプセルのようなものである」と述べているが、生きられた「記憶」は、人類学者による発掘を待っている「タイムカプセルのようなもの」ではない。それは歴史的事実が埋められている容器ではけっしてなく、たとえそれが歴史的事実ではなくても(そういうことは充分にありうる)、それを生きている人々の現在の「リアリティ」を構成するものなのである。つまり、それらの記憶は、「告発」に役立つ歴史的事実なのでも、「脱構築」すべき虚構なのでもなく、生活上の人と人とのつながりにおいてのみ「真正なもの」となる「リアリティ」である。したがって、それは、歴史的事実に近いか遠いか(いいかえれば、「事実」か「虚構」か)という視点から判断されるべきものではなく、現在の生活における人と人とのつながりのなかで多様性やズレを含みながらも共同化され、一人一人にとって生きた物語になっているという視点から捉えられるべきものであろう。そして、「植民地体験を語ってくれる人々の記憶」をそのような多様性と共同性によって捉えることこそ、「告発」でも抽象的な「脱構築」でもない、オリエンタリズムの克服につながる糸口になるのではないだろうか。

*この原稿は、もともと『アジア経済』(アジア経済研究所)のために書かれた書評を、紙数の都合で削減した部分などを復元・拡張した版である。

(2001/07/12 更新)