関係性としてのポリフォニー 小田亮

0.はじめに

 バフチンポリフォニー論で展開している〈声〉の複数性――「1つの言葉に2つの声」――ということを、発話や語りということを離れて、〈声〉と同様に主体の固有性や単独性・直接性を示すものとされる「固有名」や「身体」に適用して、個の固有性と考えられているにもかかわらず、そこに「反復」や「模倣」によって他者の声が浸透しているというバフチンの議論の射程を広げて、固有性・一回性・単独性の反復や模倣による複数性の現われということを考えてみたいというのが、私の発表の趣旨である。まず、そのことを、災因論の事例によって考えてみよう。


1.災因論の物語と個の単独性

 柄谷行人氏は、代替不可能な〈個〉の「単独性 singularity 」と、一般性による類のなかの比較可能な違いである「特殊性 particularity 」とを区別している。「特殊性」と区別された「単独性」とは、属性や個性に還元できない「かけがえのなさ」をもつことを意味している。柄谷氏は、失恋した男(女)に「女(男)は他にいくらでもいるじゃないか」という慰め方は不当だという。「なぜなら、失恋した者はこの女(男)に失恋したのであって、それは代替不可能」[柄谷 1994:14]であり、「この女(男)は、けっして女(男)という一般概念(集合)には属さない」という「単独性」をもつからである。けれども、柄谷氏は同時に、人はそのように慰めるほかないのかもしれないとも述べている。というのも、「失恋の傷から癒えることは、結局この女(男)を、たんに類(一般性)のなかの個としてみなすこと」――代替可能で比較可能な「特殊性」においてみること――なのだから。
 この単独性と特殊性の区別は、死によって露呈した個の代替不可能性に対処する「災因論」の機能をうまく説明してくれるようにみえる。私自身、以前の本[小田 1994]で、この区別を使って災因論の機能を説明したことがある。すなわち、個人の死は誰にも替わることができず、子どもに先立たれた親に、「他にも子どもはいるじゃないか」とか「また子どもを作ればいい」という慰めは不当であるが、代替可能な役割連関からなる社会組織は、そのような単独性の露呈によって崩壊するゆえに、あらゆる文化は、死などの災いによって露わになった個の代替不可能性(単独性)を、代替可能な個(特殊性)として一般性によるカテゴリーや役割連関のなかに再び位置づけるような「物語」をもっており、その物語が災因論というわけである。
 しかし、単独性と特殊性の区別を用いた災因論の機能の説明には難点がある。この区別によっては、現実のポリフォニックな(多声的な)関係性、すなわち1つの言葉に2つ以上の声があるような関係性を説明できないのである。この説明では、あらゆる社会関係は、代替可能性にもとづく機能的な役割連関における関係とされ、個の代替不可能性ないし単独性はあらゆる社会関係を崩壊させてしまうものとされているが、あとで述べるように、現実の社会関係は、機能的な役割連関の関係以上の「過剰性」を含んでいるのである。
 柄谷行人氏は、単独性を他との関係を一切断ち切って孤立したものではなく、「他なるものを根本的に前提にし他なるものとの関係において見出される」としているが、その他なるものとの関係は、「共同体的なもの」とは対立する、「市場交換的な交通」による「社会的なもの」と述べている。ここには、19世紀の社会/共同体の図式に基づいて共同体的なものを嫌悪するポストモダン思想の特徴が現われている。近代において発明された「失われた共同体」について、ジャン=リュック・ナンシーは、「共同体に関して『失われた』もの――合一の内在性と親密性――とは、そのような『喪失』が『共同体』そのものを成り立たせているという意味においてのみ、失われたのである」[ナンシー 2001:23]と述べて、つぎのように言っている。

 共同体は実際には生起しなかった。あるいはこう言ったほうがいいかもしれない。人類がわれわれの知っているものとはまったく別の社会的絆を知っていた(あるいは現在も産業社会の外で知っている)というのは確かだとしても、共同体はわれわれがそうした異なる社会性へとそれを投影している原理にしたがって生起したのではない。(中略)社会は共同体の廃墟の上に作られたのではない。それはわれわれが「社会」と呼ぶものとも、「共同体」と呼ぶものともおそらく関係をもっていなかった何ものか――部族あるいは帝国――の消滅のうちに、ないしその維持のうちに形成されたのである。[ナンシー 2001:22]

 私がここで「現実の社会関係の過剰性」と呼んでいるのは、ナンシーのいう、「われわれの知っている共同体とはまったく別の社会的絆」であり、「われわれが『社会』と呼ぶものとも、『共同体』と呼ぶものともおそらく関係をもっていなかった何ものか」である。そして、重要なのは、そのように創られる関係性は、共同体の「外部」にある単独性の関係にも、あるいは機能的な役割連関や社会的立場(特殊性)にも還元されない「過剰」なものであり、災因論の物語は、露わになった「単独性」を「特殊性」にもどすことではなく、ポリフォニックな関係の過剰性のなかにもどすことなのである。


2.クリアの災因論における祖名を介した反復

 ポリフォニックな関係性ということを、私が調査している西ケニアのクリア人社会における災因論の事例で説明しよう。クリア人は、タンザニア北西部、ケニア南西部の国境地帯に住むバントゥ系民族で、その大多数がトウモロコシを主作物とする農耕をしながら多くの牛を飼っている半牧半農の農民である。クリアでは、家族や家畜の度重なる死や病気といった災いをもたらすものとして、邪術、呪詛・宣誓などの他に、《祖先(アバコロ)》や《死霊(アマサンボ)》や《怨霊(イビケーノ)》という「死者」が挙げられる。災いが続くと、人びとはたいてい占い師を訪ねて、その原因と対処法を教えてもらうが、占いにおいて災因として挙げられるのは「死者」が最も多い。
 それら「死者」のうち、《祖先》は、子孫に自分の名前を与えることや「衣服」を求めてその子供に病気などをもたらしているとされている。クリアでは、初生児には男の子なら何々、女の子なら何々と決められた4つの特別の名前から選んで命名されるが、それらの名前を含めて、子どもには死んだ祖先の名前(「祖名」)を付ける。祖名は、子どもの父方の祖先と母方の祖先の両方から選ばれ、昔は一種の占いによって決められたが、体の痣などがある祖先と一致している場合などはその祖先の名前が付けられた。祖名をつけられた子どもは、その祖先の「生まれ変わり」とされる。そして、その子どもに、病気や学校に対する不適応などの問題が起こると、その祖先が「衣服」を要求している(死者は裸で埋葬される)とされ、山羊を供犠して、その山羊の皮で子どもをくるむという、「祖先に衣服を与える」儀礼を行なう。また、子どもに病気などの問題が続いた場合には、生まれてすぐ命名された名前が間違っていて、本当の「生まれ変わり」の祖先が自分の名前をその子に付けることを要求して病気をもたらしているとされることもある。
 《祖先》は「衣服を与える」ための供犠を行なうまでは「裸」で、文化的秩序の外にいる不安定な存在とされている。つまり、記号論的な分析をすれば、裸でいる死者は、文化の秩序の外部と内部の境界的な位置にいるゆえに災いをもたらすが、それを家の系譜的な秩序のなかに「祖名」という位置を与えることで安定させるものであり、それを通して外部と内部の境界を顕在化させて、再び明確にしているのだと説明されよう。
 しかし、それでは説明できないところもある。というのも、クリアでは、祖名を介して子孫とが一対一の対応関係をもつというだけでなく、一人の個人に祖名が複数与えられることも少なくないし、あるいは同じ名前をもつ出自や世代深度の異なる複数の《祖先》と、その祖名をもつ複数の生者とが対応関係をもつのである。たとえば、儀礼でその祖先に供犠した家畜の肉を供物として与えるとき、同じ名前をもつ子どもにその肉が与えられる。それは、その祖先の「生まれ変わり」とされるその祖先の祖名がつけられた子どもだけではなく、同じ名前をもつというだけで、複数の子どもたちに肉が与えられるのである。その場合、他の子どもたちは、自分たちの祖名のもともとの主である祖先とは別の祖先とも同一視されていることになる。つまり、個人は、与えられた祖名によって、結果として、同じ名前の複数の死者との多重的なつながりを持たされるのである。
 この儀礼での肉の分配というパフォーマンスが何を意味するのかを考えるきっかけとなったのは、ある占いの場に立ち会ったことだった。クリアでは、ふつう祖先に対する供犠では牛かヤギが家の囲いのなかで屠られるが、占い師が、野外のある特定の樹の下でヒツジを供犠せよと指示した例があった。その理由を占い師に尋ねると、祖名が「ムルガ」という名前だからという。その占いは、ムルガという名前の女性が病気となって占い師を尋ねてきた事例で、その災いはその名前をもつ祖先(その女性の母方の祖母)のせいだとされたものだった。ムルガという名前は、神話的時代ともいうべき飢餓時代の伝説のなかに登場する女性の名前で、その伝説によれば、ムルガはヒョウタンのマラカスを用いる占い師の始祖だったが、飢餓になって移住する途中で、ある樹の下で倒れてヒョウに食べられたとされている。そのために「ムルガ」という祖名をもつ者に対しては、同じ種の樹の下で供犠を行なうのだというのである。このムルガは近隣民族であるルオの出身とされており、ルオではヒツジを祖先に供犠するからヒツジを用いるのだというのが、占い師の説明であった。そして、この伝説のムルガの子孫とされる父系親族集団がいくつかあり、それらの親族集団では供犠にヒツジを使うのだという。けれども、祖名は父系・母系にかかわらず付けられるので、ムルガという祖名はそれらのリニージ以外にも伝わっており、占い師を訪ねた病人の女性もムルガの子孫とされる親族集団出身ではなかった。それでも「ムルガ」という祖名(祖先)に対しては、同じ種の樹の下でヒツジを供犠するように指示するのだというのである。
 つまり、ここでは、ムルガという祖名は系譜的なつながりを「表象」しているわけではなく、系譜的関係という換喩的な関係のなかに確定した位置を占めているのでもない。また、ムルガという名前が生活世界の外部を表象していて、その「名づけ」が外部との「媒介」をしたり、その外部との境界を引きなおして確定したりしているともいえない。そこには、直接に祖名を与えてくれた母方の祖母を含めて、〈顔〉の異なる複数の特定のムルガが存在しているのである。つまり、患者(とその身体)と換喩的関係にある彼女の母方の祖母という特定の個としてのムルガに対する供犠において、伝説上のムルガやそのムルガの祖名をもつ(そのムルガの直接の「生まれ変わり」だったムルガ)など、複数の他のムルガが患者と祖母というその換喩的関係に浸透してきている(または交叉している)のである。ムルガという祖名が表しているのは、無数のムルガの生活世界での「反復」であり、その反復が増殖させるずれや差異が、患者である女性の身体と病気をもたらしているとされる死者である祖母との関係性に顕在化しているのだと言ったほうがいいかもしれない。
 ある特定の祖先に対する儀礼において、供犠された動物の肉が同じ名前をもつ子どもたちに与えられるというパフォーマンスが奇妙に感じられたのは、肉を与えられる子どもたち全員がその特定の祖先の「生まれ変わり」と考えられているわけではないということにあった。しかし、ムルガという祖名を介したムルガという単独の存在の「反復」を考えあわせると、「生まれ変わり」は系譜上の位置を確定する単線的な現象として把握していたことが違っていたのである。
 たしかに、祖名の命名やその特定の祖先に衣服を与える儀礼という文脈では、代替不可能な単独の存在としての特定の祖先と、同じように単独性をもつ子孫とが「生まれ変わり」ということによって結びつけられている。それによって、その祖先は系譜上の位置という代替可能で比較可能な特殊性を取り戻し、社会-文化的に安定した位置を与えられる――いいかえれば、親族関係というコードによって規定された一義的な役割関係のなかに位置づけられる――というわけだった。しかし、自分の単独性を示す固有名を贈与する(そしてそれは身体をも贈与すると考えられている)という譲渡不可能なものの譲渡としての贈与によってつくられる関係は、そのような単声的な関係以上のものなのだということを、肉の分配のパフォーマンスにみられる、祖名を介した「模倣」ないし「反復」は示している。そこではすでに、固定された親族関係というコード――私は「生まれ変わり」ということをこのコードによってのみ理解しようとしていたのだが――を離れて、別のコードによる結びつきに移行していたのである。
 肉の分配のパフォーマンスが奇妙に思えたり、ムルガの例にみられるような自己を構成する関係性の「多重化」によって、未分化の不安定な存在に確定した位置を与えるはずの行為が、別の不安定性をもたらすことになってしまうという疑問がでてきたりしたのは、このようなコード間の移行に気づかなかったからであった。自己の多重化現象は、「名づけることによって曖昧な危険状態を統合可能にする」という媒介的統合論にそぐわない面を持っていたが、それは、たんに死者が祖名として生活世界に再侵入すること自体が危険だということだけではなく、祖名をつけるという行為とそれが生みだす関係性そのものが、一つのコード、一つの親族の秩序に回収しきれないものだからなのである。


3.一つのポジションに一つの〈声〉?

 では、ポリフォニーというときの声の複数性とは何を意味しているのだろうか。そのことを、どのような複数性を意味していないのかを考えることで、明らかにしてみよう。ナショナル・アイデンティティなどの単一の(単声的な)アイデンティティとは異なるアイデンティティの多元性や複数性を唱えるとき、個人は「役割関係の束や集合」からなるという言いかたをする。たとえば、上野千鶴子さんのつぎのような言いかたがそのような例として挙げられる。

 「わたし」を作り上げているのは、ジェンダーや、国籍、職業、地位、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合である。「わたし」はそのどれからも逃れられないが、そのどれかひとつに還元されることもない。「わたし」が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特権化や本質化である。[上野 1998:198]

 ここでは、自己というものが「さまざまな関係性の集合」によって作り上げられているものと捉えられている。そして、「固有のわたし」は「日本人」でもあるし「女性」でもあるし「教員」でもあるが、どれかひとつには還元されないというわけだが、そこには、自分が帰属している複数のカテゴリーから、あたかもそのときどきのアイデンティティを自由に選択したり拒否したりできるような「主体」が想定されてしまっている。いいかえれば、モノローグ構造のなかのさまざまな属性や役割や位置に規定された各アイデンティティに一つの〈声〉を与えている「作者」としての主体が想定されているのではないか。
 たしかに、自己というものは複数的であり、一つの関係性に還元できない「過剰性」をもっていると言えるだろう。しかし、その「過剰性」は、「日本人」といったカテゴリーに個人を無媒介に結びつけるような関係に還元できない他の役割関係(「教員」でもある)があるから、とか、他のカテゴリーにも属しているから(「女性」でもある)ということによる「過剰性」ではない。そのような複数性はいわば、一つの社会的ポジションに一つの声が対応していることを前提としているが、そのような複数性は単声的なアイデンティティを解体するようなものではない。
 ここで言いたいのは、〈顔〉のある特定の他者との関係性は、家庭での夫婦関係や親族関係や大学での教員と学生の関係といった役割のあいだの関係にしろ、帰属する階級やジェンダーや人種のあいだの関係にしろ、換喩的な役割連関やカテゴリー間の関係によって規定されるものより、つねに「過剰」なもの、つねに「それ以上のもの」なのではないか、ということである。たとえば、教員である「わたし」は、たとえ学生の前であっても「教員」という役割のみに還元されない。それは、「わたし」が妻の前では「夫」でもあるからではなく、あるいは、昔は「学生」でもあったからでもない。他の場面では他の役割をもっている(あるいはもっていた)からではなく、カテゴリーとしての「学生」に対しては「教員」としての役割になれても、〈顔〉のある学生は、制度上はわたしのクラスの学生であってもたんなる「学生」ではないために、〈顔〉のある学生のまえではたんなる「教員」になりきれないからである。
 つまり、〈顔〉のある他者との関係においては、個人はつねに役割やカテゴリーへの帰属(「何者」か)以上のものなのである。その過剰性は、私というものが、さまざまであるが一つ一つは区別できる関係性の束や役割の集合だからというより、親族関係や性や主従関係などのさまざまな役割関係のコードの一つに属する特定の関係に、異なるコードによる他の関係性が交叉=横断していることに起因するものである。その交叉=横断は、一つのポジションからの一つの声に他のポジションからのもう一つの声が加算されるということではない。親族関係や性や主従関係などの役割関係は、隣接性による換喩的関係であるといえるが、ここでいう交叉とは、たまたま隣接性によって関係づけられた他者の声が、その関係において相互模倣的に自分の声に浸透してくることによって生じる類似性の網の目を指している。ウィトゲンシュタインは、ある現象のすべてに対して同じ言葉を適用しているからといってそれらに共通している要素などなく、それらの現象は互いに多くの異なったしかたで類似しているとし、それを「家族的類似性」と呼んでいるが、それは、他者の声や身体の日常的な相互模倣によって生じる類似性だといえる。それは、隣接性によって生じる「互いに重なったり、交差したりしている複雑な類似性の網の目」[ウィトゲンシュタイン 2000:188]であり、隣接性による一つの関係が他の関係と交叉して相互浸透的に錯綜しているゆえに、そこでの複数性は、加算的なものではなくなっているのである。
 そして、その交叉においてこそ、一つ一つの関係性の特異性=〈顔〉が保持されている。その特異性は、一つによる関係が他の関係と交叉しているゆえに、教員/学生というコードによって他と区別された一つの関係性には還元されないと同時に、交叉する他の関係性なしに保持されることもない。そのような錯綜体においてのみ、〈顔〉という特異性が生成され維持されるというわけである。
 この錯綜体は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリのいう「リゾーム」といいかえることができる。その特徴を、ドゥルーズガタリは、つぎのように説明している。

樹木やその根とは違って、リゾームは任意の一点を他の任意の一点に連結する。そして、その特徴の一つ一つは必ずしも同じ性質をもつ特徴にかかわるのではなく、それぞれが実に異なった記号の体制を、さらには非・記号の状態さえ起動させる。リゾームは〈一〉にも〈多〉にも還元されない。それは一が二になったものではなく、一が直接三、四、五、等々になったものでもない。〈一〉から派生する〈多〉ではなく、〈一〉が付け加わる〈多〉(nプラス1)でもない。それは〔単位〕からなっているのではなく、さまざまな次元から、あるいはむしろ変動する方向からなっている。[ドゥルーズガタリ 1994:34]

 そのような錯綜体においてこそ、一つ一つの関係性の特異性が保持されている。この特異性は、教員と学生というコードによって他と区別された関係性には還元されないが、特定の他者との関係性を離れても保持されえない。
 それに対して、一つ一つが区別された関係性の束を「多様な関係性の集合」というときの「多様性」は、一義的に機能や意味が決められている〈一〉を加算した集合となっている。それをいくら「多様」と言い表しても、それぞれが全体から意味づけられた明確な機能をもっているという点で、モノローグ構造(単一構造)のなかに統合された多様性でしかない。つまり、それではポリフォニーとはいえない。日常的な生活の場で人びとが作っている関係性の一つ一つは、たとえそれが会社などの組織内の役割連関や親族関係などの関係であっても、一義的に機能が規定されているものではなく、つねにそれ以上の過剰なものであり、その過剰性こそが関係性をそれとは異なる次元の関係性に結びつけて、複雑な類似性の網の目としての共同性を生み出しているのである。


4.関係の過剰性としてのポリフォニーと模倣・反復

 『ドストエフスキー詩学の諸問題』のなかで、バフチンは、ポリフォニー小説の基本的特徴は、「それぞれに独立して互いに融け合うことのない多数の声と意識、そのそれぞれがかけがえのない価値をもつ声による真のポリフォニー」[バフチン 1995:15]にあると述べる。もちろん、モノローグ小説においても、複数の登場人物それぞれの個性や属性や経験が多様性豊かに描かれている。また、トルストイのモノローグ小説では、言語的差異、すなわち様々な言語スタイルや地域的な方言、階級的方言、職業上の隠語などを登場人物が駆使しているが、それに比べると、ドストエフスキーポリフォニー小説には言語的差異がはるかに少なく、登場人物たちはみな同じ一つの言語を、すなわち作者の言語を話しているかのようにみえると、バフチンは指摘している[バフチン 1995:368]。
 では、ドストエフスキーポリフォニー小説の「多声性」とは何を指しているのだろうか。バフチンは、ドストエフスキーの小説において「主人公像を形成する要素となっているのは現実(主人公自身および彼の生活環境の現実)の諸特徴では」なく、またドストエフスキーが求めた言葉は「主人公の性格(もしくはタイプ)や一定の生活環境における彼の立場を表す言葉」ではなく、主人公の「世界への視点を表す言葉」であるという。
 このような主人公の自立した声は、「ジェンダーや、国籍、職業、地位、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合」によって構成されながらも、そのどれにも還元されない代替不可能な個の単独性ということを表しているようにもみえる。つまり、モノローグ小説における登場人物のさまざまな個性や、その「一定の生活環境における彼の立場を表す言葉」の多様性は、ジェンダーや国籍、職業、地位などの関係性の多様性、あるいは比較可能で代替可能な社会的ポジションに規定された「特殊性」でしかなく、それと対比された「かけがえのない単独性」こそ、ポリフォニー小説において主人公に求められているものなのだと。
 しかし、「関係性の集合」から構成される自己は、その一つ一つの関係から逃れられないという点で、むしろモノローグ小説における自己の多様性でしかない、他方、代替不可能な単独性をもつ個は、関係性から切り離されたものとしてモノローグ的に閉じられている。バフチンはつぎのように言っている。

ノローグ的な構想においては、主人公は閉じられており、……彼の行為も経験も思考も意識も、すべて彼はこれこれの者であるという定義の枠内で、つまり現実の人間として決定された自己イメージの枠内で行なわれるのである。彼は自分自身であることをやめることができない。つまり自分の性格やタイプや気質の境界を逸脱すれば、必ずや彼に関する作者のモノローグ的な構想を破壊してしまうのである。[バフチン 1995:107]

 つまり、バフチンは、社会的ポジションや性格やタイプによって一義的に規定され構成された自己から逸脱すること――自分自身であることをやめること――、これがモノローグ的構想を崩すことだという。そして、重要なことは、その逸脱(ないし関係の過剰性)は人間の存在の「単独性」によるのではなく社会的な「対話性」によるということである。ポリフォニー小説における「対話性」が、モノローグ小説におけるような作者の特権性の放棄ということともに、文化人類学における実験的民族誌に与えた影響はいまさら言うまでもないだろう。しかし、バフチンのいう「対話性」とは、作品に対話を記述すること、つまりインフォーマントとの対話を民族誌にしてしまうことではなかったし、バフチンのいう作者の特権性の放棄とは、インフォーマントたちと共著・共編の民族誌を刊行することとは無縁のものだった。
 バフチンのいう「対話性」とは、作品全体の対話的構造を指すとともに、日常的な現実の人間生活の基本的な対話的交流を指していた。ドストエフスキーは「小説全体を《大きな対話》として構成した」のであり、この対話が「ついには作品の内部深く、小説の一つ一つの言葉に浸透して、それを複声的なものとし、また主人公たちの個々の身振りや表情の物真似一つ一つに浸透して、それを歪んだ狂気じみたものとするのである」[バフチン 1995:83]。
 このような「対話性」は従来の言語学では捉えられないものである。ポリフォニー小説における言葉は、「対話的交流という条件、すなわち言葉の真正な生活の諸条件のもとで不可避的に生じてしまう、二つの声を持った言葉」[バフチン 1995:373]であるが、言語学は、言葉を単一のモノローグ的文脈の範囲内で取り上げるために、この複声的な言葉と単声的な言葉との区別ができないからである。バフチンは、一つの言葉に二つの声があるような複声的な言葉の例として、文体模写やパロディや「隠された対話」を挙げている。それらはともに、「発話の指示対象へと向かう方向性と、他人の言葉へと向かう方向性」という二つの方向性をもっているという。そして、(他者の言葉以外の)対象指示のみへと向かう言葉(第1のタイプ)と、直接話法のような他者の言葉のみを指示する言葉(第2タイプ)――第1・第2のタイプは単声的な言葉である――とは区別された、文体模写やパロディや隠された対話のように、指示対象と他者の言葉の両方へ同時に向かう、第3のタイプの言葉(複声的な言葉)がポリフォニーの核となるというのである。

 バフチンのいう第3のタイプの言葉に共通することは、文体模写やパロディに端的にみられるように、他者の言葉の「模倣」ないし「反復」である。また、バフチンは、実際の日常生活における対話では、話す者が他者の言葉を文字通り反復しながら、そこに新しい評価やアイロニーや自己流のさまざまなアクセントを付け加えて「二つの声をもつ言葉」にしていることが頻繁に起きると指摘している。そこでは、他者の言葉との相互関係はきわめて多種多様な形式をとり、また他者の言葉による歪曲も多種多様であるが、それは差異における他者の言葉の「反復」が多種多様なずれを生んでいるからである。そのような他者の言葉の反復が生みだす差異関係は、いわばリゾームとしての関係となっているといえよう。つまり、モノローグ的構想がツリー構造をなしているのに対して、ポリフォニーリゾームとしての関係の過剰性をもっているのである。
 他者の言葉や身振りの模倣・反復によってモノローグ的構想と単声的なアイデンティティ(ツリー構造と啓蒙主義的主体)を撹乱するというやり方は、先にみてきたクリアの例のような「生まれ変わり」や、伝統的な憑依などに見られるだけではなく、植民地化において押しつけられたツリー構造を生活の場でリゾームへと変容させる実践にも見られる。また、それは、ジュディス・バトラーが、ドラッグ(女装)におけるジェンダーアイデンティティの模倣・反復によるパロディに見いだした異性愛主義の言語の内部でのパフォーマティヴな撹乱の戦略にも共通している。バトラーの撹乱の戦略に対しては、異性愛主義の言語を再生産する模倣や反復と、それを撹乱する模倣や反復とを区別できるのか、できない以上、その反復・模倣が支配的なジェンダー構造を再生産するだけだという批判も出ている。バフチンも、文体模写やパロディは、他者の言葉の客体性が低下すると、単声的な言葉になりがちだと言っている。けれども、反復や模倣が支配的なツリー構造の再生産でしかないという批判は、関係性の「過剰性」を想定していないために出てくる批判である。そこでは、一つの関係性に一つの声を与えて全体へと統合するようなモノローグ的構造が想定されているが、そのような想定からは、「二つの声をもつ言葉」は捉えられないゆえに、単声的なアイデンティティの再生産にしか見えない。しかし、リゾーム的な関係性の過剰においてなされる反復は、ツリー構造をラディカルに変革していく。それを見いだす視点こそ、文化人類学バフチンに学ぶべきことだろう。



文献表

上野千鶴子 1998 『ナショナリズムジェンダー青土社

小田 亮 1994 『構造人類学のフィールド』世界思想社

柄谷行人 1994 『探究?』講談社(学術文庫版)

ナンシー、J=L 2001 『無為の共同体西谷修安原伸一朗訳、以文社

バトラー、J 1999 『ジェンダー・トラブル』竹村和子訳、青土社

バフチン、M 1995 『ドストエフスキー詩学』望月哲男/鈴木淳一訳、筑摩書房


2003年1月11日の早稲田大学文化人類学会第4回総会シンポジウム「〈声〉の複数性――フィールドにおける〈ポリフォニー〉をどう扱うか」で発表