講義 「アフリカン・アメリカン文化」 小田亮


1.アフリカン・アメリカン文化の成立

●16世紀に始まる奴隷貿易
 16世紀に始まる大西洋間の奴隷貿易は、西ヨーロッパの製造品(綿製品、真鍮の腕輪などの金属製品、ジンなどの酒類、鉄砲など)を積んだ船がアフリカ西海岸でそれらを奴隷と交換し、代わりに奴隷を積んだ船は西インド諸島アメリカ大陸へ渡り、そこで、積んできた奴隷との交易によって砂糖や綿花やタバコを手に入れ、それらの商品を積んで、西ヨーロッパの母港にもどるという「三角貿易」の形をとっていました。16世紀に大西洋奴隷貿易を始めたのはスペインでしたが(最初の奴隷が船荷として西アフリカ海岸部から出航されたのは1518年)、17世紀にはスペイン・ポルトガルに代わって、イギリスとフランスが西インド諸島に植民地を築き、18世紀からは、産業革命をいち早く迎えたイギリス(産業革命によって奴隷と交換する製品を大量に作ることが可能になった)が、海上覇権をオランダから奪い、イギリスの主導のもとで大西洋間の奴隷貿易は頂点を迎えました。この奴隷貿易は19世紀まで続きます。イギリスで奴隷貿易禁止令が出たのが1808年、イギリスでの奴隷制度の廃止は1830年代、アメリカ合衆国では1863年、ブラジルでは1888年でした。

●大西洋奴隷貿易によるアフリカ人の移動
 16世紀〜19世紀初頭までの大西洋奴隷貿易の期間中にどれくらいの人数のアフリカ人が奴隷として船で連行されたのかについては、奴隷貿易船の航海日誌や貿易会社の書類といった残された(限られた)資料などから推計するしかなく、いろいろな説(試算)がありますが、多くの推計が少なくとも1000万人から2000万人程度と見積もっており(多い推計では、18世紀末までに約5000万人とされている)、少なく見積もられた推計でも、1000万人近くの10歳代から30歳代前半までのアフリカ人がアメリカに連行されたということになります。航海は3ヶ月近くかかり、航海中の奴隷の死亡率について、全体としては不明ですが、フランスの奴隷貿易港ナントにある奴隷貿易会社の18世紀の記録では死亡率は8〜32%と推定されています。しかし、船中で疫病が発生した例では、アフリカで積み込んだ189人の奴隷のうち、アメリカで荷揚げされた奴隷がわずか29人という記録もあります。時代別にみると、荷揚げされた奴隷の総計を1100万人と見積もっているある推計によれば、16世紀から17世紀の200年間に約200万人、18世紀に約700万人、19世紀に入ってから約200万人となっており、18世紀〜19世紀初頭が奴隷貿易の頂点だったことがわかります。ちなみに、日本列島の総人口が17世紀初めで約1200万人と推計されていますから、300年あまりで、日本列島の人口のほぼ全部がアフリカからアメリカに連行されたことになります。
 また、アメリカのどの地域に連行されたかを見ると、30%から40%がカリブ海地域(キューバエスパニョーラ島[ハイチとドミニカ]、ジャマイカプエルトリコなどの大アンチール諸島と、その北側[フロリダ寄り]のバハマ諸島、その南東側[ベネズエラ寄り]のマルティニークなどからなる小アンチール諸島)へ、ブラジル向けが35%以上、その他(スペイン領アメリカとアメリカ合衆国)へが残りの30%ということになっています。ちなみに、現在、アフリカから連行された奴隷たちの子孫であるアフリカ系アメリカ人の数も、1950年の人口統計をもとにした推計では、当時のアメリカ合衆国とカナダに住むアフリカ系アメリカ人の人口が1500万人に対して、ラテンアメリカカリブ海地域にすむアフリカ系アメリカ人の人口は3300万人となっており、後者の地域に倍以上住んでいます。

三角貿易以前の西アフリカの奴隷制
 サムエル・モリソンというアメリカ史家は、『オックスフォード・アメリカ国民史』[1965年](日本語訳の題は『アメリカの歴史』集英社)のなかで、奴隷制度について「忘れてはならないことであるが、アフリカの奴隷貿易はアフリカの黒人たち自身のあいだで始まっている。暗黒大陸では、奴隷とされることはごく当たり前のことであって、奴隷制度の犠牲者となってアメリカに船で運ばれた者は、その航海を生き延びさえすれば、アフリカで奴隷のくびきにつながれたままの奴隷たちよりもましな暮らしができた」と述べています。アフリカを「暗黒大陸」として描く、このような文章が権威ある歴史書として通用していた本に載っているだけでなく、日本語訳が1997年に文庫として再刊されているというのは驚きです。しかし、現代でも欧米諸国による奴隷貿易を正当化するように、アフリカ人を奴隷としてハンティング(奴隷狩り)をして売ったのはアフリカ人であり、アメリカに連れてこられたアフリカ人は、奴隷ではあっても、アフリカで奴隷になっているよりも、はるかに文明的な生活をすることができたのだと述べる研究者たちがいます。たしかに、たとえば西アフリカのサハラ砂漠の南に12〜15世紀頃栄えたマリ帝国には奴隷制度がありました。しかし、それらの奴隷の多くは土地や牛などをめぐる戦いの捕虜であり、家族内の下僕のような存在で、主人の信任を得れば主人との義理の親子関係を結んで、自由民となれたのです。
 しかし、三角貿易の純然たる「商品」としての奴隷は、それ以前のアフリカ社会における奴隷とはまったく異なっていました。「商品」の調達のための奴隷狩りが始まったのは、ヨーロッパ人による三角貿易による奴隷の需要があったためであり、西アフリカのいくつかの王国は、商品としての奴隷を調達するための戦いをするようになりました。それが可能となったのは、それらの王国が奴隷貿易で鉄砲を多く手に入れたからだったのです。

●カリブにおける砂糖のプランテーション
 では、なぜ奴隷の需要が膨大になっていったのでしょうか。それは、アメリカの植民地で砂糖やタバコや綿花(18世紀になるとコーヒーが加わります)などの「世界商品」を作るプランテーションでの労働力が必要だったからでした。アメリカでも最初は先住民を労働力に使おうとしたのですが、鉱山での酷使や疫病や先住民の抵抗とその弾圧によって、アメリカ先住民の人口が激減したために十分な労働力が確保できず、アフリカ人を奴隷としてプランテーションで労働させるということを、アメリカ「発見」以前から、アフリカ人がポルトガルやスペインなどで奴隷として使われていたこともあって、思い立ったわけです。
 逆にいえば、三角貿易で結ばれた、アメリカでのアフリカ人奴隷の需要の急増と、ヨーロッパでの砂糖とコーヒーの需要の急増とには平行関係があります。貴重品で貴族や金持ちしか手に入らなかった砂糖やコーヒーの需要が伸びたのは、それが労働者階級の消費の対象となったからでした。シドニー・W・ミンツの『[聞書]アフリカン・アメリカン文化の誕生』(岩波書店)によれば、その需要は、産業革命によって苛酷となった工場労働者の厳しい労働条件のせいで伸びたといいます。砂糖は工場労働者の空腹を紛らわすためであり、コーヒーなどの嗜好品も気晴らしのためのものでした。

●「プランテーションアメリカ」
 連行されたアフリカ系の奴隷たちは、アメリカにおいてプランテーションで働かされました。ある歴史家は、カリブ海の島々からブラジル北東部、そしてアメリカ合州国南部までを、「プランテーションアメリカ」と呼んでいますが、その地域こそアフリカン・アメリカン文化の成立した地域なのです。これらの地域のうち、まずカリブ海の島々、そしてブラジル北東部のプランテーションでは砂糖が、独立(1776年)前のアメリカ合州国南部では煙草が主に生産されていました。18世紀末になると、アメリカ合州国南部では、1793年に綿花の新品種である短繊維の綿花を効率よく処理できるホイットニーの綿繰機(コットン・ジン)の発明もあって、「綿花王国」となり、ブラジル北東部では、ヨーロッパでのコーヒー・ブームもあって、「コーヒー王国」となっていきました。
 プランテーションというと、白人たちは、一面の綿花畑やコーヒー園で綿花やコーヒーの豆を摘んでいる奴隷たちという牧歌的な風景を描くことが多かったのですが、それを農場と考えないほうがよいと、シドニー・ミンツは言います。それは、強制労働による一種の「工場」であり、苛酷な労働のために、奴隷の死亡率も高く、それを奴隷貿易による新しい奴隷の供給でまかなっていたのです。砂糖を生産していたカリブ海の島々の大規模なプランテーションは、400人ほどの奴隷人口をもち、広大なサトウキビ畑と砂糖の加工を施設や病人を収容する「病院」などの施設からなる、まさにひとつの大規模な「工場」でした。ある歴史家の研究によれば、18世紀末のジャマイカにおける砂糖を生産する大規模プランテーションでは、奴隷の人数は315人で、そのうち150人が畑で労働し、34人がサトウキビを砂糖に加工する職人や労働者の監督、13人が「病院」で病人の世話をする労働をして、22人が家事労働者、25人の少年少女が軽い労働をするグループ、まだ働けない幼い子供が39人、病人や高齢者で働けない者たちが33人だったといいます。
 けれども、あとで触れるように、奴隷たちの生活は苛酷な労働一色に染められていたわけではけっしてありませんでした。奴隷たちは、何とか家族をもち、人間的に生きるための娯楽を彼ら自身で作り出していたのです。「日没から夜明けまで」は彼らの時間であり、そこで踊りや音楽やフォークロアや宗教活動をしても、労働に差し支えない限り大目にみられましたし、小さな畑を持ったり、プランテーションの外の市場に作物を売りに行くこともありました。

クレオール語と言語使用状況
 クレオールという語はフランス語ですがが、スペイン語ないしポルトガル語クリオーリョから来ている言葉で、語根は「育てる」とか「誕生する」ということを意味するラテン語の creare から派生したものです。外来のものがある土地に土着して新しく生まれたものというのがもともとの意味だといいます。けれども、クレオールという語は多義的な意味をもっています。まず、クレオールという語は、アメリカにおける「植民地生まれの白人」という意味で用いられ、ヨーロッパからの植民者(移民)の子孫である白人を、ヨーロッパの本国にいる白人たちと区別するための言葉として使われました。植民地生まれのヨーロッパ系移民の子孫たちは、ヨーロッパにいる人びとからはまっとうな白人でないもの、「白いニグロ」として軽蔑されていたのです。そして、植民地のプランテーションで生まれたアフリカ系奴隷の子孫たちもクレオールと呼ばれました。
 それが、カリブ海地域の植民地のプランテーション(フランスの植民地ではアビタシオン)で白人植民者の言語(英語やフランス語)をもとにして創られ、黒人奴隷の子孫の間で母語となった混成言語(クレオール語)を指す術語として使われるようになりました。つまり、クレオールは、白人であっても白人でない者、フランス語や英語をもとにしているが崩れた「出来損ない」のフランス語や英語という否定的な意味をもっていたのです。
 クレオール語はまずピジン語として生まれます。つまり、第一段階の混成言語としてのピジン語が生まれ、その後、その混成言語を母語とする話し手が生まれることによって、クレオール語となるのです。混成言語としてのピジン語・クレオール語は、まったく異なる二つ(あるいは二つ以上)の言語をそれぞれ話す人びとが、なんとかやりくりしてコミュニケーションを取らなければならない状況において生じます。文法の体系も発音の体系もまったく異なる言語が混成するという場合、それは、核となる1つの支配言語とそれとは文法も発音も異なる言語との混成となります。つまり、そこでのコミュニケーションは対等ではなく、植民地におけるヨーロッパ系の植民者と、連れて来られたアフリカ系の奴隷あるいは支配され、土着の言語を奪われたネイティヴというように、支配‐被支配関係が両者の間にあるときに、ピジン語やクレオール語は生まれるのです。
 クレオール語の例は、カリブ海域の島々で創られたフランス語クレオールや英語クレオールのほかにも、13世紀頃からライン川中流域に定住し、都市でゲットーと呼ばれる居住地に押し込められたユダヤ人がドイツ語から作り出したイディシュ語や、パプアニューギニア公用語となっているピジン英語から発展したトクピシン語などがあります。
 クレオール語にならなかったピジン語の例はこれより多く、日本でも、第二次大戦後のアメリカ占領期に基地のまわりで占領軍人を相手に売春をしていた女性たちの間で離されていた、「ミーは、ウォント・マニーよ」といった言葉もピジン語の一種です。
 「プンテーションテーション・アメリカ」の諸地域のなかでは、クレオール語は、カリブ海地域で発達しています。砂糖の大規模プランテーションに比べると、煙草やコーヒーは小規模でも生産できることから、アメリカ大陸のプランテーションは規模が小さく、奴隷の人数も少なかったので、ヨーロッパ化しやすく、ピジン語からクレオール語が生まれにくかったのです。
プランテーションアメリカ」の諸地域では、いわゆる公用語としては、ヨーロッパ諸言語のいずれかを使用しています。クレオール語は、あくまでも価値の劣る、崩れた言語、能力の劣った奴隷たちの訛った言語とみなされていました。白人たちはもちろんクレオール語母語とはせず、公用語であるヨーロッパの言語を白人たちのように「正しく話し書けること」が文明度の尺度でした。奴隷制度廃止後は、元奴隷たちも「よい仕事」を得て社会的に上昇するために、公用語であるヨーロッパの言語を「正しく話し書けること」を目標にするようになり、クレオール語に対する否定的な評価はアフリカ系アメリカ人にまで浸透していったのです。特に、アメリカ合州国南部やブラジル北東部など大陸では、アフリカ系アメリカ人はマイノリティであったので、クレオール語は普及しませんでした。しかし、砂糖の大規模プランテーションのあったカリブ海地域では、公用語はヨーロッパの言語でも家庭内で用いる母語クレオール語という場合が多かったのです。


2.アフリカ系奴隷の抵抗と文化の創造

●日常的な抵抗と「サンボ」
 奴隷貿易によって生まれた土地から切り離されて、まったく違った環境に置かれ、苛酷な奴隷労働という抑圧された状況に直面したアフリカ系奴隷たちは、生き延びるために、新しい生活様式や文化を編み出さなければなりませんでした。それはある意味では新しい環境への「適応」や「対応」でもありましたが、たんに受動的に適応したのではなく、彼らはそのような状況に抵抗することによって新しい文化を創造したのでした。そして、そのような抵抗の産物である新しい文化の創造がアメリカの文化全体に影響を与え、アメリカを「アフリカ化」していったのです。では、アフリカ系奴隷たちが具体的にどのように抵抗したのか、それを見ていきましょう。
 まず、奴隷制度の下での苛酷な抑圧に対して、彼らは、当然のことながら、実際に血を流しながら戦いました。ブラジル奥地の逃亡奴隷たちによる「黒人共和国」(キロンボ、なかでもペルナンブーコ地方のバルマーレスは、17世紀初めから1694年に滅ぼされるまで約1世紀続いた)、ジャマイカのマルーン戦争(第1次 1734年、第2次 1795年)やハイチ革命(1791〜1804年)、アメリカ合州国におけるナット・ターナーの反乱(1831年)などの奴隷の反乱などがそのような戦いの例として挙げられます。
 しかし、そのような正面からの戦い以外にも、「抵抗」のやり方はありました。それが、隠れた抵抗、捉えがたい「日常的な抵抗」です。たとえば、故意に作業をゆっくりとしたりするサボタージュ、愚かさや無知や子どもっぽさを装うこと、仮病、わざと怪我をすること、盗み、逃亡、自殺、中絶などです。それらは、プランテーションにおける効率や規律、生産性への抵抗でした。ミンツがいうように、抵抗というものがすべて暴力や物理的な力をともなうものと考えるべきではないでしょう。もちろん、力による抵抗が重要ではないということではありませんが、抵抗に用いる武器はなにも物理的な力だけではないということが重要なのです。そうでないと、たまに起こる少数の武器を手にした抵抗者以外の大多数の奴隷たちは、日常的にはただ受動的で従順に運命に従っていたことになってしまいます。ミンツは、非暴力の抵抗は、抵抗ではなく、奴隷の従順さや頑固さ、無知、怠惰などと見られてきたが、たとえ奴隷たち自身がそれを抵抗として意識していなかったとしても、やはりそれは抵抗と定義されるべきだと述べています。
 白人たちは、奴隷を「従順」で「子どもっぽく」、自分の愚かさを自覚しており、自分より優れた主人たちに忠実であり、保護されていることで幸せを感じていると信じたがっていました。そのような従順な黒人奴隷を「サンボ」と言いますが、白人たちは、奴隷の大多数は「サンボ」で、反乱を起こしたり逃亡したりする反抗的な奴隷(「ナット・ターナー」)は少数だというわけです。しかし、実際には、奴隷たちは多数の「サンボ」と少数の「ナット・ターナー」という2種類からなるわけではありませんでした。彼らは、自分にとって有利な状況を作って生き残るために、臨機応変に「サンボ」にも「ナット・ターナー」にもなったのです。そもそも、普段はサンボとなって、自分たちの食料を作る畑を与えられてそこで農耕を覚えたり、主人の信頼をえてプランテーションの外の市場に作物を売りに出掛けられようにならなければ、逃亡も市場での反乱の仲間作りもできないし、逃亡奴隷たちが奥地で自給自足の「黒人共和国」を作ることもできないわけです。そして、そのような反逆者や逃亡も、プランテーションに残った奴隷たちの支援なしには不可能でした。
 プランターたちが奴隷を人間と見なさないような非人間的なプランテーションの抑圧体制のなかで、なんとか人間的に生きるため、彼らはさまざまな手段を臨機応変に使って抵抗したのです。そこでは、抵抗がそのまま適応となっていたわけです。その抵抗と適応のプロセスにおいて、彼らは、アフリカの地から持ってきた文化の記憶を使ったし、同時にアメリカで与えられたもの(彼らのもともとの文化にはなかったもの)でも、利用できるものは何でも取り入れました。それが最も明確に現れているのが、宗教や音楽、踊り、フォークロア(口頭伝承)といった面においてだったのです。

フォークロア(口頭伝承)による抵抗
 アフリカの地からもっていた文化の記憶を用いた例としては、フォークロア(口頭伝承)が挙げられます。アフリカ系の奴隷たちは、日没後などに語り合ったり、子どもに話を聞かせるとき、アフリカ起源のアナンシ物語に代表されるトリックスター(悪知恵の働くいたずら者)の伝承をクレオール語で語り直しました。西アフリカには、エシュという神やクモやウサギの姿をしたトリックスターの物語がたくさんありますが、黒人奴隷たちは、クモであるアナンシを主人公としたトリックスターの物語を好んで語ったり、新しく創ったりしました。たとえば、ハイチでは、つぎのような話が語り継がれています。

 アナンシの悪知恵にすっかり頭にきた大統領は、「アナンシよ、余は貴様の馬鹿騒ぎにはもう飽き飽きした。余に貴様の間抜け面をけっして見せるな」といって、大統領官邸からアナンシを追放しました。数日後、アナンシは大統領が街に姿を現したのをみて、頭を石灰焼き窯の扉の中に突っ込んで大統領を待ち受けました。道にいた人びとは皆大統領を見ると帽子を取ってお辞儀をしました。石灰焼窯のところに来ると、アナンシの尻が突き出ているのをみて、「私にお辞儀をしないのは誰だ。誰の尻だ」とどなりました。アナンシは窯から頭を出して、「お辞儀をしなかったのはアナンシめの尻でございます」と言いました。大統領は、「アナンシめ、お前は私を尊敬しとらん」と怒鳴ると、アナンシは、「閣下、私めは閣下の仰せのとおりに、つまりけっして私の間抜け面で閣下のお目をけがさぬようにいたしたまででございます」と言いました。大統領は「アナンシよ、お前の間抜けぶりにはほとほとあきれた。服を着ていようが裸であろうがお前を二度と見たくない」と言うと、アナンシは立ち去りました。けれども、翌日大統領が街にやってくるのを見たアナンシは、服を脱いで魚を捕る網をかぶって大統領の前に現れました。それを見て大統領は「アナンシ、余は着衣だろうが裸だろうが、お前を見たくないといったではないか」と叱りつけました。アナンシは「はい、私はあなた様を尊敬申し上げております。私は服を着てはいませんが裸のままでいるわけでもありません」と答えました。大統領は「アナンシ、今度ハイチの土の上でお前を見たら、お前は銃殺だ」と申し渡しました。そこでアナンシは、船でジャマイカに渡り、靴を一足買ってその中に砂を詰めて履いて、ハイチに戻った。船がポール・オー・フランスの港へ着くと、はしけのところに大統領が立っていました。「アナンシ、私の言ったことを忘れたか」と大統領が叫ぶと、アナンシはそれに答えて、「はい存じております、パパ。私はそれをきちんと守っております。私はジャマイカに行って靴の中に砂をつめて参りました。だから私はジャマイカの土の上を歩いているので、違反していないと存じます」。(山口昌男『アフリカの神話的世界』より)

 これと同じ話は西アフリカにあり、アフリカ系奴隷の文化に残存しているアフリカ文化の例ということになります。西アフリカでは、トリックスターの相手となる登場人物は大統領(ハイチの独裁者となった大統領)ではなく王や至高神でしたが、プランテーションのなかの奴隷コミュニティでは、おそらく王ではなく白人プランターが登場していたことでしょう。
ただ、これをたんに「アフリカ文化の残存」としてのみ見るべきではないでしょう。プランテーションの黒人奴隷たちは、聖書の物語やシンデレラなどのヨーロッパの民話やさまざまなアフリカの神話や神々を自分たちの話やトリックスターの物語に作り替えていったのでした。白人のキリスト教の神父たちからは、アフリカの神々は「悪魔」として排斥されていましたが(そのため、奴隷制廃止後は、アナンシ物語も衰退していったのです)、それゆえにこそ、プランテーションの黒人奴隷たちは、それらのトリックスターに自己同一化していったのです。
 つまり、アナンシ物語を代表とするトリックスターの物語は、アフリカン・アメリカン文化では、強大な支配者である白人プランタープランテーションの監督者の下で抑圧されつづけ、自分を「愚か者」「怠け者」であることを認識せよと教え込まれた黒人奴隷たちが、語りによる笑いのなかで、「愚か者」「怠け者」であることがそのまま「勝利者」や「賢者」となることを可能にしてくれたのです。奴隷たちの日常的な抵抗として、白人たちが自分たちに押しつけた「愚か者」や「怠け者」という烙印や「サンボ」のイメージを利用するという「抵抗」の仕方を挙げましたが、アナンシはこのような現実の抵抗のモデルであり、さらに日常的現実のなかで「サンボ」を演じなければならないという自己嫌悪も、アナンシ物語のなかで起こる、そのような愚か者を装うことがそのまま「勝利者」や「賢者」へと転化し、支配者である白人こそが「敗者」で「騙される愚か者」となるという逆転によって、それによる笑いとともに解消されていったと言えるのではないでしょうか。
 そして、皮肉なことに、アフリカ系アメリカ人たちが白人たちの価値観で自分たちを見て「黒人であることを嫌悪」するようになった(アフリカ系アメリカ人の思想家であるW・E・B・デュボイスは、『黒人のたましい』[1903年]のなかで、このように「他者=マジョリティである白人のステレオタイプ化されたイメージを通して否定的にしか自分を見られない」という黒人たちの意識を「二重意識」と呼んでいます)、奴隷制が廃止され、プランテーションにおける奴隷の共同体コミュニティが解体して、アナンシ物語のようなフォークロアが衰退していってからだったのです。

●音楽における文化の創造
 プランテーションの黒人奴隷たちは、仕事が終わる日没後の食事のあと、寝る場所であった小屋のなかや戸外で、車座になって物語などを語るとともに歌をうたったのです。歌や物語には、ときには楽器による伴奏がついたり、ダンスが伴っていました。黒人奴隷たちは自分たちで独自の歌を創っていました。それは、たいてい即興的にそして集団的に創られたのでした。そして、その歌詞も、主人である白人プランターへの皮肉や、奴隷労働のなかでの苦労などをその場で歌ったものだったようです。アメリカ合衆国の元畑奴隷は、「むかし自分で歌を作った」ときのことを次のように述べています。

 私が、少量の米を要求したとき、「黒ん坊」の追い立て役の奴隷が、私たちにもっと働くようにしつこく要求したのです。そこで私が、「ああ、この老いぼれ黒ん坊の追い立て役め」と言うと、他の奴隷が、「母さんがおれに最初に教えてくれたことは、黒ん坊の追い立て役ほど悪い奴はいないということだ」と言います。そこで、一言ずつそれらの言葉を続けて歌を作りました。
 「ああ、あの老いぼれ黒ん坊の追い立て役め!
   ああ、あっちへ行こう!
  母さんがまっさきにおれに教えてくれたことは、
   ああ、あっちへ行こう!
  あの黒ん坊の追い立て役のことだ、
   ああ、あっちへ行こう!
  黒ん坊の追い立て役は悪魔に次ぐもの、
   ああ、あっちへ行こう!
  追い立て役の奴にしてやる一番いいことは、
   ああ、あっちへ行こう!
  奴を殴り倒して奴の仕事を台なしにすることだ
   ああ、あっちへ行こう!」

 このように、プランテーションの奴隷コミュニティで創られる歌は、即興的で集団的に創られたが、それは個人的なものとまったく無縁なのではなく、個人的な体験をコミュニティの共通の体験とするためのものだったのです。
 それらの歌は、アフリカからもってきたメロディーとリズムや、奴隷たちの行くことを許されていた野外伝道所や教会で覚えた賛美歌など、ヨーロッパ起源のメロディーやハーモニーをもとにしていました。ヨーロッパ起源の曲のメロディーは、音階などアフリカ起源の五音階に変え、リズムもアフリカ起源のものにしていたといいます。楽器も手作りで、洗濯盥やナベなどを使った太鼓や瓢箪を使ったガラガラなどの打楽器や、バケツや盥や瓢箪あるいは細長い板に馬の尻尾の毛をよって弦を張って作ったバンジョーやバイオリンなどの弦楽器や笛などの管楽器も自分たちで作りました。それらの楽器も、アフリカ起源のものとヨーロッパ起源のものが混在していたのです。
 白人プランターたちも、労働外の時間であれば、物語を語って笑っていたり、歌やダンスを楽しんでいる奴隷たちに対して放任的な態度をとることが多かったようです(なかにはそれらを禁止したプランターもいましたが)。奴隷たちが太鼓やガラガラやバンジョーなどを使って歌ったり踊ったりする「バカ騒ぎ」も、労働の効率を上げる気晴らしと見たり、それを見物して楽しむこともあったといいます。その楽観的な容認は、「愚かで子どもっぽく、陽気な黒人奴隷」というステレオタイプ(サンボ)に一致していたからでもあったでしょう。
 そこで創られた歌や音楽は、当初に白人たちが考えたようなでたらめのバカ騒ぎの雑音などではありませんでした。例えば、白人たちが「卑猥な踊り」と見なしたダンスは、カレンダ(合衆国ではカリンダ)と呼ばれるものでしたが、18世紀初頭にカリブ海域のマルティニークでカレンダを見たフランス人の記述によれば、男女がそれぞれ列をつくり、太鼓や手拍子のリズムと全員によるコーラスに合わせて、向きあって腰を動かし、だんだん男女の列が近づいていって、向かいあう男女の太ももが触れ合う瞬間に体を翻して離れていく、というものだったといいます。そのリズムは、2小節ごとに強拍の入る2拍子が基本で、そのリズムの技法はアフリカのものです。
 ブラジルのプランテーションでは、ポルトガル人によってバトゥーキと呼ばれた踊りが記録されています。それは、踊り手たちが小さな輪になって、長い太鼓の音に合わせて歌い、手を叩きながら踊る。踊り手はその輪のなかに交互に入っていき、輪の中の踊り手が輪から出るとき、腰を軽く前に突き出して腰を接近させて、次に輪の中に入る者を指名する。この腰の接触はアフリカのアンゴラ語でへそを表す言葉で「センバ」と呼ばれたが、バトゥーキやその他のアフリカ起源の踊りは、その語が少し訛った「サンバ」と呼ばれるようになりました。そこで歌われる歌も、ソロとコーラスが応答するように代わる代わる歌う、いわゆるアンティフォナの形式で、アフリカの音楽の影響が見られます。
 また、ワークソングなど、プランテーションで歌われたその他の歌も、五音階の歌はアフリカの音階で歌われ、グループで歌うときは、アフリカの音楽と共通する、ソロが歌うのを受けてコーラスが歌うという掛け合い(アンティフォナ)が見られました。その形が、アメリカ合衆国南部でプランテーションのなかのキリスト教的な集会(あとでまた述べるように、奴隷の数が20人を越える規模なプランテーションの奴隷コミュニティでは、奴隷だけの宗教的な集会が夜や日曜日などに開かれていた)で歌われるようになったものが、ソロとコーラスの掛け合いからなるスピリチュアル(いわゆる黒人霊歌)で、畑で働くときなどにホラーやコールと呼ばれる個人でメロディーだけを口ずさむ歌とともに、ブルースのもとになったものです。

奴隷解放の神話
 カリブや合州国南部のプランテーションで生まれた音楽が、奴隷制廃止後に世界音楽としてのポピュラー音楽となっていった過程は、また別の日の講義で取り上げますが、ここでひとつだけ、合州国アフリカ系アメリカ人によって創られたブルースについて、それが奴隷解放後、つまり奴隷共同体の解体後の「個人」となったアメリカ黒人たちによってはじめて可能となったという、一般的な解説について、すこし批判しておきます。
 たとえば、三井徹さんは、『黒人ブルースの現代』(音楽の友社)という本で次のように言っています。

 黒人が奴隷ではなく、アメリカ人という自由人になる。ところが自由人であるのに抑圧を受ける。そこではじめてブルースは生じはじめる。……それまでの黒人は奴隷共同体の一員であり、孤立はしていなかったのだけれども、その生活の前提が奴隷解放によってくずれ、その結果、黒人は孤立し、一本立ちした。一人のアメリカ人として、新たに独立した一個人として孤立した。……自由の身でありながら、その自由が抑圧されている。そこでブルースは生まれる。奴隷共同体にひきこもっていたときには、根本的に、ワークソングやダンスなど共同体音楽しか存在しなかった。それはやはり奴隷の音楽でしかなかった。けれども、解放後の黒人はアメリカ人である。アメリカ人であるということは自由である、……その自由であるという条件があってこそ、共同体的要素をもっていると同時に、個人の歌であるブルースが生じる。そして、そのブルースがけっして奴隷の音楽ではなく、アメリカ人の音楽だということがわかる。

 ここには、奴隷共同体には個人も自由もまったくなく、音楽も「共同体音楽」しかなかったというイメージが描かれています。たしかに、1950〜60年代まで、奴隷共同体は、強制収容所と同じで、その極度の抑圧が奴隷たちの人格の破壊をもたらしたという説が有力でした。この説によれば、黒人たちがその文化を開花させたのは、まがりなりにもそこから解放され、自由な個人となり、この個人がなおも続く抑圧に対して抗議したり、その苦悩を歌ったりしたものがブルースでありジャズだったと説明されます。しかし、60年代後半から60年代にかけて、アメリカ合州国アフリカン・アメリカン文化の研究は、そのころ発掘されて編集された多くの解放奴隷たちのナラティヴをもとに、奴隷たちが奴隷制によるプランテーションのなかでも自主性を発揮して、アフリカからもってきたものを新しい状況に適応させ、その地で手に入る新しい要素を自分たちの生活に取り込み、自分たちの共同体や文化を創造しながら、一定の自立を達成していたということが強調されるようになります。そして、元奴隷たちの奴隷時代の経験と奴隷制廃止後の経験との間に明確な相違がなかったことを明らかにしています。
 奴隷制のもとでの黒人奴隷たちが完全な犠牲者であり、人格的な破壊を受けていたという仮説は、G・P・ローウィックが『日没から夜明けまで』(刀水書房)で述べているように、エリート主義的で近代主義的な見方でしょう。そこには、もともと彼らのいたアフリカの地でも個人は共同体に埋没していただろうし、プランテーションでもただ状況に受動的に従ってサンボのような奴隷根性を身につけており、自立することができなかった、彼らが本当に自分たちの文化を創り出したのは、他の人びとによって解放され、自由な個人という近代的な価値を与えられてからだという想定があります。この想定は、オリエンタリズムと同類のものというべきでしょう(ただし、奴隷共同体の肯定的な評価が奴隷制の抑圧の残酷さや卑劣さを隠してしまうことになれば、それはまた新しい「神話」になってしまうでしょう。奴隷共同体における文化の創造は、彼らの自由や自立を意味するのではなく、抑圧に対する抵抗であることを忘れてはならないでしょう)。


3.ブラジルのサンバとクレオールの国民化

●ミステリー・オブ・サンバ
 サンバは、ブラジルにおける人種と文化の混淆の象徴であり、ブラジルの国民文化の象徴となっています。サンバが生まれたのは、リオ・デ・ジャネイロのファヴェーラ(リオの丘の名前で、1900〜1910年にリオの市長ペイラ・パッソスが始めた開発によって、市の中心部から追い出された貧民が丘の急斜面に建てたバラック=掘っ建て小屋の並んだ「スラム」があった所で、その後ブラジルじゅうのスラムを指す言葉になった)で、20世紀初頭に誕生した都市のポピュラー音楽です。しかし、はじめの頃は、サンバは、ファヴェーラだけで演奏され歌われていて、ブラジルのエリート社会からは、スラムに住む犯罪者のようなごろつきたちの音楽と見なされていました。ところが、1930〜40年代には、カーニバルの主役となったサンバは、ラジオを通じてブラジル全体の国民的音楽になり、世界のポピュラー音楽として勝利をおさめ、国の内外でブラジル国家の新しいイメージにまでなったのです。
 ブラジルの文化人類学者のエルマノ・ヴィアナは、『ミステリー・オブ・サンバ』(ブルース・インターアクションズ)のなかで、サンバの歴史における最大のミステリーは、リオのファヴェーラに閉じ込められ、貧しいアフリカ系の野卑なものとして蔑まれ邪魔物扱いされていたサンバが、ほとんど公的な国民的シンボルへと飛躍したという、そのギャップにあると述べています。そして、その歴史は、白人を中心としたエリート階層が軽蔑していた「混淆的な」アフロ・ブラジル的民衆文化(ポピュラー文化)が、ブラジルの国民的な文化となっていった歴史と重なっているといえます。たとえば、サンバと同じようにエリート階級の白人たちが軽蔑していたフェイジョアーダという豆料理も、徐々に「国民的料理」となり、現在では、外国人に誇らしげに出される料理となっているのです。それもまた、1930年代を境に、ブラジルの白人を中心としたエリート階層が、それまで隔絶していた異種混淆的な黒人ポピュラー文化へと近づいていったことの現われでした。

●サンバ前史
 まず、ヴィアナの本を参考にしながら、簡単にサンバの歴史を概観してみましょう。サンバのルーツをたどっていくと、前にも触れたアフリカ起源のバトゥーキという奴隷たちのダンスのリズムにまで行き着きますが、バトゥーキから直接にサンバが生まれたわけではなく、サンバの誕生にいたるまでの道のりには、ブラジルの白人たちや遠くヨーロッパの音楽家たちも一役かっていました。
18世紀末のブラジルには、ルンドゥーとモジーニャと呼ばれる二つの音楽が流行していました。ちなみに、19世紀はじめのブラジルの人口構成は、総人口約350万人のうち、200万人が黒人、ポルトガル人は40〜50万人、黒人と白人の混血(ムラート)が60万人ほど、そしてインディオと呼ばれる先住民が40〜50万人というものでした。白人エリートたちは、舞踏会やサロンでのコンサートなどの場で、優雅なヨーロッパの音楽の後に、ルンドゥーと呼ばれる黒人ダンスと歌を楽しんでいたといいます。このルンドゥーは、黒人奴隷のリズムであるバトゥーキから派生したものですが、ダンスの振り付けは、スペインのダンスであるファンダンゴ(地域によってはマラゲーニャなどとも呼ばれる)を採り入れたものでした。そして、ルンドゥーとポルカ1830年頃、ボヘミア地方で始まり、ヨーロッパ全体に流行した2拍子のダンス)との混合が、1840年代中頃にフランスの歌劇団ブラジルに巡業してポルカを紹介してからまもなく起こります。そして、その混合(フュージョン)がマシーシという激しいリズムの音楽を生みます。このマシーシは、サンバの誕生にも決定的な影響をおよぼしています。
 一方、モジーニャという音楽形式を創ったのは、「ブラジルの最初の作曲家」ドミンゴス・カルダス・バルボーザという黒人の母親と白人の父親をもつ混血(ムラート)の聖職者でした。モジーニャはポルトガルの抒情的な歌のモーダをブラジル風にしたものと言われています。バルボーザは1775年にポルトガルに呼ばれ、リスボンの貴族のサロンで演奏して好評を博しました。ポルトガルの音楽家たちはすぐにモジーニャを彼ら流に作曲します。当時のポルトガルの音楽家たちはたいていイタリアで修行し、ドニゼッティらのイタリアの作曲家に影響を受けていました。つまり、ここでモジーニャは「イタリア化」されたのです。そのイタリア化したモジーニャが、今度は1808年にナポレオンの侵攻から逃れるためにリオ・デ・ジャネイロに宮廷を移したポルトガル王室とともに、ブラジルに戻ってきます。この新しいモジーニャがリオなど地元のモジーニャに影響を与えました。このように、まだレコードもラジオもない時代にも、ポピュラー音楽は「トランスカルチュラリゼーション」(文化間の交通)によって発展していたのです。
1822年にブラジルが独立してからも、モジーニャはブラジル皇帝ペドロ1世の宮廷で演奏されていました。19世紀も半ばになると、階級別のモジーニャの変革が行なわれ、宮廷や貴族のサロンでは、モジーニャがピアノの演奏で歌われ(モジーニャの「再ヨーロッパ化」)、モジーニャを作り出した貧しい階級の人びとは、掘っ建て小屋の前でモジーニャをギターで歌っていました。

●サンバの誕生
 1889年に軍部のクーデターによってブラジルが共和制になった19世紀末から20世紀初頭は、白人エリートたちのあいだで、パリの文化を手本にブラジルを「再ヨーロッパ化」しようという願望が支配的になった時代であり、文明化の障害となるアフリカ的なブラジルをブラジルから排除したいと考えていた時代でした。この時代に、リオにおけるエリート文化と民衆文化のあいだの関係が完全に疎遠となったと言われています。
しかし、ポピュラー音楽の混合(フュージョン)現象はこの時代にも続いていました。サンバ発祥の地とされる「シアータおばさんの家」(19世紀中頃に生まれ1924年に死んだシアータおばさんは、リオの屋台でお菓子などを売って暮らしていたが、夜は自宅を開放して多くの音楽家たちが集まって演奏していたという)には、のちに「サンバ王」と呼ばれたシニョーや、最初にポピュラーとなった(つまり、ファヴェーラの外に知られた)サンバの曲「電話で(ペロ・テレフォーニ)」(1917年に)の作曲者とされるドンガやピシンギーニャなど、貧しい黒人のサンビスタたちが常連として出入りしていたほかに、モジーニャにフォルクローレを採り入れた作曲家として有名な白人のカトゥーロ・ダ・パイシャオン・セアレンシも出入りしていました。また、逆にシニョーやドンガやピシンギーニャらも、白人エリートの家に招かれて演奏することも多かったといいます。
 19世紀までブラジルで聴かれていたポピュラー音楽は、実にさまざまなスタイルとリズムをもっていました。カーニバルにおいても、マシーシやマルシャやセルタネージュ[ブラジル北東部のセルタで生まれた音楽]などのブラジル風の音楽だけではなく、その年の流行した曲が演奏されていたのです。たとえば、ポルカやワルツ、マズルカポーランドの民衆音楽から創られた3拍子の音楽]、タンゴなどであり、20世紀の初めには、チャールストンなどアメリカ合州国の最新の流行音楽も演奏されていました。また、カーニバルではさまざまなスタイルのブラジル風の音楽も演奏されましたが、どのスタイルも現代のサンバのような圧倒的な力はなく、ブラジルの「国民音楽」とみなされることもありませんでした。1930年代に入って、やっとサンバはブラジルのカーニバルの音楽を独占して、国家的シンボルとなったのです。そうなると、一方で、それ以外の音楽は、ただの地方音楽となっていきます。
 「シアータおばさんの家」に出入りしていた貧しい音楽家のドンガとピシンギーニャは、仲間たちと1914年にカーニバルのグループ「カシャンガ」を結成しますが、彼らもあらゆるスタイルのカーニバル音楽を演奏していました。そして、1919年、彼らは、映画館シネ・パライスのバンド「オイト・バトゥータス」を結成します。当時、リオの映画館ではロビーで音楽を演奏するためのポピュラー音楽家が雇われていました。1919年にリオでスペイン風邪が流行り、シネ・パライスの音楽家がいなくなってしまい、映画館の支配人だったフランケルが前のカーニバルで演奏を聴いてとても気に入っていた「カシャンガ」を映画館のバンドとして雇うことを思いつきます。ロビーでの演奏にはもっと少人数のバンド出なければならないので、フランケルはピシンギーニャに会って、ドンガとカシャンガのメンバー8人からなる(ほとんどが黒人)オイト・バトゥータスを雇いました。オイト・バトゥータスの演奏する音楽もあらゆるスタイルのもので、その多くは、マシーシ、ルンドゥー、セルタネージュ、バトゥーキ、カテレテーといったアフロ・ブラジル音楽だったが、サンバは含まれていませんでした。衣裳もリオとは程遠いセルタネージュ風だったといいます。
 黒人のバンドが町の中心部の最もエレガントな映画館で演奏することなどそれまでなく、新聞には、「映画館を訪れる貴族たちの教養高き耳には、まったくふさわしくない」とか「黒人のバンドが首都の目抜き通りで演奏することはブラジルに対する侮辱だった」などと書かれました。しかし、シネ・パライスの支配人フランケルの賭けは成功します。当時最も力のあった政治家で作家でもあるルイ・バルボーザをはじめとする著名人たちや上流階級の人びとが、オイト・バトゥータスの演奏を聴くために大挙してシネ・パライスを訪れたのでした。しかも、デビュー1年後には、ブラジルを訪問したベルギー国王と王妃の前で演奏することを政府から依頼されたのです。
オイト・バトゥータスは、地方のフォルクローレを演奏することによって「ブラジル」を代表していたわけです。彼らはさまざまなスタイルの音楽を演奏しましたが、それらはセルタネージュと呼ばれ、田舎の音楽とみなされていました。ちょうどそのころ、ブラジルのエリートや知識人たちは、ナショナルな文化、つまりヨーロッパの模倣ではない「ブラジル文化」というものを求めていました。そして、それはフォルクローレという「地方文化」に求められたのです。
 けれども、オイト・バトゥータスのメンバーたちは、「ブラジル的なもの」からもセルタネージュというレッテルからも遠ざかっていきました。1922年、パリに公演旅行に行った彼らは、ジャズのファンになってしまい、1920年代の終わりには、メンバーたちはリオにできはじめたジャズ・バンドにばらばらに参加するようになります。彼らのジャズへの傾倒は、ナショナリスティックな知識人や批評家の攻撃の的となりました。ブラジルでは1928年にレコード産業が成長し、それまで1つしかなかったレーベルが3つ増えて4つになり、オイト・バトゥータスのメンバーたちもレコードをリリースしますが、1929年に出したピシンギーニャの『カリニョーゾ』というレコード(現在ではサンバの古典とされている)は、外国の影響を受けたイミテーションだと受け取られました。
こうした告発は、サンバをなかば公式の「国民音楽」に高めようとする動きが出てきてからどんどんエスカレートしていき、「トランスカルチュラリゼーション」ないし異種混淆(ハイブリッド)によって生まれたサンバが、ブラジルの正統性ないし純粋性を基準として評価され、外国の影響による正統性の汚染はブラジル文化を脅かすものとして非難されるようになり、ブラジル文化の正統性を守ることこそが大事とされるようになっていったのです。

●正統的なサンバ・デ・モーホの成立
 そのような正統的なサンバを作り出すのに貢献したのは、ボヘミアン的生活をしていて、サンバの魅力に引かれた中産階級の若者たちでした。中産階級のバンドは、リオのファヴェーラで生まれるポピュラー音楽の形式をいち早く採り入れていきました。そのなかで、サンバを国民的な音楽に仕上げたのが、白人のソングライター、ノエール・ローザ(ノエル・ホーザ)でした。彼は病弱なのにボヘミアン的生活をしていたせいで1937年に26歳で亡くなりましたが、イズマエル・シルヴァと組んで、サンバの名曲を数多く作り、サンバをあらゆる階級に、そしてブラジルじゅうに広め、ブラジルの国家的シンボルとするのに貢献しました。ノエル・ホーザは、ファヴェーラにいるサンビスタたちの演奏をよく聴きに行き、彼らとアイディアを交換していたといいます。
 ホーザの相棒のシルヴァは、カーニバルのパレード・グループの草分けとして知られる最初のエスコーラ(学校)、デイシャ・ファラールの創立者の一人となりました。サンバは、カーニバルのパレードのために組織されたエスコーラ・デ・サンバによってジャンルとして確立され、サンバ・デ・モーホ(丘)と呼ばれるようになりました。しかし、この正統的で純粋なサンバ・デ・モーホは、多くの音楽がハイブリッドされた、雑種的で「不純」なルーツをもっていました。サンバ・デ・モーホには、外国のダンスの影響を受けたマシーシが含まれていましたし、カーニバルのパレードに向くようにリズムが改革されてもいました。つまり、カーニバルのサンバであるサンバ・デ・モーホは、「トランスカルチュラリゼーション」と絶え間ない革新によって生まれたものでした。
しかし、国民的伝統となったサンバに純粋性と正統性の維持と固定化が訪れます。正統性を守るために、エスコーラ・デ・サンバは、本物のサンバのリズムを守るための検閲制度の役目を果たすようになります。このサンバの正統性、純粋性を守ろうとする力は、サンバ・デ・モーホが政府公認の公式のサンバになり、1930年代にエスコーラ・デ・サンバがリオのカーニバルの中心的組織となってからは、非常に強くなっていきます。それにより、サンバは、キューバのソンやトリニダードカリプソ、ドミニカのメレンゲなどと違って、電気楽器や北アメリカのロックに影響を受けないでいる唯一のアフリカン・アメリカ音楽となったのです。しかし、その固定性のせいで、現代のブラジルの若者たちは、サンバ・デ・モーホから離れて、サンバ・ヘギ[レゲエ風サンバ]などの新しいサンバを作り出すことにもなります。

●トランスカルチュラリゼーションの隠蔽
 「トランスカルチュラリゼーション」によって創られた雑種的なサンバがブラジル文化の正統性を象徴する国民音楽になったこと、そして、それまで蔑視されていたファヴェーラ生まれのサンバが1930年代に国家的シンボルとなったというミステリーに戻りましょう。それは、ブラジルのナショナル・アイデンティティをどう創りだすかというナショナリズムの課題と関連しています。
 現在、ブラジルでは、「混血」によって人種や民族や文化が混淆され、人種差別がなく、多様な人びとの共生が達成されている「人種的民主主義」の国だという公式のナショナル・イメージがあります。この「人種的民主主義」という言葉を作ったのは、合州国でボアズに文化人類学を学んだブラジルの代表的な知識人であるジルベルト・フレイレ(1900〜1987)でした。フレイレが最初の著書『カザ・グランデ(大邸宅)とセンザーラ(奴隷小屋)』のなかで、「ブラジルで広く行なわれた混血(ハイブリッド)が、カザ・グランデ(大邸宅)とセンザーラ(奴隷小屋)の間の社会的距離を修正し」、「ブラジルの人種的民主主義、すなわち人種や皮膚の色にかかわりなく、すべての人びとにほぼ完全に近い機会の均等が認められることの原因であり、結果である」と書いたのは、1933年でした。しかし、19世紀末から1920年頃までのブラジルでは、優生学の影響もあって、人種の混血がブラジルの文明化の妨げとなっているとされ、メスティーソ、つまり白人と黒人の混血は、ブラジルの後進性を説明するときのスケープゴートになっていたのです。それはちょうど、サンバやフェイジョアーダ(豆料理)が軽蔑されていた時期にあたります。そして、ブラジルの後進性を改革するには、白人の移民を入れて、ブラジルを漂白しヨーロッパ化しなければならないと唱えられていました。フレイレの功績は、「ブラジル的なもの」をアフリカ文化、ポルトガル文化、先住民の文化の混淆に求め、メスティーソ文化をポジティヴに捉える方向に導いて、人種の混淆を国民の統合として解釈しなおしたことにありました。
 けれども、そのブラジル的なもの、あるいは国民の統合は、あくまでも白人のポルトガル文化を中心にしての混淆でした。そして、人種の混血を国民的シンボルにし、人種的民主主義を国民の統合のシンボルとすることは、特定の人種の支配を隠蔽し、それを暴くことを困難にする役割をはたしています。異種混淆性(ハイブリッド)の礼讚あるいはクレオール性の礼讚は、国民化に反するとは限りません。「人種の混淆」や「文化の混淆」を基盤とした「国民化」は多くの国民国家においてなされています(日本でも、中国や西洋の影響をたくみに取り入れてハイブリッドな文化を創ることが日本文化の本質とされています)。そして、それはサンバの国民音楽化に見られたように、外国の影響を排してブラジルの正統性を守るという排他的な統合にもつながるのです。


4.クレオール文化としての奴隷文化をどのように捉えるか

●「アフリカ文化の残存」説
 1930年代にフランツ・ボアズの弟子であるアメリカ人類学者のメルヴィル・ハースコヴィッツアフリカン・アメリカン文化の調査研究を始めましたが、それは、アフリカン・アメリカン文化における「アフリカ文化の残存」という視点からの研究でした。それ以前のアフリカン・アメリカ人に対する見方は、「奴隷制によって黒人はアフリカからの文化的遺産のすべてを喪失した。その結果、黒人は文化的に貧弱なアメリカ人にしかすぎない存在である」といったものでした。つまり、アメリカの黒人たちの文化は、白人の文化の模倣であり、それが貧弱なのは十分に白人文化に同化していないからだというわけです。
 それに対して、ハースコヴィッツは、アメリカの黒人たちの文化は白人の文化の模倣なのではなく、アフリカ文化の残存であり、アフリカ文化を再解釈し翻訳した結果であると見なしました。そこには、黒人たちが差別されている状況のなかで、W・E・B・デュボイスのいう「二重意識」(他者=マジョリティである白人のステレオタイプ化されたイメージを通して否定的にしか自分を見ることができないというもの)を克服し、自分たちに誇りをもつには、たんに差別構造を変革するなかで黒人が白人と同じく「アメリカ人」になる、すなわち脱色して白人のようになるだけではなく、自分たちの文化に誇りをもつことが必要であり、自分たちの文化としてアフリカ文化を継承し保持していると見なすことが不可欠だというハースコヴィッツの考えが反映されています。

クレオール文化としてのアフリカン・アメリカン文化
 しかし、その後、文化人類学において、アフリカン・アメリカン文化をディアスポラによるクレオール文化として捉える見方が登場し、ハースコヴィッツのようにたんに「アフリカ文化の残存や継承」として捉える見方は批判されるようになります。そして、そこでは、残存や継承ではなく、異種混淆性や創造が強調されるようになっています。つまり、アフリカン・アメリカン文化は、白人のアメリカ文化の模倣ではもちろんないけれども、アフリカ文化の継承でもなく、そのどちらでもない新しくハイブリッドによって創造されたクレオール文化とされます。クレオール文化という見方は、一方で、同化主義を批判してアフリカ系アメリカ人たちの文化の創造ということを強調しますが、もう一方で、アフリカ文化の残存・継承という文化の本質主義的な見方を批判するものでした。それは、クレオール文化の「脱領土化」(土地との「自然な」絆を喪失することを指す)という側面の強調につながっています。つまり、クレオール文化のハイブリディティやディアスポラ性を強調し、文化はある民族や土地に結び付いたものではなく、特定の民族集団や土地を離れて旅をするものであり、つねに創造されていくものだという考え方がそこにはあります。
 ベルナベとシャモワゾーとコンフィアンは、『クレオール性礼讚』(1989年)の冒頭で「ヨーロッパ人でもなく、アフリカ人でもなく、アジア人でもなく、我々はクレオール人である」と述べています。この言葉には、混成によって生まれた文化、つまり従来は「本来の文化」ではないとされてきた純粋ではない「クレオール」を核とする新しいアイデンティティが主張されています。
 マルチニックのクレオール語が「出来損ないのフランス語」とされ、マルチニックの白人たちだけではなく、アフリカ系のエリート階級が「完全なフランス語」を話すことで、地位の上昇をはかるという現象(マルチニック出身でアルジェリア独立運動に参加したフランツ・ファノンは、それを内面化された「乳色化」の欲望と呼んだ)から脱するために、マルチニックのエメ・セゼールらは、アフリカのサンゴールらとともに、《ネグリチュード》(黒人性)の賛美を行ないました。しかし、それは白人(ヨーロッパ人)ないしフランス人という純血のアイデンティティを、アフリカ人という純血のアイデンティティに置き換えるというものであったのです(このネグリチュード運動の考え方は、ハースコヴィッツの考え方と類似しています)。それに対して、近年に登場してきたクレオール性の賛美は、それが「本来的ではない」という点において、むしろ民族の純粋・純血の文化やそれによるエスニック・アイデンティティとは異なる「新しいアイデンティティエスニシティ」を表すものであり、土地や伝統などに縛られた文化という観念を崩していくものとして評価されています。いいかえれば、「脱領土化」された文化として賛美されているのです。

クレオール性礼賛の落とし穴
 たとえば、土屋恵一郎は『正義論/自由論』(岩波書店)のなかで、クレオール主義を、単一の共同体に縛られたアイデンティティから解放するリベラリズムとして読みとっています。土屋は、ジョン・ロールズのいう「無知のヴェール」――公共空間において議論するときに、自分が「何者か」というアイデンティティやポジションについて無知の状態で参加することが公正さの普遍性を保証するという、リベラリズムを正当化するための虚構――を、文化的アイデンティティを暴力的に奪われたクレオールという歴史的現実に結びつけています。土屋は、今福龍太の『クレオール主義』(1989年)の議論を引きながら、「無知のヴェール」によって「自分のアイデンティティに判断停止をかけることで、平等な自由への権利を創出」するようなリベラリズムが、「どこにも所属することなく、境界線に立った者の政治哲学」としてのクレオール主義と共通すると言います。
 しかし、このような「脱領土化」という側面の強調は、共同体と個人という近代主義的な対比を引きずっているといえるでしょう。つまり、個人が共同体に埋没しており土地に結びついた文化に縛られているという見方を批判するあまり、共同体や土地から離れたディアスポラや移民の個人個人の文化的創造を高く評価し、共同体から切り離された個人が文化を創造するときに、共同体や共同性を新しく創り直している(「再領土化」している)のだということを軽視しています。そこにあるのは、共同体の内部の人びとは単一のアイデンティティに縛られており、慣習の虜となっているという、(サイードがいう意味での)オリエンタリスト的な見方です。そのような見方は、西洋でも、そして植民地化された非西洋でも、近代と対比された伝統的な共同体として「客体化」され「発明」されたものでした。つまり、「単一の共同体」という前提そのものが、歴史的現実と合わない、誤ったものなのです。ありもしない共同体の外に出て、混合し混血することを賛美するためにクレオール主義を評価するのは、クレオール性を生み出す思考としての「野生の思考」の母胎であったアフリカの雑種的な共同体を忘却するとともに、クレオール性を実際に生み出したカリブのアビタシオン(プランテーション)のなかの顔のみえる関係からなる共同体を不当に無視することになるでしょう。そしてまた、共同体や土地から切り離すことで可能となる文化の商品化による脱領土化を、新しく創り直した共同体のなかでの文化の創造と同一視してしまう危険性もそこにはあります。

●共同体の再創造
 クレオール文化の創造ということを考えるのには、日常生活や社会生活についての文化人類学的な想像力が必要となってきます。シドニー・ミンツは、『[聞書]アフリカン・アメリカン文化の誕生』のなかで、次のように言っています。

 奴隷たちは、最初は母語を話す共同体の外におかれていた。アフリカで実践していた宗教からも隔絶されていた。たがいに奴隷の身である共通点はあっても、出身地の違ったかれらは、単一の文化を共有することはできなかった。
  大西洋をこえた強制連行は本質的に、人びとを「個人化」してしまう体験だった。故郷での社会的地位も、日常生活のリズムも、輸送船のなかですでに開始された「鍛練」(シーズニング=味付け)と呼ばれる隷属の訓練の過程で、にわかに、そして苛酷に奪われてしまったのだから。
 ところが、奴隷にされたときにもたらされた徹底的な個人化はまた同時に、非常に緊張にみちた、徹底的な社会化の過程の進行をも促した。個人が社会集団・社会生活に属さずに生きることはできなかったからね。
 日常生活と一言でいうけれど、それには、話す、男女がつきあう、親族の制度、あるいは出産、死をどう扱うかなどの問題はいうにおよばず、食べる、排泄する、衣服を着ける、洗面する方法までも含まれている。それが社会生活だ。強制連行された人びとは、これらを困難にみちた苦しい新たな状況に見合うように、すべてを再学習しなければならなかった。
 単一の約束がないのだから、恋愛の「正しいあり方」や、子を産む、祝いの言葉を口にする、死者を葬る「正しい方法」など、一つ一つ生み出していかなければならなかった。
 しかし広い意味では、かれらはそれぞれの違う文化の底流になっていた伝統的な基盤を共有していたことも事実だろう。儀礼の用具、食べ物、衣類、武器、道具など、モノを持ってくることはできなかったばかりか、祭司の集団、職人の集団、王族一家などを伴って移ってくることもできなかった。共通の言語もなかった。しかしかれらは、宇宙観や、他者との関わりかたなどについて、しばしば基礎的な態度を共有していた。それを文化の「基層」と呼ぶのもいいだろう。
 つまり、宗教もアフリカのものが持ちよられ、「継ぎ合わせ」られて形成されていったと考えていいだろう。記憶、洞察、信念を持ちより、かれらは未来に向けて出発した。個人はそのようにしてプールされたもののなかに共有の可能性を見出し、集団として行動を共にすることに同意する。影響力をもつ指導者がいたかもしれない。あるいはより良い形が見つかるまで、試行錯誤を繰り返したこともあっただろうね。同じ文化の背景をもつ数人、同じ村出身の数人が率先して実践の形をかためていった場合もまれにあっただろう。
 奴隷にされた人びとが互いに最初に接触したときの様子はどのようなものだったか? 記憶されていた行為と、実践された行為には相違がある。最初に来た者たちは、記憶されて多くの慣習を実践したかもしれない。実践できない行為も、まだ記憶にまざまざと残っていただろう。言葉、物、歌、知識、自然観などがそれらを共有する目的でプールされ、やがて規準となる行為が生み出された。

 また、ミンツは、次のようにも言っています。「奴隷同士が関係を結ぶ、支配者とも関係を結ぶ、そのときそうした文化の貯蔵庫がなかったら、それはできなかった。はじめは制度化された社会集団はなかったのだから、創意と即興がもっとも決定的な役目をはたした。創意と即興こそが、アフリカ系アメリカ人の文化創造の核になっていたんだ。人間の集団が形成する制度や慣習の格子模様にそって、文化は育っていく。そして人類学者がいうところの『文化』が生成されるには、集団がそれを育成し支えつづけなければならない」。つまり、創意と即興的な創造が可能となるのも共有の文化の「プール」(その共有の「貯蔵庫」には故郷の記憶だけではなく、アメリカで与えられた体験も含まれていたでしょう)からこそ可能となるのであり、その貯蔵庫を共有している集団ないし共同体こそ、創意と即興によって臨機応変に組合わされた文化の創造を可能にし、支えていくのです。

●再領土化としてのクレオール
 制度的集団や共有された文化を、自由を拘束する桎梏と考え、そこからの解放をクレオール性にみられる「越境」や「異種混淆性(ハイブリディティ)」や「脱領土化」に求めるというのでは、クレオール文化の重要な側面を無視することになり、結局、クレオール文化を生み出した人びとの個々の経験を無視して、奴隷制や資本主義やグローバル化による共同体からの解放を礼讚するだけになってしまいます。
 クレオール性とは、人びとが「脱領土化」された自由な空間で、そこではじめて可能になった異種混淆によって生み出したのではなく、もともと雑種性をもつアフリカの共同体という文化的根源を奪われた人びとが、アビタシオン(プランテーション)という生活の場において共同体を再構築するために、アフリカの母語や文化と、白人支配者のヨーロッパの言語や文化、そして、かすかに言葉だけを残して絶滅したカリブの原住民の言語や文化など、その場で手に入るものを何とかつなぎ合わせて生み出したものでした。つまり、それは「脱領土化」によって生み出されたものではなく、「再領土化」によってかろうじて生み出されたものなのです。それを、「混合せよ、混血せよ」というメッセージをもつ脱共同体論や、脱領土化された自由な空間における異種混淆性として評価することは、単にクレオール性を、西欧の普遍的価値を豊かにするために横領することでしかないでしょう。
 重要なことは、ピジン語がクレオール語へと(つまり、媒介語が母語へと)「飛躍」するという「奇跡」は、脱領土化された言葉を「家族」や「共同体」のなかで再領土化することによってはじめて可能になるということです。アフリカから連れてこられた奴隷たちにとって、ピジン語は命令や簡単な意思を伝達するための「間に合わせ」の言葉でした。しかし、そのような「間に合わせ」の言葉は、それを意思伝達に用いる奴隷同士が結婚し、子どもを生んで、その言葉を子どもたちに教え、家族のなかで使っていくうちに、不完全で不自由な言葉(ピジン)から、充実した言語(クレオール)へと飛躍します。つまり、子どもたちにとって、その言葉は、家族や仲間に「思い」を伝え、自分の「思考」を形作る「母語」となっていくのです。それは、人間の偉大な創造力といっていいでしょう。そして、その奇跡的な創造は、家族や仲間からなる共同体がなければけっしてできないものなのです。それを考えれば、クレオール性賛美は脱領土化の賛美ではなく、生活のための雑種的な共同体への再領土化の賛美とならなければならないでしょう。

【参考文献】
 シドニー・W・ミンツ『[聞書]アフリカン・アメリカン文化の誕生』岩波書店
 エルマノ・ヴィアナ『ミステリー・オブ・サンバ』ブルース・インターアクションズ
 G・P・ローウィック『日没から夜明けまで』刀水書房
 P・シャモワゾー/R・コンフィアン『クレオールとは何か』平凡社
 田中克彦クレオール語と日本語』岩波書店

2002年度成城大学文芸学部「文化史特殊講義?」のなかで行った講義の講義ノートです。