ポストモダン人類学の代価−ブリコルールの戦術と生活の場の人類学 その2 小田亮


 第2章 ポストコロニアルとブリコラージュ

 1 「伝統の発明」と文化の構築

 ポストモダン人類学は、サイードオリエンタリズム批判がいまだ本質主義の尻尾を引きずっていると批判しているのと同様に、ホブズボウムとレンジャーらの「伝統の発明」論に対しても、本質主義を完全には脱していないと批判している。この節では、その批判を検討していこう。
 ホブズボウムとレンジャーが編集した『伝統の発明』(1983年)以降、さまざまな地域の国民国家における「伝統の発明」が指摘されるようになった。そして、近代の「伝統の発明」の条件となっているのが、ネイションのような「想像の共同体」である。考えてみれば、新しく創り出されたもの、すなわち、いままで見たことも聞いたこともない事柄を自分たちの「伝統」として受け入れるなどということがなぜ起こりうるのだろうか。そして、「伝統の発明」などということが、なぜ近代になって大量に起こってくるのだろうか。自分たちの慣習や文化というときの「自分たち」という共同体が、顔を合わせたり聞き及んだりする可能性の範囲内のものであれば、誰かが新しいものごとを「伝統」として発明したとしても、それを「伝統」として受け入れることはないだろう。新しく創出されたものが自分たちの伝統として受け入れられるには、自分たちという共同体が、目で見たり耳で聞いたりする可能性の範囲を越えていること、にもかかわらず、それが自分たちの共同体として明確な境界によって限定されていることが必要条件となる。そのような共同体こそ、アンダーソンが「想像の共同体」と呼んだネイションである。
 つまり、見聞きする範囲を越えた共同体がネイションという自分たちの共同体になったとき、はじめて「伝統の発明」ということが可能となる。逆にいえば、村や地域の伝統を創出したり捏造することは不可能だが、ネイションという「想像の共同体」の伝統であれば、新しく創り出されたものであっても、伝統として通用しうるというわけである。
 「伝統の発明」論は、人類学でもすでに当たり前のものとなってきている。それは、人類学がこれまで対象にしてきた旧植民地諸社会において、ナショナリズム(ネイション形成)と結びついた、植民地化の過程で破壊された伝統や土着文化の復興という形の「伝統の発明」が顕著になったことと無関係ではない。「伝統の発明」はポストコロニアル状況を指す一つのキーワードとなっている。ロジャー・キージング[Keesing 1989]は、ポストコロニアルの太平洋島嶼国民国家での分離主義的なナショナリズム国民国家内のマイノリティの闘争のレトリックにおいて、政治的象徴として過去を創造するといった「伝統の発明」が盛んにみられることを指摘している。けれども、同じ太平洋島嶼諸社会の研究者を中心としたポストモダン人類学者たちは、「伝統の発明」論に代わって「文化の客体化(objectification)」論あるいは「文化の構築(construction)」論を展開している[Jolly and Thomas 1992; Linnekin 1992;Thomas 1992; 太田 1993]。そこでは、発明された伝統の虚構性や虚偽性の指摘から、文化の創出における意識的・操作的な主体性や創造性の強調へと重点が置き換えられている。
 つまり、ホブズボウムは、近代のナショナリズムと結びついた発明された伝統と、いわゆる「伝統」社会における慣習(custom)を区別し[Hobsbawm 1983:2]、「本物の伝統 genuine tradition」の強靭さや融通性を「伝統の発明」と混同してはならないとしていた[ibid.:8]のに対して、 非本質主義あるいは構築主義に立つポストモダン人類学では、ホブズボウムが混同してはならないとしていた「発明された伝統」と民俗社会や伝統社会の「慣習」の区別や、そこに含意されている「発明された伝統」の虚偽性ないし非真正さと、伝統社会の「生きた伝統」としての慣習の真正さとの区別が、本質主義的で客観主義的であるとして放棄されている。
 例えば、マーガレット・ジョリーとニコラス・トーマスは、「ホブズボウムが行なっているように、無意識の文化的継承としての慣習を、現在の中で意識的に過去を布告することとしての伝統から区別することができるのだろうか。ホブズボウムの見解においては、一方に、『未開の部族』や農村といった、慣習が優越している自然共同体があり、他方、民族や国家のような人為的な共同体のために伝統が意識的に創造されるいうことになる」[Jolly and Thomas 1992: 241]と述べ、ホブズボウムらによる、捏造=発明された伝統/本物の伝統という区別を本質主義として批判している。また、ジョスリン・リネキンも、「伝統の発明」や「文化の構築」という枠組みにおいては、「文化は、一つの物というより、多かれ少なかれ意識的なモデルであり、ある特定の社会的・政治的に埋め込まれ、利害関係のある人間の操作に左右される表象であり、ある観念または競合する諸観念の場所である」[Linnekin 1992:251]と述べつつ、そこに「客観主義者 objectivists」と「構築主義者 constructionists」(あるいはポストモダニスト)の対立があるとしている。すなわち、リネキンを含む構築主義者は、「すべての伝統は、それらが象徴的に構築(構成)されたものだという意味において発明されたものであると主張する。真正さ――本物と偽物の区別――は人の注意をそらすものなのだ」という立場にたつのに対して、キージングのような客観主義者は「真正な過去があることを支持する」[ibid.: 255]という対立を指摘している。
 このようにポストモダン人類学者が発明された伝統(すなわち偽物の伝統)と本物の伝統(または純粋な文化)との区別の否定にこだわるのは、一つには、リネキンが示唆しているように、その区別の支持には、「本物」の伝統と「偽物」の伝統の区別をする自分たちの民族誌的権威を手放そうとしない保守的な姿勢が見えるからであり、第二に、植民地化と近代化の過程で純粋な文化がもっぱら受動的に汚染され消滅してゆくという「消滅の語り」をそこに見て取るからである。太田好信は、「純粋な文化を消え行くものと見なす語りは、対象社会に住む人々をパッシヴな継承者と措定し、その人たちの行う文化の生産・創造を『非真正な(inauthentic)』行為としてネガティヴに評価する結果を生む」[太田 1993a: 388]と述べている。
 そして、この区別を否定するもう一つの理由は、文化の動態的な構築や「客体化」が植民地化の過程以前にも見られる根本的で普遍的なものだという認識からきている。ニコラス・トーマス[Thomas 1992]は、太平洋の諸社会における文化の客体化が植民地化以前にもあったとし、その例として、首長間の交換関係など多くの交流のあり、文化的に類似したフィジーとトンガとサモアの三つの島の間で、例えば神話の中でフィジーの女の入れ墨がサモアの男の入れ墨の逆転として語られるように、「サモアのやり方」がフィジーやトンガの慣習の対照物のように意識され、そういった逆転した慣習がエスニック文化の違いの象徴になっていたと述べている[ibid.: 216-7]。
 けれども、リネキンも認めているように、文化の構築論や客体化論のほとんどが、その主題を植民地やポストコロニアルの政治に適用している[Linnekin 1992: 253]。トーマスが挙げている文化の客体化の典型的な例も、近代化を推し進めようとする植民地統治者によって親族間の物乞いと定義され、個人主義的な企業家精神の育成を妨げる非合理的な浪費とされたフィジーのケレケレという贈与慣行が、脱植民地化の過程で、フィジーの人々によって、ヨーロッパ人の様式としての個人主義的な資本主義経済とは対照的な、フィジー共同体主義的な伝統を代表=表象するものとして客体化されたという例である[Thomas 1992]。
 つまり、その例は、植民地化以前からフィジーにあったさまざまな交換の諸慣行の中から、ケレケレという慣行だけが民族アイデンティティを示すものとして選ばれ、フィジーの伝統文化の全体を表象するものとして「全体化」されたという例であり、それは、スコットランドナショナリズムにおいて、それまでむしろ野卑なものと考えられていた高地のタータン文様のキルトが(スコットランド起源ですらないのに)スコットランド伝統文化の象徴として選択され全体化されたのと同じであり[Trevor-Roper 1983]、ヒンドゥーナショナリズムにおいて、植民者であるイギリス人に対する道徳的優越を表すために菜食主義が全体化されたのと同じことだと言えよう。トーマスらがオセアニアの各地で報告している文化の客体化の事例は、植民者の側のオリエンタリズムによって与えられた表象から自分たちの伝統を提示できる要素を選び出し、その要素を全体化することによって−すなわち客体化することによって、植民地主義に対抗する民族的アイデンティティを確保するというものなのである。
 このように、文化の構築の政治学ないし客体化は、ナショナリズムと結びついた伝統の発明と同じく、近代の民族アイデンティティ(種的同一性)を提示する政治学として現れる。そして、そのような対抗的アイデンティティの必要性は、上に見たスコットランドナショナリズムヒンドゥーナショナリズムの場合と同様に、植民地的状況において最も顕著となるものだろう。
 問題は、植民地的状況やポストコロニアル状況における対抗的アイデンティティを種的同一性として確立するための客体化が、トーマスのいうような植民地化以前の文化の客体化と同じようなものとして捉えることに、どれほどの意義があるかということである。フィジーの人々が「フィジーのやり方」を「トンガのやり方」とか「サモアのやり方」との差異において把握するといった「客体化」は、国民国家以前ではどこにでも見られることであろうが、そこで把握された自己のあり方は、あくまでもその場その時の関係から切り離されておらず、種的同一性として明確に境界づけられて全体化されていなかった。つまり、そこでの「フィジーのやり方」は、ある時にはトンガのやり方と重なり、ある時にはサモアのやり方と重なりながら、むしろそれらとの交通や繋がりの中で、非一貫性や雑種性をもつものとして語られていただろう。それに対して、種的同一性にもとづいて主体化された近代のアイデンティティは、それとは逆に、交通による非一貫性や雑種性を否定する形で創り出されているのである。酒井直樹が言うように、「雑種性…がないところでは、主体化は起こりようがない」が、「国民的主体は雑種の否認としてしか構成されない」[酒井 1996: 288(注44)]のである。
 ポストモダン人類学は、本物の伝統と発明された伝統との区別を否定することによって、発明された伝統を植民地的状況における主体的で意識的な文化の創造として積極的に評価するのだが、その代価として、ホブズボウムらのマルクス主義的社会史には含まれていた近代におけるナショナリズムによるヘゲモニー批判、すなわちオリエンタリズムと同根の近代の知と権力によるアイデンティティ政治学への批判を犠牲にしている。
 ポストモダン人類学(ポストコロニアル人類学)が、そこで支払っている代価は、文化の「真正さ」すべてを本質主義として退けることによって、人々が生活の場においてそのつど認めている生活の文化の「真正さ」をも否定してしまうという代価であり、逆に言えば、「真正さのレベル」[cf.レヴィ=ストロース 1988: 26]というものを考慮しないで、あらゆる「真正さ」を否定してしまうゆえに、外部からの「伝統の発明」という現象の指摘が、植民地的状況にある周辺的世界の人々のアイデンティティの否定だと短絡的につながってしまうという代価である。そこでは、直接見聞きしたりする範囲での、つまり伝聞の伝わり方が〈顔〉と〈顔〉のつながりによるものとなっているような「生活の場」で作り出している文化の真正さのレベルと、出版資本主義やマス・メディアなどによって創られる、個人が無媒介に不可視の全体と結びつけられてしまう「想像の共同体」としてのネイションやエスニシティの形成にともなう「伝統の発明」の真正さのレベル(つまり非真正さ)とのあいだの質的な区別あるいは非連続性が曖昧になってしまっている。
 ただし、生活の場における文化の真正さは、オリエンタリストたちが東洋人に代わって表象してきた、全体化された視点からの文化の真正さとも、植民地的状況にある周辺的世界の諸社会のエリートである民族主義者たちが外部の研究者たちの「伝統の発明」論に反発して唱える伝統の真正さとも違う。その真正さのレベルの区別は、現地の人々が真正と思っていることと外部の研究者が真正と判断することのあいだの区別とは無関係である。ネイティヴ民族主義者が発明する伝統の多くは、非真正さのレベルにあるのであり、外部の人類学者がフィールドで見聞することの多くは高い真正さのレベルに属するからである(たとえ、民族誌を書くときには人類学者自身がそれを損なっているにしても)。直接見聞きしたことや〈顔〉の見える伝聞に真正さがあると言っても、それは、それらが客観的な真実だからではもちろんなく、そこには、あらゆる社会関係や状況に応じた操作や客体化があるけれども、その関係の錯綜したつながりが(すなわち〈顔〉が)可視的であるからにすぎない。
 生活の場の真正さということは、それが人々によって作り出され作り替えられているものだということを否定するものではない。ただ、その真正さとは、オリエンタリストや民族主義者たちが確保しているような、ネイションやエスニシティの伝統文化を規格化したり客体化する場所−これを生み出しているのが支配文化に属するマス・・メディアや出版資本主義であるのだが−を奪われている人々が、生活の便宜によって作り出したり変えたりしていく融通性のあるものである。それは、近代のアイデンティティ政治学に基づく本質主義によるものではなく、全体化され固定化されたら失われてしまうものであると言ってもいい。つまり、全体を見通すというレトリックによる一貫した知(定型的な近代知)が創り出す「真理」への欲望によっては捉えられないような真正さである。そのような真正さのレベルを否定してしまうと、文化の構築や客体化という概念は、すべての文化は構築されたものだという、言わずもがなの一般論となるか、文化の構築を意識的に操作し客体化する主体的な実践に限定してしまうことになる。
 さらに、近代日本が創り出した天皇制とか、ナチス・ドイツが創り上げた「アーリア神話」のような「伝統の発明」であろうと、現地の人々の創造したアイデンティティの構築であるから批判できなくなってしまうことになりかねない。また、それを現地人、すなわち「日本人」や「ドイツ人」しか批判できないとするのは本質主義的というばかりでなく、非実際的だろう。そうならないために「政治的正しさ」という基準を持ち出し、被害者や被抑圧者からの政治的批判の正当性によってそれを阻止しようとしても、今度は、例えば、ナチス・ドイツにおける「ホロコースト」の被害者であるユダヤ人の語りが、イスラエルという国民国家の一元的な物語(ネイションの語り)へと包摂されてしまうことは批判できなってしまう。つまり、そこで起こっている、個々のユダヤ人の直接見聞きしたことや〈顔〉の見える伝聞・証言の真正さから、ネイションの物語という非真正さへと、レベルが変わっていることが隠されてしまっているのである。
 このように、「伝統の発明」論の学問的な枠組みの内部で本質主義と非本質主義構築主義)とが対立している一方で、植民地化された現地のナショナリストの用いるレトリックにポストモダン主義的な構築主義脱構築)を適用することについては、「政治的に正しくない」という批判が起こっている。それが典型的に現れているのが、マオリの伝承を伝統の発明として捉えたアラン・ハンソンの論文[Hanson 1989]に対するマオリの学者の非難であり[Linnekin 1991a]、そして、キージングの論文[Keesing 1989]に対するハヌアニ=カイ・トラスクの批判に始まる政治的論争[Keesing 1989, 1991; Trask 1991;Linnekin 1991b]である。本質主義フェミニストでもあるトラスクは、民族主義者として、キージングの論文を「学問的な植民地主義」[Trask 1991:159]や「人種主義」の現れであり、白人の学者の研究しか参照しないキージングは、現地人は自分たち自身の生活様式すらよく知らないから彼らの書いたものは読む必要がないという想定を他の多くの西洋の学者と共有しており、キージングがそのまま受け入れているリネキンの主張(ハワイの「母なる大地」という観念が創られたものである)とは違って、白人との接触以前からわれわれハワイ人が土地を母と見なしているという確固たる証拠を無視していると述べ、さらに、キージングは、ハワイの民族主義者の抵抗や観光産業に対する批判を無視し、ハッピーなハワイの現地人が自分たちの「文化」を観光客に分け与えようと待っているという神話を受け入れているために、ハワイの現地の民族主義者が自分たちの生活様式について言っていることと巨大な観光産業が「ハワイの文化」として広告していること(フラ・ダンスやウクレレやパイナップルなど)とを混同していると批判している[Trask 1991: 160-1]。
 もちろん、トラスクの批判は本質主義的であり、「ハワイ人」という種的同一性にもとづいた「無実の政治学」となっている点で、オリエンタリズム植民地主義によるカテゴリーの種的同一性をそのまま写し取った「民族絶対主義」に陥っていると批判することは簡単だ。しかし、その政治的批判は、キージングの論文に対してだけではなく、リネキンやトーマスの論文に対しても向けることが可能であり、それが「政治的正しさ」を求めているだけに、リネキンやトーマスらのポストモダン人類学者にとって、その批判はキージング以上に深刻なものとなる。というのも、構築主義を徹底しようとするポストモダン人類学にとって、「政治的正しさ」は、ニヒリズムに陥らないための唯一の歯止めだからである。
 ハンソン批判では批判する側に立ち、キージング‐トラスク論争には批判される方の当事者として巻き込まれたリネキンは、「伝統の発明について語ることには、実践的・政治的・倫理的な問題が伴う。スコットランドナショナリストたちが、自慢の『高地伝統』を、ヒュー・トレヴァー=ローパーが『偽造物』の集合体と見なして破壊していることを聞いたとしたら、どんなに反発しただろう。太平洋の人類学者の多くは、文化の構築ということが学界の外部でどのように『作用する』かということについて関心を示すようになってきた」[Linnekin 1992:249]と述べ、そのような政治的な批判の重要性を認めながら、その一方で、なおもポストモダン的な構築主義本質主義的カテゴリーの脱構築)の立場も保持しようとしている。
 リネキンは、ポストモダニスト構築主義に対しては、客観主義的批判と政治的批判という二つのイデオロギー的方向からの批判があり、「客観主義の立場は、構築主義者たちは過度の相対主義に陥っていると批判し、人類学者は民族主義者の[伝統の]発明に直面したときには『真の過去』や『真正な伝統』を支持すべきだという(Keesing[1989]がその例)。一方、政治的批判は、ポストモダニストたちの政治的な素朴さを非難し、人類学者は土着の言説を脱構築することをやめるべきであり、人類学者の適切な役割は現地人を支持することにあるという」[Linnekin 1992:257]。しかし、リネキンはその両方の批判に欠陥があるという。客観主義者の批判は、文化や「本物の」伝統を定める上での自分たちの民族誌的権威を守ろうとするものだが、土着の文化を表象するという仕事を外国の学者たちが独占することはもはや不可能だからであり、また、政治的批判が要求する「現地人への支持」も、現地人の見方や声を単一で一枚岩であるかのように仮定しており、植民地的カテゴリーを複製しただけのオリエンタリズムに陥るという点で、問題を残す戦略だからである[ibid.:258]。
 このように、リネキンは、ポストモダニスト構築主義者)が「政治的に正しくない」ように見えることを認めながらも、客観主義者からの批判がオリエンタリズム的な民族誌的権威を守るだけであり、政治的な批判もまたオリエンタリズムと同じオクシデンタリズムとなるという理由で、両方の批判とも退ける。けれども、リネキンは、同時に、脱構築の徹底化を素朴に進めるだけのポストモダン構築主義を支持することも、もはやできないことを認めているようにみえる。それは、「『反規律的(countercanonical)』批判や『サバルタン(従属層)』からの批判には弱い」[ibid.:257]からである。
 構築主義者が政治的に正しくないと指摘されることについて、リネキンが、「正しくなさは不可避的に視点の問題である」[ibid.:260]とし、民族主義的な「サモア人」という自明なものとして受け入れられているカテゴリーを脱構築するとき、文化的統合を安定させようとする現地の人々(エリートたち)からは非難されるだろうが、権力やエリートの言説から除外されている人々(サバルタンたち)からは称賛されるだろうと述べて、現地のエリートの声だけが現地人の立場を代表=表象しているのではなく、現地の声は多様であると指摘して、現地の民族主義者からの政治的批判をかわすとき、サバルタンの「政治的正しさ」に頼っているのだと言えよう。であるから、構築主義に対して(現地エリートからではなく)サバルタンからの批判があるとすれば、それは無視できなくなり、ポストモダン的な脱構築を完全には支持しえなくなる。
 それゆえに、結局リネキンは、その論文の結論を、「おそらく、私たちのうちの文化の発明について書いてきた人々は、いまや、『良い人類学』を追求するなかで、脱構築をやめるかどうか−そして、どの地点で脱構築をやめるのがいいのかについての、まったくファッショナブルではない議論を始めるべきなのだろう」[ibid.:261]という、脱構築の適用範囲についての問題提起で終えるしかなかったのである。
 ポストモダン的な構築主義(非本質主義)に対する政治的な批判の鉾先は、真正な文化や本物の伝統などないという構築主義的な言説の内容に向けられたものではなく、その言説の政治性に向けられたものであり、特定の地域の文化について、外部の、その地域を植民地化した側の研究者が、民族主義者による伝統の発明=捏造を指摘するという、ポジションからくる政治性に気づかずにいるという政治的な素朴さに向けられていると考えるべきだろう。そして、確かに、現地のネイティヴ民族主義者による言説と、外部の研究者による言説との間には、たとえその内容が同じものであっても、語る主体の政治的な位置が異なっている以上、その政治性はおのずから違ってくるのだから、その政治的批判はけっして不当なものではない。しかし、リネキンも言うように、そのような政治的批判が、現地人の固定された種的同一性(非白人やハワイ人やサモア人といった)による主体化や、犠牲者の政治学アイデンティティ政治学によるものであり、オリエンタリズムの装置のような近代の支配テクノロジーにしたがったものであることも否定できない。
 しかし、「サバルタンの立場にたつ」ことによって、伝統の発明論ないし文化の構築論に対する「政治的正しくなさ」の批判が現地エリートの立場からのものであり、現地エリートによる「現地の声」の独占的表象の権威を守るものだといって、その批判をかわそうというリネキンの戦略は、キージング[Keesing 1991]がトラスクの批判に対する再批判を行ったときに採ったものだ。そこでは、サバルタンは独自の固有性をもつ階級として扱われてしまっている。また、サバルタンが現地エリートの言説や視点に必ず反対しているわけではなく、サバルタンの人々がエリートたちの言説を模倣していることもある。そのときには、リネキンが従っている「政治的な正しさ」という議論の枠組みは破綻をきたすだろう。
 結局、キージングもリネキンもサバルタンを固有の場と同一性をもつ存在として扱っている。なるほど、リネキンは現地人の声も多様であって、現地人というカテゴリーは性差や階級や世代やランクの分割線に沿って歴史化される多元的なものであることを認めており、その議論に沿えば、サバルタンの声も多様で多元的となろう。しかし、その多様性や多元性が階級や性差といった同一性をもつ分割線によって生じた複数性である限りにおいて、そこには数えられるような単一性をもつ種的同一性が複数あるだけになってしまう。つまり、たとえ一人一人の声は違うとまで言っても、その一人一人の声は同一性をもつとされているのである。
 しかし、ガヤトリ・スピヴァックが、サバルタンとは語ることができない人たちであるというとき、それは、オリエンタリストが東洋人は自分で語ることができないという前提のもとで自分たちの表象=代弁の権威を確立したのとは正反対に、サバルタン一人一人が同一性を有する声をもつことがゆるされていないという現実から、その同一性なき声の重要性ないし批判性を認めようとするのである。
 また、D・チャクラバルティが、サバルタンをその「断片性」において把握し、国家の申し子である自分たち中間層がサバルタンのもとに出かけるのは「断片的である」ことを学びに行くのだと述べ、その断片性とは、「暗黙の全体を想定する断片の数々という意味で断片的ではなく、全体性という観念ばかりか、『断片』という観念そのもの(というのは、いかなる全体もないとしたら、断片はいったい何の断片だということになろう?)に挑戦する断片なのである」[チャクラバルティ 1996: 100]と言うとき、そのサバルタン性の把握は、「政治的正しさ」という議論の枠組みを乗り越えている。チャクラバルティは、「根源的に『断片的』で『挿話風』であることを学ぶためにサバルタンのもとに出かけることは、知り、判断し、意志する主体が、何らかの探究に先立って、すべての人にとってよいことをすでに知っているというふりをすることのうちにうごく、モノマニア的な想像から遠ざかることなのである」[ibid.: 101]と述べている。このような視点からは、たとえサバルタンの人々の声の中に、エリートたちの声が響いていたり、あるいはオリエンタリズム植民地主義の声が混じっていたとしても、それは、断片的で挿話風である限りにおいて、固定的なものではない。リネキンの議論で把握されていないのは、そのようなサバルタンの断片性であり、いいかえれば「断片的であること」それ自体の批判性であろう*1
 政治的批判のリスクは、リネキンのいうような、現地の人々のあいだの階層や政治的立場の違いを無視して現地人の声が単一であるというオクシデンタリズム的な前提をするといった危険性だけではなく、もっと根本的に、文化を語る主体や文化を客体化する主体といったものを首尾一貫した固定的なアイデンティティをもつカテゴリーからしか捉えていないという危険性であろう。いいかえれば、言説の政治性や文化の操作といった問題を主体の一貫した意図や意識からのみ捉え、語るという行為や知というものが定型的な首尾一貫性をもつという「モノマニア的な想像」ないし啓蒙主義的な知の観念から遠ざかっていないという危険性である。
外部からの文化の語りや解釈は、すべて現地人の意識的で一貫した知を否定するものだとする批判は、あらゆる知は当人が意識に定型的に把握しているはずのものであって、その知の所有者によって自由に制御できるという啓蒙主義的な近代知に囚われてしまっている。そのような枠組では、主体というものを周囲の社会的結合やつながりから身を引き離すことで、それらの影響を受けずに(つまり他律的ではなく)自律的な存在であるとする啓蒙主義的主体観をすべての人間に当てはめることにもなる。もちろん、その場合、現地の人々やサバルタンだけが自律的な主体性をもつことができないとすることは、オリエンタリズムに逆戻りすることになろう。ここで言っているのはそういうことではなく、人々の日常的実践の意味を自分たちの問題として考えるには、オリエンタリズムが前提としている、主体は周りのさまざまな社会的つながりから独立した「固有の場所」を確保することで周囲を把握し制御すべきだという啓蒙主義的主体観を退けることが必要だということなのである。

 2 断片とブリコラージュ的戦術

 ポストモダン人類学における、発明された伝統/真正な文化という二元論の否定が、ネイションやエスニシティといった、非一貫性や雑種性を否認したアイデンティティ政治学(種的同一性にもとづく政治学)への批判の放棄につながってしまい、また、無意識で受動的に伝統に従う近代以前の人々という像を否定し、人々の主体的・意識的な操作による文化的創造を評価しようとする主張が、やはり、全体化と個別化をともなう種的同一性にもとづく主体化の強化になり、結局、人々の生活の場における文化の真正性を否定することになってしまうのも、オリエンタリズムの装置に囚われているからであった。つまり、ポストモダン人類学のアポリアは、近代と近代以前、あるいは植民地化と植民地化以前の支配の装置の構造的な違いを無視することによって、支配文化に包摂されながらも(正確には包摂されたゆえに)、種的同一性にもとづく支配のテクノロジーに抗する「断片性」や「非一貫性」や「雑種性」をはぐくんでいる「生活の場」を捉えそこなっていることに起因する。
 けれども、構築主義そのものを否定しようというのではない。考えてみれば、すべての文化がすでにあるさまざまな表象の断片を現在の観点から組み立てることによって構築されるものだという構築主義的な立場にたっても、その表象の組み立て方の違いによって、近代的な知や権力のあり方とそれとは別のあり方とを区別することは可能であろう。ここで主張していることは、オリエンタリズムの装置を乗り越えるためには、土着主義的な民族主義によるオクシデンタリズムを現地の人々の主体的なアイデンティティの確立として支持することより、表象の全体化の力に絡めとられた中でそれに抵抗する別のあり方を探ることのほうが有効であろうということである。そして、そのような別のあり方は、その時その場の「いま・ここ」こそが大事となる生活の場において、現地の住民たちが、意味や機能の一貫しない「断片」を臨機応変に組み合わせてちぐはぐな総体を組み立てるという民衆文化のあり方に求められよう。それは、つまり、全体化の力に抗する「ブリコラージュ」[レヴィ=ストロース 1976]という戦術である。先にわれわれがポストモダン人類学の捉えそこなっているものとして挙げた「断片的・挿話的になること」の批判性とは、すなわち、このブリコラージュによる全体化への抵抗であり、生活の場において発揮される戦術的な臨機応変の抵抗である。
 文化の「断片化」はポストモダン的状況の特徴の一つとなっている。ポストモダン的な知は、全体化に対する拒絶であり、統合された全体に対して統合されない断片や、それら断片の間の異種混交に価値をおく。これまで見てきたポストモダン人類学の本質主義批判やリアリズム批判も、あるいは文化の客体化も、そのような文化の断片化を前提としている。ポストモダン的な知の特徴は全体化に対する拒絶にあり、統合された全体に対して統合されない断片や、それら断片の間の異種混交に価値をおいている。
 しかし、文化の断片化は、なにも最近に始まったことではない。近代こそあらゆるものを断片化し、全体的なプランにしたがってその諸断片に固定的な機能や役割を与えて組み立てるという特徴をもっていた。近代の知がその初めから「断片」の寄せ集めを特徴としていたことは、オリエンタリズムのテクストが先行するテクストからの引用の断片の集積であったというサイードの指摘でも明らかだろう。けれども、近代の思考は、断片を何らかの全体と関係づけて調和的な部分へと換える営みであるが、それに対して、ポストモダンの思考は、一切の関係性を拒絶する断片そのものに価値を見いだし、あるいはそのような断片と戯れるという営みであるといえるだろう*2。 ポストモダンエスニシティフェミニズムなどの運動は、近代の知の全体化に対して一切の関係性を拒絶する断片による異議申し立てという側面をもっている。しかし、断片化による異議申し立てが有効であるのは、その全体が、固定的ですでに自己完結したものである限りにおいてである。だが、近代の知の全体的思考は、現代の消費社会の資本主義の運動がそうであるように、自らが生み出した断片の間の葛藤を原動力にして、次から次へと境界線を引き直しつつ、未完だが計画された全体化を行う運動としてある。ポストモダンの断片化が消費社会の資本主義と親和的であるのもそれゆえである。
 したがって、断片化による全体化への異議申し立ては、それだけでは文化を断片化しつつそれを部分として取り込んで全体化していくモダニズムの知にとって、脅威とはならない。大きな全体への統合を拒否するマイノリティによる異議申し立ては、断片をそのまま一つの種的同一性をもつ全体とすることで、アイデンティティ政治学を反復するだけになってしまう恐れがあるし、マイノリティとしてのエスニシティが実際に一切の関係性を拒絶する断片でありつづけるのは困難である。しかも、その頑なな差異の主張によって他の断片との葛藤や断絶に苦しむのも、全体化を指向する近代の知や権力ではなく、それに抑圧されているマイノリティのほうであろう。
 しかし、全体化に抗するには、一切の関係性を拒絶しなくてはならないといったポストモダン的な戦略しかないわけではない。断片が他者との関係をもつことは、予定調和的な全体の中の部分となることとは限らないからである。ブリコラージュ的戦術とは、断片を断片のままつなぐ関係性のあり方であったことを思い起こせばよい。民衆あるいはサバルタンにしてみれば、支配文化が表象を全体化するための「全体」を手に入れたときにも、その全体は与えられず、断片化されたものしか目の前になかった。ブリコラージュとは、与えられた文化的表象の諸々の断片を、あらかじめ統合的な全体から規定されたもともとの意味など考慮せずに(あるいは考慮できずに)、臨機応変につないでちぐはぐな総体を作り上げることであった。
 宮川淳がいうように、「レヴィ=ストロースがこの〔ブリコラージュの〕比喩で強調しているのは、なりよりもブリコラージュを形づくるちぐはぐな総体――いわばシニフィアンシニフィエとの間の不整合な関係(この不整合はレヴィ=ストロースにとって構造の概念に本質的なものであり、それのみが構造の変換を可能にする)――であり、それがある計画によって規定されるのではないこと、したがって全体化(分析と綜合)とは別の原理の存在である」[宮川 1975: 102]。宮川は、その原理を「〈われわれをひとつの世界から他の世界へ、ひとつの語から他の語へ跳び移らせるが、決して多を一者にまとめず、多をひとつの全体に集約せず、逆にこれらの多のきわめて独自な統一を断言し、全体に還元することができないこれらの断片すべてを、ばらばらなまま断言する、そういった斜線を確立すること〉」[ibid.: 104]という、ジル・ドゥルーズの《斜線(横断性)》*3や《隣接性》の原理に重ね合せている。ドゥルーズは、これらの《斜線》や《隣接性》を「全体と部分の弁証法」に対置させているのだが、この全体と部分の弁証法こそ、種的同一性に基づく近代の支配の原理であり、そのような統合的な全体との結びつきなしに、断片を断片のままつなぐ関係性のあり方こそ、この《隣接性》なのである*4
 《斜線》や《隣接性》というのは何も特別な関係のあり方ではない。それは、ブリコラージュによる関係性であり、生活の場での民衆の日常的な関係づけの仕方なのであって、
そこでは民衆は、その斜線に沿って断片から断片へと跳び移り、「豹変」する*5。ブリコラージュする者(ブリコルール)にとって、断片は不安をかきたてるものでも、何らかへの異議申し立てでもない。しかし、それは無抵抗なのでもない。そこにあるのは、松田素二[1989]のいう、生活者の便宜による妥協=抵抗であり、それは、支配的文化のヘゲモニーに組み込まれ、パッシヴに妥協しながら、その妥協によって《隣接性》や《斜線》を引いてしまう抵抗となってしまうような実践である。
 本論文では、エスニシティにもとづく文化復興運動や土着主義による伝統の発明や客体化をそのエスニック集団の自己アイデンティティの回復として評価する立場に対して批判を加え、同時に、すべての文化や伝統は構築されたものであるという視点のみを強調するポストモダン的な立場も批判されるべきだと論じてきた。しかし、それは、キージングのように固定された(本質主義的な)階級的視点をとるということではないし、リネキンのように脱構築の適用範囲を議論すべきだという主張でもない。その停止地点を政治的に決定しようとするのは、その政治を一元的な物語にすることに他ならず、批評や抵抗を自己完結した物語の中に閉じ込めることになりかねないだろう。
 エスニシティにもとづく文化復興運動や土着主義による伝統の発明や客体化が批判されうるというのは、それらが真正な伝統や文化としているものが捏造された「虚構」だからではもちろんない。そうではなく、それらの運動が、抵抗しているものと同じアイデンティティ政治学に依拠している限りにおいて、抵抗している当の相手の支配のテクノロジーをむしろ強化してしまうゆえに批判しうるのである。そして、ポストコロニアル人類学によるそうした民族主義的な伝統復興運動の肯定的評価は、アイデンティティ政治学に基づく一元的な抵抗の物語を解釈として固定化してしまい、それらの運動の指導者から見れば受動的でしかない民衆の生活の場におけるブリコラージュ的戦術による抵抗を否定したり見えなくしてしまうゆえに、批判されなければならない*6
 もちろん、文化復興運動や土着主義が批判しうるものだと言っても、人類学者が、サイードのいうオリエンタリストのように、知的優越者や指導者の立場にたってそれを糺すべきだと言っているのではない。そのようなことは、他者の文化を表象=代弁できると主張するのと同じことになろう。しかし、ここで問題にしているのは、現地の人々のアイデンティティ政治学というより、むしろポストモダン人類学者のアイデンティティ政治学(チャクラバルティのいう「モノマニア的な想像」)のほうである。あらゆる文化を政治的に構成されたものとしながら、西洋人や人類学者による他者の文化の客体化(人類学による文化の表象も客体化には違いない)を政治的に正しくないと批判するとき、その暗黙の基準は「現地の人々の立場」にたって彼らと同一化することにしかない。しかし、他者を代弁=表象することを放棄するということには、他者との対話においてともに変わることが含まれなければならないはずであり、そうでない他者との同一化は、固定された双方のアイデンティティを維持するための合意であっても、他者との対話や個別的な交通関係ではない。
 要するに、人類学者の「モノマニア的な想像」によって、現地の人々による柔軟でしなやかな戦術を捉えそこなってしまうということのほうが、より大きな問題なのだ。生活の場では、土着主義的な語りをしていた者も時や場面が変わればそれを簡単に否定して「豹変」するが、植民地主義批判をする人類学者は、そのモノマニア的な想像のせいで、そのような民衆の戦術について、現地の民族主義的指導者を模倣しているにすぎなかったのだとか、植民地主義に同意しているように見なしてしまいがちだということである。
 ポストモダン人類学的議論のなかでも、太田好信は、民衆のブリコラージュ的戦術の意義を強調しているようにみえる。太田は、文化の客体化とほぼ同じ意味で「文化の流用(appropriation)」という用語を使いながら、それをレヴィ=ストロースのブリコラージュやセルトーの「戦術」に相当するものだとしている。しかし、レヴィ=ストロースのいうブリコラージュが、全体的な計画によって単一の意味や機能を与えられた概念を用いて首尾一貫した体系を組み立てる技師の思考に対立するものであり、セルトーのいう「戦術」が支配的文化やエリート文化の「戦略」と対立する概念であったのにもかかわらず、太田は、それらの対立概念を無視している[太田  1992: 89]。
 セルトーが「戦術」と区別している「戦略」とは、意志と権力の主体が周囲の環境から身をひきはなしてはじめて可能となるような力関係の計算や操作のことで、そこに前提されるのは、目標の相手に対するさまざまな関係を管理できるように境界づけられた「固有の場所」である。自分に固有の場を与える「空間の分割は、ある一定の場所からの一望監視という実践を可能にし、そこから投げかける視線は、自分と異質な諸力を観察し、測定し、コントロールし、したがって自分の視界のなかに『おさめ』うる対象に変えることができる」[ド・セルトー 1987: 100]。つまり、この「固有の場」とは、対話や身体的相互性による諸関係から切り離されたアルキメデスの点であり、オリエンタリズムならびに人々の規格化を可能にしていたものに他ならない。それに対して、「戦術」とは、全体を見通すことのできるような境界づけられた自分の固有の場所があるわけでもないのに、なんとか計算をはかることである。それは、「自分にとって疎遠な力が決定した法によって編成された土地、他から押しつけられた土地でなんとかやっていかざるをえない」[ibid.: 102]。この「戦術」という概念は、「所有者の権力の監視のもとにおかれながら、なにかの情況が隙をあたえてくれたら、ここぞとばかり、すかさず利用する」という、固有の場所をもたないがゆえに融通の利く、臨機応変のブリコラージュを指している*7
 つまり、セルトーは、ミシェル・フーコー[1977]が分析したような近代の権力のもつ規律=訓練と規格化に否応なく絡めとられながらも、それに絡めとられることが抵抗の力となることを明らかにするために、戦略と戦術とを区別しているのであり、それは、セルトーにとって基本シェーマなのである。太田のように、この基本シェーマを無視して、セルトーのいう「戦術」(およびレヴィ=ストロースのいうブリコラージュ)を近代の知の「戦略」から切り離してしまうと、すべての人間の文化的実践は主体的で意識的・自覚的な客体化となってしまい、その結果、民族主義や伝統復興運動のように支配的文化に対して意識的・自覚的に対抗する「戦略」としての客体化と、そのような対抗とは別の「戦術」としての文化の流用との間の区別が忘れ去られてしまう。
 植民地的状況における対抗的な民族主義にも内在化されている近代の知と、文化の別のあり方との区別を、本質主義として非難したり、現地人の意識や主体性を否定するものだと退けることによって、ポストモダン人類学(ポストコロニアル人類学)は、植民地主義に対抗的な民族主義指導者たちの土着主義的な伝統復興運動や、支配的文化における「伝統の発明」などのアイデンティティ政治学による近代の知と権力のあり方(すなわちセルトーのいう「戦略」)も、生活の場における民衆のブリコラージュ的戦術も、同じように文化の構築ないし客体化として同一視せざるをえなくなっている。その結果、例えば、ポストコロニアル的な観光人類学は、現代のマスメディアや観光産業によって創られた文化的イメージを自分たちの文化の帝国主義的な破壊だと主張する現地の民族主義エリートたちの批判と、そのような帝国主義的な力関係の中で他者の創り出した観光イメージに依存しながらも自分たちの文化を創造してゆく現地の人々との間で、一種の判断停止状態に陥ることになる[cf.山中 1992: 162、太田 1993a: 390]。
 キージングもリネキンもトラスクも同じように、観光産業の創り上げた文化イメージを批判しているのに対して、太田好信は、「観光イメージによって語られることは、自己を他者のイメージによって形成せざるをえない屈辱的な経験である一方で、同時にそのイメージがただのイメージにすぎないという批判的認識を生みだしうる」[太田 1993a: 392]とか、あるいは「観光のイメージを一方的に担わされているように見受けられる遠野の人々も、そのようなイメージにそった『演技』をすることにより、そのイメージのもつ虚構性を主題化する。そのような操作をとおして、観光の力関係に絡めとられながらも、なおかつその状況における自己の行為を意識することにより、その状況を中和する可能性を、遠野の人々は留保しているのではなかろうか」[ibid.: 394]とか、また、「アイヌの人々にとり、観光は他者がつくりだした表象が充溢し、もっとも力関係の行使が明白な場である。だが、同時にそれらの表象を操作し、新たに自己のアイデンティティを『和人』にたいして主張できる数少ない〈場〉でもある。やや抽象的ないいまわしが許されるのなら、ある語り、あるいは言説(discourse)が行使する力関係に対抗するためには、その言説とは関係のない反=言説(counter-discourse)を樹立するのではなく、支配的な言説の内部で通用することばで言説それ自体を脱構築しなければならないのだ」[ibid.: 394-5]と述べて、観光文化の創造的側面を、文化の客体化による新しい自己アイデンティティの創造として評価している。
 ここでも、太田は、民衆のブリコラージュ的戦術の意義を強調しているようにみえる。けれども、太田のいう意義とは、他者による表象を意識的・自覚的に操作(つまり客体化)することによって自己のアイデンティティを確立することにあるのであり、観光の力関係に絡めとられながらも、それをずらしていくというブリコラージュ的戦術の強調とはなっていないように思われる。というのも、客体化による自己アイデンティティの確立と、民衆やサバルタンによる戦術とは相いれないものであり、支配文化の言説に包摂されながらも、その包摂を逆手にとってその言説を脱構築していくという戦術は、客体化によるアイデンティティ(種的同一性)の基盤そのものの脱構築となるからである。その相いれない二つを一緒にして支持するのは、一つには太田が現地人の行うことはすべて支持するという「現地人の支援」を人類学者の責務だとしているからであるが、もう一つには、文化の意識的・自覚的な操作のみを主体性として評価するという啓蒙主義的な知の観念を保持しているからであろう。
 太田は、別の論文[1996]でも、D・ヘブディジ[1986]が行っている、従属的集団のサブカルチャーにおいて、支配文化の商品を消費しながら、それをブリコラージュの手法で「スタイル」という別の隠れた意味に流用しながら、支配文化のヘゲモニーに抵抗しているという分析について次のように述べる。

  ヘブディッジの著作を読んでいると、ある素朴な疑問が浮かぶ。たとえば、サブカルチャーの担い手たちは、意識的にスタイルによる抵抗を行っているのだろうか。じつは、ヘブディッジはすでにこの疑問に答えている。「すべてのパンクが自分たちの経験と意味のズレに等しく気がついているわけではない。もちろん、このズレに彼らのスタイル全体の基盤があるわけなのだが」。ならば、ヘブディッジの解釈を正当化するものは何なのか。少し意地の悪い見方をすれば、彼自身がパンクやスキンヘッドたちの〈政治的無意識〉を、裏づけなしに勝手に読み込んでいるようにも見える。 人類学が保持しつづけてきた学問の信条の一つは、対象の「生きられた現実 lived reality」を内在的に理解することだ。だから、サブカルチャーを構成する若者たちが、スタイルをとおして抵抗しているかそうでないかという疑問には、調査者が勝手に答えを出すことは謹まなければならない。[太田 1996: 136]

 太田のいう「裏づけ」とは、素直に読めば、サブカルチャーの担い手たち自身が、俺たちは抵抗しているんだという意図をもって意識的・自覚的に文化的操作をしている(つまり、そう言っている)ということになろう(15)。しかしここでも、太田は、支配文化の言説に絡めとられながらも、その時その場での「いま・ここ」の生活を肯定しようとする人々の臨機応変の戦術を評価しようとしながら、人々の主体性を否定しないようにするにはその操作や抵抗が意識的・自覚的でなければならないと考えるゆえに、かえって人々のブリコラージュ的戦術のもつ非一貫性や断片性による抵抗を否認してしまうのである*8

 3 提喩に抗する隠喩/換喩

 近代の支配テクノロジーによる全体と部分の関係性のあり方と、生活の場での関係性のあり方の違いは、ネイションやエスニシティに見られる近代の民族分節*9
 アンダーソンは、よく知られているように、「想像された共同体」としての近代のネイションの特徴を、ネイションというものが明確に境界づけられた全体として想像され、一度も出会ったこともない人々と自分とを結びつける際の想像の仕方が、全体と個人とをいきなり無媒介に結びつけるような想像によっていることにあると述べる。アンダーソンのいう「想像された共同体」とは、〈顔と顔のつながり〉を超えた、すなわち固有性のある人格的なつながりがない者までを含んでいる共同体のことであり、もちろん、ある程度の規模の共同体は、近代のネイションに限らず、想像されたものである。しかし、アンダーソンの議論において重要なのは、「共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される」[アンダーソン 1997: 25]ということであり、近代のネイションが、近代以前の想像された共同体とは異なる想像の仕方をしているということなのである(19)。アンダーソンは、ネイション(国民的共同体)以外の想像された共同体の例として、近代以前の王国を挙げているが、その想像された共同体は、境界がすけすけで不明瞭であり、そこにおいて一度も出会ったこともない人々と自分とを結びつける関係は主従関係や親族関係の延長であって、その全体はそれらの関係の連鎖をたどって広がる不明瞭な網の目として想像されている。
 近代のネイションやエスニシティのような、個人と全体をいきなり無媒介に結びつける想像の仕方は、修辞学の用語で言えば、部分と全体を置き換える「提喩」的想像と言えよう。それに対して、親族関係や主従関係など錯綜した社会関係の網の目の中で、それらの関係性の延長として想像される近代以前の民族的アイデンティティは、提喩的想像によるものとは異なっている。それは、親族関係や主従関係といった諸関係の原理である隣接性による「換喩」的想像と、その延長線の不明瞭な広がりをそのつど決めていくための、横断性(斜線)による「隠喩」的想像――他民族が反人間であるとかその慣習が逆さまだとかとするもの――の交叉によって創られているのであり、その延長線の交叉のさせ方に応じて、つまり、その場その時の便宜に応じた換喩と隠喩の間の変換によって、しなやかに変形したり豹変したりするものとなっているのである。いいかえれば、断片は換喩や隠喩によってつなげられる場合はそのまま断片性を残しているが、提喩的関係においては全体の中の部分(=部品)となってしまうということである。
 清水昭俊は、「民族の『われわれ』意識が成立するためには、複数の『私』が機能的関係で結ばれているだけでは不足であって、個々の『私』がこの『われわれ』の部分であると自認するまでに統合される必要があった。比喩の言葉で言いかえれば、自己のかかわる換喩的関係が提喩的関係に変換されることによって、『われわれ』は『私』に対する統合を達成することになる」[清水 1992: 90]と述べて、親族集団をも含めてあらゆる「想像の共同体」が「換喩から提喩への変換」によって作られることを示唆している。しかし、重要なのは、むしろ、生活の場における「想像の共同体」は、そのような提喩的関係への変換なしに、隣接性という関係のあり方にそった換喩的想像によって(正確には換喩と隠喩による想像によって)作られるということなのである。ネイションやエスニシティのような提喩的想像による共同体は、近代の言語政策や「出版資本主義」あるいは「民族史=国民史」という歴史の恣意的な読みなどによる規律=訓練を通じて作られたのであり、換喩的・隠喩的関係から提喩的関係への転換による全体化を批判するには、そのような転換が近代の知や支配のテクノロジーに属するものだと認識することが大事だろう*10
 人々が生活の場において作り上げる、不明瞭な境界しかもたないもう一つの「想像の共同体」、すなわち近代の種的同一性によるものとは違った「想像の共同体」は、全世界で国民国家が形成されている今日でも、全く過去のものとなったわけではない。国民国家の中にも、個が明確な全体へと無媒介に結びつけられるような「想像の共同体」とは異なり特定の個と個のつながりの延長として想像される共同体のあり方が残っている*11
その一例として、ここでは、吉岡政徳が、〈場の論理〉によって「なんとなくまとまっている」と表現している、ヴァヌアツの人々の「想像の共同体」を取り上げてみよう。吉岡によれば、異なる言語・文化を基盤とする多数の集団が多様のまま残された新しい独立国家ヴァヌアツには、それぞれの伝統的文化を核とする「カストムの世界」と、学校組織やキリスト教や行政や独立運動などの新しい「スクールの世界」の二つの世界が併存している。けれども、首都を中心に植民地全体に拡がる「スクールの世界」と、伝統的文化の拠点たる地域に基盤をもつ「カストムの世界」の併存は、明確に境界づけられたネイションへの全体化と、同様に明確に境界づけられたエスニシティに拠ってネイションへの統合を拒絶する断片化の(ともにアイデンティティ政治学による)二つの方向への分岐を生じさせてはいない。その理由は、その二つの世界のギャップを、古くから使われていた「マン・プレス」(場を共有する人々)という概念が埋めてきたことにあるようだ。それは、いわば《隣接性》と《斜線》によって、島を超え、言語・文化的な近縁関係さえも断ち切る形で成立しうるものであって、「場以外に何の共通性を持たない人々をまとめあげるあいまいな概念として存在していた」[吉岡 1994: 229]。吉岡は、このあいまいな概念による〈場の論理〉を〈エスニシティの論理〉やナショナリズムと対置させながら、独立運動以降の「マン・ニューヘブリデス」(ニューヘブリデスという植民地の場を共有する人々)や「マン・ヴァヌアツ」(ヴァヌアツという国家の場を共有する人々)というまとまりを次のように説明している。

  …彼らのマン・プレスは変幻自在にその形を変えうるものであった。カストムにおける人々のアイデンティティの場である個々の言語・文化集団は、この〈場の論理〉によって島全体へと拡大し、さらには、スクールにおけるアイデンティティの場である植民地全体へと接合されていたのである。しかし、このことは、エリート達のナショナリズムが人々にも共有されていたことを意味するわけではない。エリート達にとってのマン・ニューヘブリデスは、自らの国家をかち取ろうとする主体的な植民地民族であったが、人々にとっては、それは分裂を起こすほどバラバラではないが、同一の場を与えられたということでなんとなくまとまっている住民にすぎなかったのである。
  (中 略)
  ヴァヌアツの人々は、国家の側が、植民地の上に「想像の共同体」としての国民を作り上げる努力をしようとしまいと、それとは関係なく、現実に与えられた場を共有することでまとまっている。人々の側から生まれたこの〈場の論理〉は、自らの言語・文化圏、島、そして国家という場を、チェーンの輪をつなげるように結び付け、それによって、同一の国家に組み入れられた多数の異なる言語・文化集団を、これといった内的な共通性を持たないまま、それでも住民としてなんとなくまとめているのである[ibid.: 231-3]。

 ヴァヌアツのカストムとスクールの二つの世界の区分は、ニコラス・トーマス流の文化の客体化論からすれば、太平洋の諸社会の多くが西洋経済との対比によって「伝統としての贈与経済」を創造したのと同様に、ヴァヌアツの人々が、キリスト教や政府、学校などの西洋文化と現地の文化との「もつれ」の中から、自分たちの文化の要素を抽出し純化して、カストムの世界を創出することによって、自己と他者の新たな差異化を行なった結果ということになろう[cf. Thomas 1991]。そのような見方は、さまざまな社会に見られる、村や周縁地域の世界と、都市や国家の世界との区分を伝統の発明あるいは客体化と捉えるものである。事実、ヴァヌアツでも一部には、西洋文化を拒否してカストムの世界を守ろうとする土着主義的な運動があったという。けれども、大部分の人々は、スクールの世界を自らの生活世界の一部として容易に受け入れた。しかも、それは、エリートたちにありがちなアイデンティティの分裂や葛藤が伴うものとは違って、二つの世界を同時に生活の場とする生き方のようにみえる。つまり、そこでは、民衆たちは、吉岡のいう〈場の論理〉によって二つの世界を「チェーンの輪をつなげるように結び付け」、その横断線ないし斜線にそって片方から他方へたやすく跳び移っているのである。
 すでに明らかだとは思うが、本論文で「生活の場」と呼んでいるものは、もちろんヴァヌアツの例における「カスタムの世界」や、あるいは「共同体」を指しているのではけっしてない。周囲のさまざまな社会的つながりから身を引き離すことで、自律した個人と普遍的な真理を獲得できるとする啓蒙主義的主体観を批判する場合、ネイションやエスニックの共同体への回帰やジェンダーへの回帰、あるいは家族関係の復権などと考えられがちだが、それこそ近代のネイションに特有な想像のしかたに囚われていることを表すものだろう。ネイションやエスニックな共同体や近代家族もまた、近代の「個人」と同じく、周囲のさまざまな社会的つながりを切り離して創られた抽象的なものでしかない。ここでいう「生活の場」とは、そのような人間分節をもともと横断する形で作られる〈顔〉の見える関係とその延長からなる雑種的なつながりを指している。
そのような生活の場の雑種性は、近代的システムに包摂された後でも存続している。ヴァヌアツの例でいえば、スクールの世界とカスタムの世界という二分法的な体系に否応なく包摂された人々が、その与えられた二分法的世界をそのまま受け入れながらも、それを横断する斜線を引いていく場そのものが「生活の場」なのである。
トーマスの客体化論では、その二分法的な世界を生成し、それを新たに意味づけていくことは説明できても、それを受け入れつつ横断するような生活の場そのものは見落とされている。つまり、重要なのは、たんにスクールの世界とカスタムの世界とが客体化によって分断されているということでも、あるいは客体化の条件である近代資本主義システムとの接触によって「カスタムの世界」がまったく新たに創造されたということでもない。たしかに、トーマスのいうように、西洋近代の資本主義システムとの接合において客体化された伝統は「二項対立的な新伝統文化 the dichotomized neotraditional culture」の中で、その対照物(資本主義文化ないし植民地文化)を価値づけるときには排除され、それ自身を価値づけるときにはその対照物の方が拒絶される[Thomas 1992: 223]。つまり、新伝統文化の体系においては、ある文化的要素が過去から連続しているように見えても、そして客体化によって西洋化され近代化された文化的要素とは両立しない相互排除的なものとされていても、その二項対立ないし二分法の体系の中で(西洋文化や近代文化との「絡み合い」の中で)、新たにプラスやマイナスに意味づけられるのであって、それは過去にあったものとは別のものとなっている。ヴァヌアツでも、カスタムの世界(正確にはスクールの世界との二分法)は、そのような客体化によって新しく創られたものである。
 すでに見たように、トーマスは、そのような例としてフィジーのケレケレという贈与慣行の客体化を取り上げている。フィジーには、もちろん、植民地化以前から親族の外の領域には個人的利益を追求する市場交換(交易)もあったのであり、他の社会と同じように贈与交換や市場交換や再分配といった形態を異にする交換が併存しており、ひとつの複合的な社会空間を織り成していた。トーマスは、それらの交換のルールの区別それ自体も人類学者が創りあげたものだと示唆しているが[ibid.:12-3]、そのような区別がなかったとは考えられない。
 ただ、植民地化以前においては、その区別は、ブリコラージュ的な実践において節合されているのであって、客体化され全体化された区別ではなかった。そして、植民地化の過程でそれらのさまざまな交換の諸慣行の中から、近代資本主義システムと親和的な個人の利益を追求する市場交換と対比されて、親族集団内部の再分配と親族集団間の贈与交換とを規定するケレケレという贈与慣行だけが、民族アイデンティティを示すものとして選ばれ、フィジーの伝統文化の全体を表象するものとして選択され「全体化」されたというわけである。そのような全体化がなされてはじめて、それ以前からなされていた生活の場のブリコラージュが、その全体化に抗する戦術となったわけである。いいかえれば、それ以前からの生活の場での横断線や隣接性による「柔軟性」によって、支配文化に対して、受容することがそのまま抵抗となるような戦術が可能となったのである。
 けれども、客体化論では、せっかく西洋文化と伝統的文化の区別や受容=消費が接合の中の絡み合いにおいてなされるという視点を提示しながらも(この点が後で出てくる「同化・持続」論より優れている点である)、客体化の結果できる体系はそれぞれが種的同一性(アイデンティティ)を確立した「固い」文化の体系として把握されていまい、横断線や隣接性による個々の人間の「豹変」や、「断片であること」そのものの批評性や抵抗は見えていない。
 春日直樹[1995]は、フィジーの事例を使って、資本主義システムとの接触において伝統を対抗的文化として創造していることを強調するトーマスやM・タウシッグの「対抗・創造」論に対して、フィジー人が日常生活でもっと柔軟な戦術をとっていることを明らかにしている。
 タウシッグ[Taussig 1980]は、コロンビアのプランテーションで働く農民たちやボリビアの錫鉱山で働く坑夫たちが、資本主義的な生産様式を異常で邪悪なものとして認知し、それを悪魔と結びつけていると述べて、そこでは悪魔の象徴する資本主義と搾取が白人の世界のものであり、再生する自然経済と使用価値からなる農民社会と対立するものとされているという。春日は、タウシッグが、トーマスと同じように、対抗的文化の新たな創造=断絶を強調する「対抗・創造」論に属しているとし、J・パリーとM・ブロックら[Parry and Block 1989]による「同化・持続」論をそれに対置させる。同化・持続論とは、貨幣経済は土着の経済にとって異質なものではなく、貨幣経済の特徴である短期的で個人的な利潤の追求が試みられる交換の領域は大多数の社会にもともと存在しており、その共通性によって、資本主義という新しい要素が、持続する既存の文化の枠組の中にそのまま位置づけられて同化されていくという見方である。
 だが、春日は、この対抗・創造論と同化・持続論の対立が二者択一的なものではなく、「文化の対抗的な創造と同化的な持続とは、ともに併存しながら、しかも矛盾を顕在化させることのないままフィジー人の日常生活を構成している」[春日 1995: 112]のだという。フィジーでは、売買行為は接触当初からけっして危険視されず、既存の各種の交換形態の間を自由につなぐ貨幣は便利な財として受け入れられ、キリスト教化されたフィジー人にとって、ビジネスに成功して教会に寄付をすることは一つの理想にさえなった。つまり、フィジーでは、資本主義はキリスト教と結びつきながら、持続する土着の文化の論理に同化され接合されている。しかし、その一方で、ビジネスとフィジー文化は相容れず、良きフィジー人はビジネスでは成功できないと言われ、そして、ビジネスの成功者は反社会的な呪術者とされるという、対抗‐資本主義的な伝統の創造もみられるのである。
 春日によれば、フィジーの人々は、このような資本主義に対するまったく相反する言説を状況に応じて使い分けている。すなわち、「新しい事業計画を推進したり、事業の一時的な成功をみたときには資本主義肯定的な言説を用い、計画が困難になったり、事業が失敗したときには批判的な言説を用意する」[ibid.: 115]。このような言い訳は、松田素二が、「ある一つのイディオムに反対する際に、もう一つ別のイディオムに言及しながら反対し、それに対して批判されるとまた別のあるいはもとのイディオムに依拠して反論する」[松田 1989: 121]と言っている、生活の場において生活者が駆使する「循環的こじつけ」による言い訳の一例といえるだろう*12
 トーマスやリネキンや太田らの対抗・創造論は、伝統の発明や文化の客体化という現象について、現地の人々の意識的・自覚的な文化の操作による主体性の確立という「主体化」の側面のみを強調するあまりに、現地の人々が客体化によって「彼ら=西洋経済=資本主義=悪/われわれ=伝統経済=贈与交換=善」という図式(あるいはトーマスのいう、その善悪を「逆転」した図式)を作り上げて、それによって新しいアイデンティティを確立することだけが、自己を肯定的に生きる術であるという物語を描き出してしまっている。また、ブロックやパリーらの同化・持続論では、現に存在する対抗的文化や非資本主義的経済が無視されてしまうというだけではなく、妥協や受容しているように見える実践がそのまま抵抗や別の文化のあり方となっていることがまったく考慮されていない。その両方によって完全に見落とされているのが、生活の場における隣接性の連鎖や斜線にそって、断片から断片へと跳び移るブリコラージュ的戦術であり、松田の表現を借りれば、生活者が、断片として与えられるイディオム・インデックスから、「生活の便宜」によってイディオムをそのつど恣意的に選択することで「豹変」しながら結果的になされる〈妥協と抵抗〉、すなわち、一見パッシヴに見える妥協や受容が、そのまま権力への最もしぶとい抵抗となるような抵抗のあり方なのである。そして、ポストコロニアル人類学の作り上げる「抵抗の物語」は、むしろそのような物語に抗するような抵抗のあり方を覆い隠してしまっていると言えよう。(つづく

*1:)「断片」としての断片と、全体の中に調和的に組み込まれた「部分」としての断片の区別は、富山太佳夫[1995]に負っている。

*2:隣接性(contiguïté )とは、宮川によれば、「ばらばらな断片が、その距離を無限小に縮小するのではなく、逆にそれを断言しつつ並び合う」[宮川 1975: 104]であり、要するに全体を上から統合するようなプランや統一原理なしに断片が並び合うことである。それは、チャクラバルティの言葉を借りれば、「断片」という観念そのものに挑戦するような断片同士のつながりである。

*3:レヴィ=ストロース構造主義の可能性は、このような関係性の原理を構造とその変換に見いだすことにあり、そこが、断片をシステム全体から規定された一義的な意味をもつ部分に換えていくような近代の他のシステム的思考(体系的思考)と違うところなのである。富山太佳夫は、「構造主義的な思考においてはつねに構造、制度、全体、システムに優位が置かれる。部分はつねにその全体の中に位置づけられた差異的な要素にまで還元される。(中略)ここでは部分は、もはやみずからを裏切るようにして他者との関係を求める必要はなくなる」[富山 1995: 297]と述べているが、それは近代の体系的思考やあるいは俗流構造主義にはあてはまるだろうが、宮川淳が指摘しているように、不整合を構造の本質的なものとするレヴィ=ストロース構造主義にはあてはまらない[cf. 小田 1989: 51-2、144-9]。

*4:このような「生活者の言説の豹変」については、松田素二[1989]から学んでいる。松田は、よくあるフィールドの経験としての人々の言説の「豹変」について、「この『豹変』の奥にある、何かを見つめなければならないと思うようになったのである。なんらかの属性(職業、出自…)に規定された個人が、ある利害や理念にしたがって合理的に判断を下し語り行動する、という人間認識の回路が、あまりにも自明のごとく取り扱われすぎたのではないかと疑いはじめたのだ」[松田 1989: 95]と述べている。

*5:太田好信は、「文化の客体化は、必ずしも土着文化の復興を促すわけでもない」[太田 1993a: 391]と言うが、そこで挙げられている土着主義にならない例は、近代化による「『新しい生き方』を伝統文化の倒立像として客体化した」というもので、それが、オリエンタリズムを内面化した進歩的知識人の「脱亜入欧」(伝統文化を近代西洋文化の肯定的倒立像として客体化したオクシデンタリズムの対偶)と同じであり、いずれにしろ、オリエンタリズムの枠組に属することは言うまでもない。ただし、念のために付け加えておけば、私も、周辺的世界でのすべての土着主義運動がオクシデンタリズムアイデンティティ政治学によるものだと言いたいわけではない。実際には、ヨーロッパにおけるアイデンティティ政治学とは異なり、周辺的世界(あるいはオリエントたる日本でも)では、そのアイデンティティは、たとえエリートや民族主義者においても、ねじれているゆえに、アイデンティティ政治学から逸脱する動きを含んでいる。ここでは議論を単純化するために、土着主義運動のアイデンティティ政治学による側面だけを故意に強調している。

*6:セルトーのいう「戦術」が、レヴィ=ストロースのいうブリコラージュの言い換えであることは、セルトー自身が、スペインの植民地化に服従するばかりか同意さえしたインディオたちが押しつけられた法や表象を流用していった例を挙げ、現代社会でも言語の生産者であるエリートが押しつける文化を民衆が使用するとき、「支配的文化のエコノミーのただなかで、そのエコノミーを相手に『ブリコラージュ』をおこない、その法則を、自分たちの利益にかない、自分たちだけの規則にしたがう法則に変えるべく、こまごまとした無数の変化をくわえている」[ド・セルトー 1987: 16]といっていることからも明らかだろう。

*7:松田素二[1992]は、近代の民族分節のように「100%と0%の共感」という魔法によって境界が絶対化された民族的アイデンティティ(すなわち種的同一性)を「ハードな民族」と呼び、以前のように生活の便宜のために転換しうる民族境界をもつ民族意識を「ソフトな民族」と呼んで区別し、その「近代の人間分節」の魔法が強力なのは、被抑圧者の異議申し立てが同じ「100%と0%の共感」のまやかしに依拠しているからだと論じている。

*8:もっとも、意地悪な言い方をすれば、太田が先の論文[1993a]で挙げている、遠野の人々の「演技」についても、人々が意識的・自覚的に文化的操作しているという「裏づけ」がはたしてあるのだろうかという疑問を出せよう。

*9:))や民族的アイデンティティのあり方と、生活の場で便宜的に形づくられる民族アイデンティティのあり方の違いをも明確にしてくれる。ネイションやエスニシティのような近代の民族的アイデンティティは、これまでも使ってきた酒井直樹の用語で言えば「種的同一性」ということができる。それは、国民的同一性を典型例とする、近代の支配のテクノロジーに特有の同一性であり、近代以前の親族関係や主従関係などの錯綜する社会関係の網の目のなかで重なり合いながら少しずつずれていくような同一性とは違って、「犬が同時に猫であることができないように、人は同時に複数の国民、民族、人種であることはできないという建前がうちたてられ」[酒井 1996: 174]ており、「身分や職業などに基づく個と個の関係を飛び超えて、個人と全体としての共同体を直接に結びつける」[ibid.: 173]。このような全体化と個別化を同時に行い、個と全体とを無媒介に結びつけるような抽象的な国民共同体こそ、ベネディクト・アンダーソン[1997]が「想像された共同体」と呼んだものである((酒井直樹[1996: 173]は、「国民共同体(民族あるいは人種共同体も同様な論理によって構想される)への帰属は、身分や職業などに基づく個と個の関係を飛び超えて、個人と全体としての共同体を直接に結び付ける」のであり、そこでは「個人は特定の他者との関係によってその同一性を得るのではなく抽象的な集合への帰属によって種的同一性を得るようになる」と述べながら、「ベネディクト・アンダーソンが『想像的』ということばで示したかったのは、こうした種的同一性の持つ抽象性のことであろう。関係的な同一性であっても、面と面を突き合わせることのない社会関係(アンダーソンはこうした社会関係を『想像的』ということばで記述しようとしているようにみえるが)を示すことはおおいにありうるからである」[ibid.: 281]としている。けれども、アンダーソンが「想像的」ということばで表しているものは、酒井のいう「種的同一性」(松田[1992]のことばでいえば「100%と0%の共感」)と「関係的な同一性」(親族関係や主従関係といった特定の個と個の関係の延長として想像されるもの)の両方を含んでおり、その上で、近代のネイションの「想像」とそれ以前の共同体の「想像」を、その二つに分けているのである。

*10:提喩的想像が近代の知に特有であることを逆説的に示しているのが、隠喩も換喩もともに全体と部分の置き換えである提喩の組み合わせ(提喩の二つの積)にすぎないと主張する、グループμ[1981]による「提喩中心主義」である。それは、例えば、色白の女の子を「白雪姫」と呼ぶ隠喩は、「色白の女の子」⇒類に一般化する提喩⇒「白いもの」⇒種に特殊化する提喩⇒「雪」という置換によると言うのだが(これらの例は佐藤信夫[1992]による)、実際に生活の場において隠喩的な想像をする場合、「白いもの」という境界づけられた「全体」が必要だとは思われない。隠喩も換喩も、それらが生きられたものであるならば、断片から断片へと思わぬ跳び移りをしている。それらを「提喩」へと還元するのは、そのような断片を部分へと換え、明確に境界づけられた全体と、類と種の階層的体系によって思考する近代の知に特有の見方であろう。

*11:筆者も、現代の国民国家の中にある生活の場におけるもう一つの「想像の共同体」の例を、沖縄の「幻想の琉球王国」に自分たちの祖先を結びつける「門中化」の動きに見いだしたことがある[小田 1996a]。

*12:もっとも春日自身は、そこに生活の場における〈妥協と抵抗〉を見るのではなく、「文化が資本主義化にしばしば抵抗を示すのにもかかわらず、なぜこれを最終的に受容してシステムの拡大的発展を許していくのか」[春日 1995: 115]という、資本主義システムの「接合」の問題だけを見ている。けれども、状況に対して受け身にイディオムを使い分ける「戦術」は、それが臨機応変なもので首尾一貫していないというだけで、近代の知や権力の首尾一貫した経済的合理性や国家の論理に対する、対抗的文化の創造よりも有効な〈抵抗〉となりうるだろう。