創発的連帯と構築された外部 小田亮


1.関係性の「過剰」としてのセクシュアリティ
 よく、ナショナリズムをのりこえるために、ナショナル・アイデンティティの単一性・排他性とは異なるアイデンティティの多元性や「役割関係の複数性」を唱える言説があります。例えば、そのような言説の例として、上野千鶴子さんのつぎのような言いかたが挙げられるでしょう。

「わたし」を作り上げているのは、ジェンダーや、国籍、職業、地位、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合である。「わたし」はそのどれからも逃れられないが、そのどれかひとつに還元されることもない。「わたし」が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特権化や本質化である。そうした「固有のわたし」――決して普遍性に還元された「個人」ではない――にとってどうしても受け入れることのできないのは「代表=代弁」である。[上野 1998:198]

 ここでは、自己というものが「さまざまな関係性の集合」によって作り上げられているものと捉えられています。そして、「固有のわたし」は「日本人」でもあるし「女性」でもあるし「教員」でもあるが、どれかひとつには還元されないというわけですが、そのことが、自分の「選択の自由」(自己決定権)として主張されているように印象をもちます。つまり、そこには、自分が帰属している複数のアイデンティティ(種的同一性)から、あたかも自由に選択したり拒否したりできるかのような主体が想定されてしまっているようにみえます。
 たしかに、自己というものは複数的であり、一つの関係性に還元できない「過剰性」をもっていると言えるでしょう。しかし、その「過剰性」は、「日本人」といったカテゴリーに個人を無媒介に結びつけるような関係に還元できない他の役割関係(「教員」でもある)があるから、とか、他のカテゴリーにも属しているから(「女性」でもある)ということによる「過剰性」ではないでしょう。そのような複数性や過剰性は「種的同一性」を解体するようなものではありません。ここで言いたいのは、〈顔〉のある特定の他者との関係性は、家庭での夫婦関係や親族関係や大学での教員と学生の関係といった役割のあいだの関係にしろ、帰属する階級やジェンダーや人種のあいだの関係にしろ、たとえば教員と学生という一つのコード(換喩的な役割連関)によって規定されるものより、つねに「過剰」なもの、つねに「それ以上のもの」なのではないか、ということです。たとえば、教員である「わたし」は、たとえ学生の前であっても「教員」という役割のみに還元されません。それは、「わたし」が妻の前では「夫」でもあるからではなく、あるいは、昔は「学生」でもあったからでもありません。他の場面では他の役割をもっている(あるいはもっていた)からではなく、〈顔〉のある学生に対しては教員-学生という一つのコードによって一義的に決められた役割としての「教員」になりきれないからです。それは、さまざまであるけれども一つ一つは区別できる関係性の束や役割の集合というより、一つの関係においても、その関係には他のコードによる他の関係性が横断線として交叉したり絡み合ったりしている錯綜体としてあるといったほうが良いでしょう。
この錯綜体は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリのいう「リゾーム」といいかえることができるでしょう。その特徴を、ドゥルーズガタリは、つぎのように説明しています。

樹木やその根とは違って、リゾームは任意の一点を他の任意の一点に連結する。そして、その特徴の一つ一つは必ずしも同じ性質をもつ特徴にかかわるのではなく、それぞれが実に異なった記号の体制を、さらには非・記号の状態さえ起動させる。リゾームは〈一〉にも〈多〉にも還元されない。それは一が二になったものではなく、一が直接三、四、五、等々になったものでもない。〈一〉から派生する〈多〉ではなく、〈一〉が付け加わる〈多〉(nプラス1)でもない。それは〔単位〕からなっているのではなく、さまざまな次元から、あるいはむしろ変動する方向からなっている。[ドゥルーズガタリ 1994:34]

 それに対して、一つ一つが区別された関係性の束を「多様な関係性の集合」というときの「多様性」は、一義的に機能や意味が決められている〈一〉を加算した集合となっています。それをいくら「多様」と言い表しても、それぞれが全体から意味づけられた明確な機能をもっているという点で、単一構造のなかに統合された多様性でしかありません。日常的な生活の場で人びとが作っている関係性の一つ一つは、たとえそれが会社などの組織内の役割連関や親族関係など、一つのコードによって規定された関係にみえても、一義的に機能が規定されているものではなく、そこには他の関係(の声)が浸透しているためにつねにそれ以上の過剰なものとなっています。そして、その過剰性こそが関係性をそれとは異なるコードによる関係性に結びつけて、複雑な類似性の網の目としての共同性を生み出しているのです。
 ドゥルーズガタリは、「樹木はつねに何かしら系譜的なところがあって、これは決して民衆的な方法とは言えない」(ドゥルーズガタリ 1994: 20)と述べています。つまり、リゾームこそ民衆的な「もののやりかた」というわけです。重要なのは、リゾームが「方法」であること、そして「民衆的なもの」とは何か実体としてあるのではなく、その独自性は日常的な生活の場での「もののやりかた」にあるということでしょう。リゾームは樹木・根と異なる要素からできているわけではありません。別に同じ性質をもつわけでもないのに任意の一点と他の任意の一点と連結するという、そのやりかたにリゾームリゾームたるゆえんがあるのです。そして、それはミシェル・ド・セルトーの「民衆文化」の捉えかたに通じています。ド・セルトーは、「民衆文化」を支配的文化・エリート文化と隔絶された固有の区画をもつものという見方を批判し、その独自性・固有性を、支配的文化が押しつける生産物を人びとが日常の中で活用する際の「もののやりかた」にあるのだと述べていました。その「もののやりかた」がレヴィ=ストロースのいうブリコラージュです。
 ところで、関係性が「過剰」だということには、否定的な側面もあります。セクシュアル・ハラスメントもこの過剰性によるものといえるでしょう。セクハラをする側は、会社での協働関係や役割関係以外のものをその関係に持ち込んでいるわけです。かといって、「職場での関係から会社の労働関係以外のものを一切排除せよ」という常識的な解決方法は、顔のある関係がつねに「過剰」であるということを忘れている点で、有効なものとならないでしょう。セクシュアル・ハラスメントを深刻な問題としているのは、セクシュアル・ハラスメントとされる行為そのものというより、セクシュアル・ハラスメントを告発すると逆に不利になるという状況です。そしてそのような状況をつくりだしているのは、イヴ・セジウィックの用語をつかえば、男たちの間のホモソーシャルな絆です。そして、あとで述べるように、近代社会においてこのホモソーシャルな絆が成立するのは、男たちの間の「過剰」な関係性を排除することによるのです。

2.啓蒙主義的主体の成立とアンビヴァレンス
 もし、人類学が関係の直接性を方法として用いて、関係性の「過剰」を捉えようとする学問であるならば、セクシュアリティを研究する人類学にとって、「関係の過剰性」とセクシュアリティがどのように結びついているのかが焦点となるでしょう。
 セクシュアリティは、近代の「主体」、より正確にいえば啓蒙主義的主体の成立と密接に結びついていました。啓蒙主義的主体とは、周囲の環境や関係性から身を引き離しているゆえに、特殊な文化や周りのしがらみに縛られない普遍的で客観的な知を得ることができるとされる主体のことです。このような関係性から自立して近代西洋の白人ブルジョワ男性の理想像としての主体は、周囲の環境や関係に左右されない超越的な固有の視点を確保し、周りの環境や他者の全体をその超越的視点から客観的に把握するがゆえに、その他者を支配できるとされるわけです。
 近代西洋の白人ブルジョワ異性愛男性の啓蒙主義的主体が、周囲との関係から自分の身を切り離して、周囲に左右されない自律的な主体となり、周囲をコントロールできる固有の場(アルキメデスの点)に立っているという幻想を抱くためのやり方には、主に二つのものがあります。一つは、自己の受動性や従属性を、主体的な「選択」によるものだと思い込ませるというものです。これは、デュルケームが『社会的分業』において扱っていたパラドクッス、すなわち近代社会の役割分業における有機的連帯によって、個人は機械的連帯の場合よりもはるかに全体に依存・従属せざるをえなくなっているのに、その個人はより自律していると意識できるのはなぜかというパラドックスと関連しています。また、さきほど述べた、自己を「複数の役割関係の束や集合」として複数化しても、結局はそれらの役割に還元できない「主体」を温存しているのではないか、という疑問は、その「役割」を自ら主体的に選択しているのだ、というように、「選択する主体」を役割の束とは切り離された固有の場(アルキメデスの点)に温存しているのではないか、という疑問だったわけです。
 二つ目として、自己の受動性や関係への従属性を「他者」に投影するというやり方があります。つまり、オリエンタリズムに典型的にみられる「他者の他者化」です。サイードが指摘したように、近代のオリエンタリズムは、オリエンタリストはオリエント全体を一望できるアルキメデスの点に立ち、自分で自分を表象する能力のないオリエントに代わってオリエントを表象できるという現実を創りだすためのものでした。そこでは、オリエントは、「オリエント的停滞、オリエント的官能、オリエント的専制、オリエント的非合理性」といった紋切り型の言説の流通によってオリエント化されます。
 この「オリエントのオリエント化」は、より一般的には「他者の他者化」と言い換えられるでしょう。ここでいう「他者化」とは、西欧近代のブルジョワ階級白人男性が「啓蒙主義的主体」となるために、自己の一部に含まれながらも否定的なものとされている行為性や欲望――例えば、怠惰や感情の表出、受動性、性的放恣、暴力的行為など――を、植民地のネイティヴや下層階級、女性、子どもなど、絶対的な差異をもつ(つまり同じ時間も同じ空間も共有していないとされる)「他者」へ投影して、自と他を非対称的なカテゴリーとして固定化するということを指しています。そこには、「他者化された他者」は、有徴であるもの(徴つき)として「周縁化」されるけれども、異性愛者のブルジョワ白人男性である「自己」のほうは普遍的な人間として無徴化されるという、非対称性があります。
 そして、近代において他者との絶対的差異を創りだして、実際の不安定性を補うのが「人種」や「性」や「セクシュアリティ」や「身体」など、あたかも文化や言語の外部にある自然に根拠をもつ差異であるかのように言語や文化の内部で構築された外部性です。それらの差異は、「構築された自然ないし外部性」ですが、この構築を隠蔽することで、自然の差異であるかのように受け取られるのです(近年において「遺伝子」や「脳の性差」などという「言語」で説明された人種間や男女間の差異も、もちろん文化的に構築された外部であり、それによって客観的・科学的に人種差や性差が決定されたわけではありません。そのような「科学的決定論」は19世紀以来途絶えることなく繰り返されてきたものです)。
 けれども、「否定すべき自己の欲望」の「他者」への投影によって形成された主体は、自己から切り離された「否定的欲望」に対して、「恐怖と憧憬」というアンビヴァレンスをもちます。そして、近代のアイデンティティがアンビヴァレンスを孕む不安定なものだということを暴く議論が、ホミ・バーバらのポストコロニアル理論の構築主義的な議論でした。それは、男性/女性という対立軸に沿った首尾一貫した性的アイデンティティを構築しようとする行為は、抑圧されたものが不意に回帰してくることによって必ず失敗すると述べる、ポストモダンフェミニズムによる首尾一貫した性的アイデンティティの不安定性の指摘と軌を一にしています。
 しかし、それらの議論、すなわち近代のアイデンティティが不安定なものだということの暴露が近代のシステムを揺るがせるのだという議論は、そもそも近代のアイデンティティの「システムとしての安定性」が、この個々のアイデンティティの不安定性をエンジンにして生み出されていることを忘れています。このシステムは、個々のアイデンティティが絶え間ないパフォーマンスの反復によってのみ維持されます。それを端的に表しているのが、「ブルジョワであること」と「ブルジョワに見せること」との一致です。ブルジョワは、貴族とは違って、「資本をもっている」、「道徳的である」ことをパフォーマンスすることによってブルジョワと認められるという存在でしかないのです。しかし、そのパフォーマンスは、「抑圧したものの回帰」あるいは「退化」への恐怖によって崩壊するのではなく、強化されるのです。「望ましくない部分」を投影した「他者」への憧憬=欲望とは、抑圧したものへの欲望として生じたものです。構造主義が教えているように、抑圧の対象とされるものはその抑圧によって生まれます。そして、抑圧されたものへの欲望は、自己がブルジョワ的主体(啓蒙主義的主体)となるためには否認し、他者に転嫁しなければなりません。その抑圧された欲望を自己のなかに認めれば、自分が「他者化」され周縁化されてしまうからです。自分が周縁的位置に退化してしまうという恐怖は、そのまま他者化され周縁化された他者への恐怖となります。というのも、自己の能動的主体性や社会的中心にいるという地位を脅かすのは、回帰してきた抑圧された欲望ではなく、それを投影した他者とされるからです。
 好色や怠惰や感情に流されるといった受動性や自律性の欠如など、啓蒙主義からみた自己の否定的な部分、野蛮性への恐怖と憧憬のアンビヴァレンスは、啓蒙主義的主体(西洋の白人ブルジョア男性)のアイデンティティを確立するための「他者化」が生んだものであり、このシステムは、「他者化された他者」の位置に「退化」してしまうという不安定性からくる恐怖を使って、個々の人びとをアイデンティティのパフォーマンスへと駆り立てることによって、単一の固定された方向性をもつ安定したものとなるのです。つまり、アンビヴァレンスの暴露は、このシステムを崩すどころか、このシステムへの強迫を生み出すだけだというわけです。

3.「ホモソーシャル」と啓蒙主義的主体
 ところで、啓蒙主義的主体のシステムとセクシュアリティとの結びつきには、見やすい形では、他者を他者化するときにセクシュアリティが用いられるという結びつきがあります。たとえば、黒人や下層階級はセクシュアリティの貪欲さといった異常なセクシュアリティと結びつけられてきたといったものです。
 しかし、啓蒙主義的主体とセクシュアリティとの結びつきは、それだけに留まらず、もうすこし複雑です。そのことを、イヴ・セジウィックの「ホモソーシャル」ということと絡めて述べてみましょう。セジウィックは、「男たちのあいだのホモソーシャルな欲望」が、特定の社会では(すなわち西欧近代社会では)、強烈な「ホモフォビア」と結びついていることを問題にしています。つまり、ホモソーシャル」と「ホモセクシュアル」とは連続体をなしているにもかかわらず、近代社会の男たちのあいだでは、「ホモフォビア」によって深く切断されているのはなぜか、という問題です。そのような「問い」が出てくるのは、近代社会でも、女たちのあいだでは、「ホモソーシャル」と「ホモセクシュアル」は(つまり「女を愛する女」と「女の利益を促進する女」は)明確に区別されてはおらず、連続しているようにみえるからです。すなわち、現代社会では、女性のホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆の間には連続性があるのに対して、男性のホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆とは完全に断絶しているという非対称的な区別があるというわけです。けれども、セジウィックは、ホモソーシャル連続体が男性の間では断絶しているのは男特有の本質的な特徴であるとか、家父長制がそもそもホモフォビアと結びつくといった見解は採りません。古代ギリシアやサンブル人社会を始めとするニューギニア高地の諸社会ではそうではないからです。
 しかし、セジウィックは、男が男に差し向けるホモフォビアミソジニー女性嫌悪)と必然的な関係をもつと述べています。これは、ゲイ解放運動とフェミニズムが反ホモフォビア・反ミソジニーという同じ目標をもって連帯できる可能性を提示するためという戦略的な言説でもあったわけですが、セジウィックがどうしてホモフォビアミソジニーが必然的な関係をもつかという根拠を明確したとはどうもいいがたいと思います。たとえば、セジウィックが、サンブル人社会を家父長制でありながらホモフォビアがない社会の例として持ち出すのであれば、サンブルでのミソジニーホモフォビアと結びついていないという言い方も可能だからです。ただ、この二つがともに近代の啓蒙主義的主体を成立させるためのものだったというように考えれば、この二つの結びつきは必然ではないけれども近代社会においては当然のことだと言えるようになります。そのとき、重要なのは、さきほど述べたように、抑圧は抑圧の対象を創りだすという構造主義的な視点です。すなわち、ホモフォビアはホモセクシュアリティを抑圧するだけではなく、その対象である同性愛者を創りだしているというのと同じように(それにしたがえば、サンブルの儀礼的同性愛は同性愛ではないことになります)、ミソジニーは女性を抑圧するだけではなく、その対象である女性を創りだしているのだということです。
 そして、男が男に差し向けるホモフォビア(同性愛者への嫌悪)は、男が男に差し向けるホモソーシャルな欲望に含まれているホモセクシュアルな欲望への抑圧(これはそれが他者依存的であることによる抑圧ですが)を、その抑圧が創りだした同性愛者へ投影し、同性愛者というものを自分たちとは絶対的差異をもつ他者として「他者化」した結果として生まれたものだということになります。同じように、近代のミソジニーとは、男が男の中にある受動的なもの、文脈依存的なもの、柔軟なものを、女性的なものとして抑圧することで創りだした「他者」としての女性に投影した結果として生まれたものとなります。それらの「他者の他者化」は、受動的かつ他者依存的かつ文脈依存的かつ他律的な部分を排除した啓蒙主義的主体を成立させるためのものであり、その結果、近代西洋の白人ブルジョワ男性は固有の場を確保するとともに、それら抑圧したものの投影された「他者」である同性愛者や女性や植民地のネイティヴや下層階級を嫌悪し恐怖するというわけです。
 ただし、このようにホモフォビアミソジニーとの結びつきを捉えなおすことによって、セジウィックのねらいであったゲイ・ムーヴメントとフェミニズムの連帯というのはより困難になってしまいます。というのも、目標は反ホモフォビアや反ミソジニー、あるいはその両者の必然的結合というだけでは済まなくなるからです。しかも、より重大な難点として、反ホモフォビアや反ミソジニーという運動や言説が、ホモフォビアミソジニーと同じようにその対象である「同性愛者」や「女性」を創りだしていることになります(これがフーコーの論点だったと言っても良いでしょう)。

4.ジュディス・バトラーと「模倣」・「反復」・「再生産」
 では、どうすれば良いのか。ここでヒントになるのが、フーコーの論点をさらに推し進めたジュディス・バトラーの議論です。バトラーは『ジェンダー・トラブル』のなかで、まず「フェミニズムの主体というアイデンティティをけっしてフェミニズムの政治の基盤としてはならない」[バトラー 1999:6]と断言しています。「女」というアイデンティティが必要とされるのは、マイノリティによるアイデンティティの政治のためには結束や連帯が重要だとされるからですが、バトラーは、「女というカテゴリーの一貫性や統一性に固執すれば、具体的な種々の『女たち』が構築されるさいの文化的、社会的、政治的な交錯の多様性を、結果的に無視してしまうことになる」[バトラー 1999:41]と言います。そして、「『女』というものの中身をまえもって定めないような連帯の政治の試み」もなされており、「創発的連帯(emergent coalition竹村和子さんの訳では「取りあえずの連帯」)という枠組みのなかで、さまざまなポジションの女性たちがバラバラなアイデンティティを表明しうる対話的な出会いの場がもたらされる」のだけれども、連帯の理論は、連帯の構造の理想的な形をまえもって示そうとし、つまり「統一」を結果的に保証するような形を示そうとして、結果的には自らを最高権力者としてしまうと同時に、アイデンティティの次元で団結という排他的な規範を打ち立ててしまうために、アイデンティティを撹乱する可能性を排除してしまうとバトラーはいいます。これなどは、セジウィックがゲイ・ムーヴメントとフェミニズムの連帯の形や目標をまえもって示そうとしていたことの批判とも読めます。それに対して、さまざまなポジションが創発的に予測なく集合しているという「創発的連帯」の形態において想定されているのは、「アイデンティティ」は前提ではないこと、そして連帯している集合体の意味や形はその実現以前には知りえないということだとバトラーは述べています。
 また、バトラーは、フーコーに倣って、性的アイデンティティの基盤として、言語以前の「生物学的性差」や「身体」や「自然」を想定することを否定します。それらは、言語の内部において「言語の外部にあるものとして構築されたもの」(「構築された外部」)でしかないというわけです。そして、その言語は男性中心主義の言語であるけれども、誰もがつねにすでにその言語の反復的実践の内部にいるとバトラーは言います。
 そのような徹底した構築主義の立場から、バトラーは、ジュリア・クリステヴァの「ル・セミオティック」(「原記号界」とも訳されているもので、「言語の外部」としての「創発的な分節が行われる身体的欲動の場」)や「前-言説的な母という身体」に依拠する「撹乱の戦略」を批判しています。クリステヴァの「撹乱の戦略」とは、たとえば、ポリフォニック(多声的)な詩的言語が、男性中心主義的な首尾一貫した単声的な言語体系とそれによる「意味する主体」を、母の身体との原初的な連続性へと解体するといったもので、1970年代から80年代の文化記号論における両義性や周縁性による中心の撹乱(山口昌男)とか、カオコスモスの運動(丸山圭三郎)と同じ図式のものです。バトラーは、「クリステヴァは母の身体を、言説のまえにあって、欲動構造のなかで原因として作用するものとみなしているが、フーコーが明確に述べていることは、母の身体を前-言説的なものとして言説によって生産することこそ、特定の権力構造がおこなう自己拡大や隠蔽」なのだと述べています。
 では、「言語の外部」の否定するバトラー自身の撹乱の戦略とはどのようなものなのか。それは、「法の単なる模倣や再生産、そしてそれゆえの法の強化にならないような反復の形式はどのようなものか」というバトラーの問いや、「たとえ反復が、アイデンティティを文化的に再生産するメカニズムとしてかならず存続していくものだとしても、いかなる撹乱的な反復がそこに発生して、アイデンティティそのものの規制的な実践を疑問に付すことができるだろうかという問いかけをする余地がある」ということばに見られるように、異性愛主義や男根ロゴス中心主義の言語や法の内部において、それらを再生産する反復のなかに「撹乱的な反復」を見出すという戦略です。それは、具体的には、ドラッグ(女装)におけるジェンダーアイデンティティの模倣によるパロディや、クイーン、ブッチ、フェム、クィアといった語のパロディ的な再占有(流用)に典型的にみられるパフォーマティヴな撹乱となります。
このようなバトラーの撹乱の戦略に対しては、異性愛主義の言語を再生産する反復あるいは模倣と、撹乱する反復あるいは模倣とを区別できるのか、区別できない以上、それらの反復は権力構造を再生産するだけなのではないかという批判も出ています。それについてはまた後で戻って論じたいと思います。
 ここでは、もう一つの批判を出しておきましょう。それは、バトラーの撹乱の戦略も、最終的にはバーバらと同じく「暴露」の戦略となっており、その撹乱による不安定性はシステムを強化するだけだという批判です。バトラーは、ドラッグ(女装)は、それによって模倣されるオリジナルなジェンダーアイデンティティが「オリジナルなき模倣」であり、それ自体が「ドラッグで模倣である」ということを暴露することによって、ジェンダーの意味が脱自然化され流動化されると述べています。しかし、この「暴露」は近代の人種的アイデンティティが不安定なものだということを暴露することによって、それを解体するというポストコロニアル理論の「暴露」の戦略と同様に、近代のアイデンティティの「システムとしての安定性」が、この個々のアイデンティティの不安定性や流動性をエンジンにして稼動していることを忘れていると言わざるをえないでしょう。たしかに、アイデンティティが構築されたものであり不安定であることは隠蔽されており、その隠蔽によってアイデンティティは自然化されています。しかし、その隠蔽は近代のアイデンティティのシステムに不可欠なものではないのです。そして、それを暴露したところで、その不安定性は、アイデンティティの危機として意識され、人々をより強迫的にアイデンティティのパフォーマンスへと向かわせるだけなのです。
 では、バトラーの撹乱の戦略も結局システムを強化するだけならば、やはり出口はないのでしょうか。外部や他者性への出口は、バトラーがその「外部」や他者性が、異性愛主義や男根ロゴス中心主義の言語の内部で「その外部にあるものとして構築されたもの」、すなわち「構築された外部」にすぎないとして否定しているのですから、最初からないわけです。そして、その内部で権力構造を再生産する反復=模倣と、撹乱する反復=模倣とをまえもって区別できない以上、パフォーマティヴな撹乱という戦略も結果的には権力構造を再生産するパフォーマンスとなってしまう恐れがあるということになります。そして、バトラー自身も、ナンシー・フレイザーやセイラ・ベンハビブとの論争をへて、パフォーマティヴな撹乱という戦略に重きを置くことを止めて、まえもって社会的連帯の形を目標として設定したりユートピアとして描いたりすることに一定の理解を示すなど、理論的には後退しているようにみえます。
 けれども、反復や模倣が特定の支配的な権力構造を再生産することになるという批判は、最初に述べた、関係性の「過剰」ないし「リゾーム的錯綜」を想定していないために生じてくる批判です。いいかえれば、一つの関係性に一つの意味を与えて全体へと統合するようなツリー状の構造を想定しているのです。そこでは、ある役割関係をパロディ的に反復しても、その撹乱は全体へと回収されて、システム全体を安定させてしまうことになります。しかし、リゾーム的な一つの関係性の過剰は、そこでなされる反復を、ツリー状の構造をラディカルに変革する横断線を生み出します。つまり、そこでは、反復や模倣は、ツリー状の構造を建築デザイナーのアレクサンダーの用語を借りれば、セミ・ラティス構造へと変容させるものとなるのです。たしかに、それは表面的には変革にはみえずに再生産にみえます。しかし、言語の内部での〈いま・ここ〉のラディカルな変革は、そのような再生産=反復のなかでしか起こらないものでしょう。
 そして、それは、クリステヴァが求めたような「外部」への出口ともなります。言語の内部に「構築された外部」が隠蔽しているのは、それが構築されたものだということだけではないのです。構築主義者はその「構築」という事実を暴露することで、支配構造を解体できるとしていましたが、それはレッド・へリングなのです。そこには構築主義者が見落としているもうひとつの重大な隠蔽があります。この「構築された外部」は、実際にある「外部」をも隠蔽するものなのです。つまり、「構築されたオリエント」がオリエントを隠蔽し、「構築された身体」が「身体」を隠蔽し、「構築された他者性」が「他者」を隠蔽しているように、です。この「隠蔽」は構築という事実を暴露したところで解体されません。とは言っても、構築された虚構の外部の向こうに「真実の外部」があるというのではありません。実際にある外部とは「無垢の自然」やクリステヴァのいう「母の身体」のことではないのです。クリステヴァの誤りは、その「外部」を空間的に捉えて実体化してしまったことにあります。ここでいう、実際にある外部(そして実際にある身体や実際にある他者)とは、関係性の「過剰」のことなのです。
 実はバトラーも1991年の「模倣とジェンダーへの抵抗」という論文で、つぎのように言っています。

 演じられたことに先立つ演技者はいないという主張、パフォーマンスはパフォーマティヴだという主張、パフォーマンスは「主体」の外見的見かけをその外見にしたててしまうという主張はなかなか受け入れられない。それは、セクシュアリティとかジェンダーとかをそれより前にある心理的現実の直接的あるいは間接的な「表現」だと考える傾向ができているからだ。しかし、主体が「先」ではないと言うことは、主体を否定することにはならない。事実、主体と心理の融合を拒絶すると、心理に意識的な主体の領域を越えるものという特徴を与えることになる。このように心理が主体の領域に納まらないということ、この余剰こそが、自由意志で動く主体、すなわちいつでもどこでも、ジェンダーセクシュアリティ双方、あるいはそのいずれかを思いのままに選べる主体という概念によって組織的に否定されているのである。異性愛の位置付けが均一であるかのようなうわべを組み立てる例の身振りと行為の反復の合間に、噴出するのがこの余剰である。……その意味で、異性愛のエコノミーの中で暗にホモセクシュアリティをうちに含んでいるのが、この余剰なのだ。[バトラー 1996:127]

 そして、バトラーは、「この心理的余剰とは何なのか。そして破壊的な、あるいは非制度化を図る反復とは何なのか。第一に考えなくてはならないのは、セクシュアリティはいかなるパフォーマンスも表象も物語も越えてしまっているということだ」と述べて、さらに「性、ジェンダージェンダーの表象、性行動、空想、セクシュアリティのあいだには直接的ではっきりした境界線や気軽に引ける境界線はない。……セクシュアリティの要素には、まさしく姿を現わさないもの、ある意味で、絶対に現わすことができないものが含まれている」と言います。ここで、バトラーが「セクシュアリティ」と呼んでいるものこそが、関係性の過剰ないし余剰であるわけです。啓蒙主義的主体を確立するために、あるいは単声的なアイデンティティを確保するために、抑圧されなければならないもの、そしてその抑圧によってその対象を「外部にあるもの」として構築することで隠蔽しなければならないもの、それがここで「〈顔〉のある関係の過剰性」と呼んだものであり、それはリゾームが現実のものであると同じ意味で現実に存在するもので、しかもツリー構造の内部でそれを変容させるというラディカルな抵抗を可能にするものであると同時にツリー構造の現実にある直接性としての外部なのです。


引用文献表

上野千鶴子
 1998 『ナショナリズムジェンダー青土社
セジウィック、イヴ
 2001 『男同士の絆』上原早苗ほか訳、名古屋大学出版会
ドゥルーズ、ジル/フェリックス・ガタリ
 1994 『千のプラトー宇野邦一ほか訳、河出書房新社
バトラー、J
1996 「模倣とジェンダーへの抵抗」杉浦悦子訳、『Imago』7-6:116-135
 1999 『ジェンダー・トラブル』竹村和子訳、青土社

京都大学人類学研究会12月例会講演会「人類学のワイルドサイドを歩こう」(2002/12/14)において「セクシュアリティが人類学にどう関係するというのか」という題で発表