ポストモダン人類学の代価−ブリコルールの戦術と生活の場の人類学 その3 小田亮

結論 生活の場の人類学へ向けて

 すでに見てきたように、近代世界システムと現地の文化の接触における「伝統の発明=創出」をどう捉えるかは、ポストコロニアル人類学にとって重要な課題であった。松田素二[1990: 35-9]は、伝統の創出という現象の生成源を、1,近代国家の「支配の必要」、2,資本主義システムの「接合の必要」、3, 地域居住者の「生活の必要」の三つに分けて、人々の「生活の必要」による伝統生成にこそ注目すべきだとし、その理由を、「なぜならそのとき私たちは、同じ生活者としてアフリカと同じ立場にたてるからだ」[ibid.: 47]と述べている。このことには、伝統の創出という歴史人類学的な問題にとどまらず、人類学にとってより大きな意味があるように思われる。
 松田は、「私たちがアフリカの伝統から何を学ぶことができるのか」という問いに対して、アフリカの「生活の必要」に基づく伝統生成が柔軟であること、その点が近代を支えるイデオロギーとは対照的であること、そして、そのような「柔軟な生活知」を概念化と全体化によって「コチコチの教説」に変えてしまう「近代知」から脱け出す道すじを示してくれるという[ibid.: 47-8]。ここで「現地の人々に学ぶ」という言い方で表明されていることは、エコロジカルな現地の人々の知恵に学ぶといった野生の知や民衆の知の実体化でも、また「異なるもの」のロマン化でもない。それは、研究者によってあらかじめ実体的・概念的に捉えられた「異なるもの」としての伝統文化や民衆文化とは無縁のところで、誰もが一貫したアイデンティティの形成などなしに、自己を肯定的に形づくる「生活の場」への注目なのである。
 近代知に抗する生活知やブリコラージュ的戦術は、私たちが失ってしまったものでもないし、その差異ゆえに私たちの文化への異議申し立てになるといったものでもない。それは、私たちも同じ生活者として共有しているものであり、「生活の場」では当たり前の知や実践なのである−ちょうど隠喩や換喩による断片の連鎖が生活の場でのことばとしては当たり前のつながりであるように。当たり前ではないのは、隠喩や換喩といったことばのつながりを全体と部分の階層的関係に還元して、それらのことばを使っている者ではなく、一望監視装置によるように、全体を見通すことのできる者こそがそれらのことばの本質を理解し表象できるとする近代の知のほうなのである。
 「同じ生活者として」という、ある意味では危ういことばは、世界システムの中核的地域(メトロポリス)に住む私たちと、周辺的地域に住む彼らとが同じ生活をしているということではもちろんない。また、支配者もオリエンタリストも人類学者も、同じ生活者として同じ生活知を有しているというのであれば、近代知と生活知の区別など無意味ではないかという疑問も出てこよう。しかしながら、近代知と生活知の区別、あるいはレヴィ=ストロースのいう技術者の知とブリコルールの知の区別は、デリダ[1983: 224]のいうように、技術者や科学者もブリコラージュを行うからといって、解消してしまうわけではない。技術者がブリコラージュを行っていても、その技術者が全体化された近代知に囚われている限り、ブリコルール(生活者)と同じ地平に立つことはない。「私たちがアフリカの伝統から何を学ぶか」という問いへの松田の答えを、私なりに言い換えれば、一元的な物語を放棄するブリコラージュを自分たちも実はしているのだということに気づくことである。そのためには、「柔軟な生活知」としてのブリコラージュのあり方を分析し記述することが重要となる。
 関根康正[1994、1995]の提唱する「〈地続き〉の人類学」も、「『通常の価値』の共有性」というボトムの次元に目を向け、南インドの人々と私たちとが同じ〈地続き〉の世界にいるということに、個別文化を超える非実体的な「普遍性」を見いだすことによって、オリエンタリズムから脱け出すと同時に相対主義アポリアからも脱け出す道を探る正当な試みと言ってよい。
 関根は、〈地続き〉の場を「生きられる文化」と言い換えて、発明された伝統としての「カースト」と「浄・不浄」イデオロギーからなる一義的で階層主義的な支配イデオロギーの下に置かれたハリジャンの戦略的行為に注目しながら、彼らの「生きられる文化」の核心には、実体的で硬直したカーストを規定する浄・不浄イデオロギーではなく、ケガレの観念を共有する柔軟な――すなわち操作の自由度の大きい――〈親族の地平〉において人々が肯定的な自己を形作る生成過程があるという。そして、〈地続き〉の場とは、近代の知に見られるような中心化・全体化に向かう実体的・概念的な「普遍」ではなく、ケガレの観念に見られるような脱中心化・断片化の契機をはらんだ「境界的事象」の場であり、そのような生成変化の場としての境界的事象の場所に向かうことが、「フーコーの目指す『外の思考』であり、『従属的な知』の場所こそが、反転して、権力の知の外部に逃走していく『民衆的な知』の拠点となるという展望的主張である」[関根 1994: 53、1995: 357(注13)]と述べている。
 また、被抑圧者としてのハリジャンに見られる、抑圧の制度を受け入れてしまう態度とそれに反発する態度との共存を、「『自己拡張』を求めてのハリジャンの戦略的行為の部分部分」[関根 1995: 41]と解釈できると関根はいう。つまり、関根は、ハリジャンの戦略的行為の一つ一つは首尾一貫したものではないと言っているわけだ。本論文の言い方を使えば、ここにも、与えられた状況に応じた臨機応変サバルタンないし民衆のブリコラージュ的戦術を見てとれる。
 そして、関根によれば、従来のハリジャン研究に見られる〈文化断絶論〉と〈文化合意論〉の論争は不毛の対立であり、両方の立場とも問題を残している。〈断絶論〉とは、ハリジャンが支配カーストとは異なる文化を生きており、しばしば支配文化に意識的に対抗するために対抗的文化を作っているとする立場であり、一方、断絶論に対抗して登場してきた〈合意論〉は、ハリジャンが支配文化の価値体系を模倣することで支配イデオロギーを受容しており、ハリジャンも支配カーストも同一の支配イデオロギーを共有しているとする立場である。
 同じインドの支配文化との接合を問題にしているハリジャン研究において対立する二つのアプローチの問題点は、春日の言う、西欧近代の資本主義システムと土着の文化との接合に関する対抗・創造論と同化・持続論の対立の問題点に似ている。すなわち、ハリジャン研究における〈断絶論〉と〈合意論〉の対立が不毛であるのは、資本主義システムとの接合研究における対抗・創造論と同化・持続論の対立が不毛であった理由と同じように、両方のアプローチとも、民衆やサバルタンがあたかも首尾一貫した計画をもっているかのように捉え、ハリジャンの状況的な戦術による「豹変」を看過しているからである。
 例えば、関根[ibid.: 34]が合意論に対するドゥリージェの批判を引いて述べているように、合意論は「模倣が必ずしも合意ではない」という見方に立つことに失敗している。事実、ハリジャンが支配イデオロギーを模倣しているとしても、合意論が見落としているのは、その模倣やミミクリ(ものまね)が、むしろ全体化や種的同一性に基づく支配テクノロジーに隙間をあける戦術となっていることなのである。
 そして、断絶論が「ハリジャンが支配イデオロギーに包摂されているだけの単なる無力な追随者ではなく、むしろ自覚的な解釈者であることを明らかにしようとした」ことを評価する関根[1994: 348]が断絶論を批判するのは、支配カーストとハリジャンとの断絶はそれぞれの置かれた社会的歴史的条件を強く反映した戦略的行為のうちに存在するのに、断絶論が、支配の力関係によってハリジャンの実践が歪むことを考慮せず、あたかもハリジャンの固有の文化があるかのように記述する誤謬 をおかしているからである*1。ただし、関根は、ハリジャンの戦略的行為が模倣から反発まで状況によって一貫しないことを、イデオロギー装置の支配下に置かれた被支配層の実践の特徴としながらも、そのこと自体を〈妥協と抵抗〉として評価しているというより、ハリジャンの自己拡張という一貫した戦略が支配文化の圧迫によって歪み、断片的で屈折の多いものにならざるをえないという、支配関係の力学の反映という側面に注意を向けている*2
 もちろん、私も、ブリコラージュ的戦術が、支配文化に絡めとられているという支配‐被支配関係においてのみ実現することを強調し、それを忘れると文化の流用や異種混交性を実体化してしまうと注意しておいたが、ここで関根の論点に従って、もう一度その陥穽に注意を促すことも無駄ではないだろう。本論文で提示した、ブリコラージュ的戦術に注目する「生活の場の人類学」は、文化の異種混交性に注目するポストモダン人類学と並行する部分がある。しかし、ポストモダン人類学は、「大きな物語」が散逸した後の浮遊する断片に目をひかれるあまり、私たちが依然として大きな物語に支配された世界に生きていること、そして柔軟な生活知やブリコラージュ的戦術への注目はそこから脱け出す道筋を示すためのものだということを忘れてしまい、流用や異種混交性やクレオールディアスポラといった概念が現実の支配‐被支配の力関係を無化するものだと見なしたり、そうでなければ、支配文化から断絶した「断片」の固有性にこだわってアイデンティティ政治学に陥るかのどちらかになってしまう*3
 その意味でも、生活の場が支配‐被支配関係に絡めとられている場であるということ、そこには私たちに固定されたアイデンティティを刻印しようとする力がつねに働いていることを忘れないようにしなければならない。生活の場とはけっして支配文化や支配関係の力学から無垢の場ではない。支配‐被支配の関係に再び注意を向けることが必要だという際に、最も注意すべきことは、それが、支配文化と被支配文化、あるいはエリート文化と民衆文化といった対比をあらかじめ固定された二元論的対立として設定することとは違うということである(そのような二元論的対立の実体化は、すでに構造主義が批判したものであった)。
 そして、断絶論と合意論の二者択一のジレンマは、そのような実体化に根をもっている。ブリコラージュと科学的思考の対比や、戦術と戦略の対比(支配文化と民衆文化の対比)は、そのような実体化を批判して提示されたのであり、固定された二元論的対立の実体化によって見落とされるものを、そして実体化された二元論的対立をやり過ごすためのものを、ブリコラージュや戦術が駆使される「生活の場」と呼んだのである。
 本論文で提唱する「生活の場の人類学」とは、自分が植民地主義者でもオリエンタリストでもないことを宣言するといった取るに足らない目的のために、過去の人類学を非難することで自分を安全地帯におくためのものではない。現時点で反植民地主義や反オリエンタリズムの立場にたち、研究者の使命を現地人の支援とし、過去の研究を帝国主義的だと非難することは、過去の研究者がエリートとしての自分の使命を現地人のための「文明化の使命」に置き、帝国主義者になるのと同じくらい良心的で安全なことだろう。そのようなことは研究者自身のアイデンティティ政治学によるものでしかない*4
 私たちが同じ生活者として同じ生活の場に立っているということは、そして、自分たちがアフリカやサバルタンに学ぶということは、私たち自身が、近代の支配テクノロジーに囚われているという自省であり、自分の生活の場から何とか「部分的な真実」を引き出して、全体化の思考としての支配テクノロジーに隙間を明けようとする営みでしかない。それは、端的にいえば、サバルタンのもとに赴いて「サバルタンになること」を学ぶことである。
 日本というメトロポリスに住む者がサバルタンになることなど、サバルタンを階級的に捉えていたのでは不可能なこととしか思えない。しかし、セルトーが民衆の「戦術」のなかに、被征服者であり植民地状況にある南米のインディオたちの、「[スペインの征服者に]押しつけられた儀礼的行為や法や表象に従い、時にはすすんでそれをうけいれながら、征服者がねらっていたものとは別のものを作りだしていた」[ド・セルトー 1987: 14]という戦術とともに、インディオたちの抵抗ほど重みはないが、西欧のメトロポリスに住む消費者たちが支配文化やメディアに押しつけられた商品を自分の用途に応じて勝手に使用してしまう[ibid.: 94]という戦術を含めていることを思い起こそう。関根のいう、ハリジャンと私たちが〈地続き〉になることがもし可能であるとしたら、そのような意味での連続性によるしかない。いいかえれば、私たち自身がそれとは気づかずに実践している「戦術」を思い出すために、アフリカやサバルタンのもとに赴く必要があるのであり、自分たちが支配文化によって与えられた言説やイメージや商品を別のものに使用するその使用法を分析するために、私たちは「文化を書く」必要がある。それは、自分たちと断絶した他者の文化についての自分の首尾一貫した解釈や物語を書くことではなく、私たちと〈地続き〉の「生活の場」において、ちぐはぐにつなげられた斜線(横断線)の《ずれ》や豹変や跳び越えの分析を通して、「断片的になること」を学ぶこと、いいかえれば近代の支配テクノロジーや「モノマニア的な想像」、そして、主体というものが自己の周囲のさまざまなつながりから独立したものと考える啓蒙主義的な主体観から遠ざかることを学ぶことに他ならない。
 そして、そのような分析、すなわち、自己の首尾一貫した知識や意識とは別のところで、自分が行使しているはずの独自の使用法(ブリコラージュ的戦術)を分析するには、構造主義による構造分析が最も適切な方法であり、生活の場の人類学は、構造人類学をその真の可能性において踏まえる必要があるというのが、私の確信である。民衆文化のブリコラージュ的戦術は、生活の場における断片から断片へと引かれた《斜線》や《隣接性》の原理の抽出と、それを可能にする隠喩的関係と換喩的関係との間の変換の規則を抽出すること――すなわち構造分析――によって、明らかにされ記述される。すでに述べたように、民衆やサバルタンの戦術や生活知に学ぶということは、民族や階級や性差や職業や地位といった同一性によって規格化された個人が首尾一貫した自己の言説や知や実践を意識的・自覚的に把握するという近代知から遠ざかることであるが、それはブリコラージュ的戦術に見られる生活知の構造分析によってなしうる。たしかに、その構造分析は、人類学者による「解釈」であるが、それは一元的で完結的な物語を作ることはないし、また、一望監視装置のごとく自分だけがすべてを見通せる特権的な地点に立つことにもならない。いいかえれば、それは研究者のアイデンティティ政治学に陥ることはない。
 例えば、神話の構造分析は、神話が自己完結的な物語ではなく、神話間の変換によって生成されたものだということを、その変換の規則を明らかにすることで示そうとする。そこでは、神話の作者個人の意識的で主体的な実践なのではなく、いわば無意識の作用であることが表明されている。しかし、その無意識とは個人の心の貯蔵庫といったどこかにあらかじめ存在するものではなく、変換によってはじめて、そしてその変換のつど広がっていくような隣接性による場のことである。レヴィ=ストロースは次のように言う。

 神話分析の目的は人間がどのように考えるかを示すことではないし、またありえない。ここで扱う特定のケースについても、中央ブラジルの原住民たちが、彼らの好む神話物語の話自体に加えて、私が取り出して見せるような関係の体系を自ら実際に考えているかどうかは少なくとも疑わしい。これらの神話によって、フランスの俗語に用いられる古い言い回しや比喩的表現のあるものについてなるほどと思うことがあるが、そのときにも同じことが確認される。外部から、異国の神話に引っぱられて、われわれに回顧的意識が生まれるのである。それゆえ、本書で著者の意図するところは、人間が神話の中でいかに考えるかを明らかにすることではなく、神話が人間の内において、人間の知らぬまに、いかに考えられて行くのかを示すことである。……さらに一歩進めて、あらゆる主体を捨象し、神話は、ある意味で神話どうしの間で考えられてゆくものであることを考察するのが適切かもしれない。[レヴィ=ストロース 1992: 126]

 このような言い方でレヴィ=ストロースが表明しているのは、よく誤解されるように、神話にはこれこれの構造があるが、それを生み出したり語ったりしている人々(原住民)はそれに気づいていないということではない。レヴィ=ストロースの分析もまたいろいろな神話間の相互変換によって触発されたものなのであって、さまざまな二項対立群やコードの抽出や変換の規則は、レヴィ=ストロース(分析者)自身がいろいろな神話の間の交通のための媒体となることによって、「神話どうしの間に」見いだしたものである。分析者はいわば無意識の場と化しているのであって、そのとき、神話の構造分析は、神話を生み出している神話どうしの間の思考の一つとなっている。したがって、レヴィ=ストロースが言うように、「本書〔『生のものと火にかけたもの』〕を一つの神話と見なすことも間違いではない」[ibid.: 126]。
 このことは、生活知の構造分析にも当てはまるだろう。そこで表明されるのは、分析者だけが主体的で意識的な理性的知をもっているということなのではけっしてない。むしろ、構造主義的研究において解体されてしまっているのは、そのような知が前提としているもの、すなわち、個人が首尾一貫した自己の言説や知や実践を意識的・・自覚的に把握しているという前提であり、理性をもった主体としての人間があるものごとや体系や世界の意味を客観的に認識できるという前提、そして自由な主体の意識がものごとの意味を決定できるとするような前提なのである。(はじめに戻る


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*本稿は、『国立民族学博物館研究報告』21巻4号に掲載された論文の短縮・改訂版です。
(2001/06/23 更新)

*1:このような断絶論は、被抑圧者が無気力な追随者ではないことを示すための議論が陥りやすい罠である。例えば、保坂実千代[1995]は、バンバラの女たちが、男たちとは異なる仕方で言語と社会関係を操作していることを示した、優れた論文で、女たちが男性に支配された言語を使うしかない単なる「ドミネイトされた集団」であるという考え方を批判し、男女が別の論理と「社会的空間」をもち、そこには異なる二つの表象モードが見られるのだと結論づけている。だが、そこでは、表象モードが一義的に語り方や記号の使い方を規定するという前提のために、被支配者が支配文化に絡めとられているゆえに一義的ではない戦術的な語り方が可能になるということが見えなくなっているように思える。

*2:この民衆の戦略の一貫性という視点は、ブルデューの「戦略」概念からきているように思われるが、ド・セルトー[1987: 125-45]のブルデュー批判が明らかにしているように、ブルデューは、セルトーのいう「戦術」に、首尾一貫した「戦略」による自由な振る舞いを見てしまうゆえに、他方で、実践を構造化する「ハビトゥス」というドグマティックで実体的な場を想定せざるをえなくなっている。これは、主体や行為者に一貫した意志や計画を導入することの危険性を示すものと言えよう。それに対して、関根のいう自己拡張の「戦略」は、ブルデューのそれより広い意味で使われており、必ずしもそこに一貫した意志や計画を導入する必要はないように思える。

*3:人類学の例ではないが、シャルチエは、最近のインタビューで、自分が普及に一役買った「流用(領有)」という用語が、文化における支配被支配の現実を見えなくしていることもあるとして、「今日では、文化の多層性と領有[流用]にかんする認識は一般化したように思われますから、こんどはそのうえで、支配被支配関係を見通したなかに、文化の多層性と領有[流用]という問題を意識的に再導入したほうがよい、と考えています。たしかに、民衆文化については、一方にバフチーン流の、独自な象徴体系をもった、一種自足的に閉じられた、かつ生き生きとした世界を想定する見方があり、他方には、ブルデューの議論を押しつめるとそうなりますが、象徴支配のなかに置かれて、もっぱら否定的にしか定義されないとする見方がありました。わたしにいわせれば、そうしたアンチノミーをのりこえるためにも、文化における支配被支配関係を見据えたうえで、多層性と領有[流用]を考えることが必要だ、と思います」[シャルチエ 1995: 92]と述べている。

*4:つまり、クリフォード[Clifford 1986:18]が注意しているように、過去の人類学の知に、反植民地主義的視点やフェミニズム的視点が欠けているといった隙間を指摘し、その隙間を埋めることで、自分たちは政治的に正しい知を持っていることを示すものであってはならないということである。