講義「なぜ帰宅後にすぐ手を洗うのか――文化人類学の効用」 小田亮

 文化人類学を学ぶことは何の役に立つのか、という質問を受けることがあります。最近では、学生からだけではなく、社会からそのように聞かれたらすぐに答えられるような講義が望ましいといった、くだらないことを大学内で言う人もいます(実際に「社会」がそんなことを大学教員に聞くなんてことはないのですが)。そのような質問への答えは、役に立つというのがどういう意味で聞いているのかにもよりますが、まあ、ふつうこういった質問は、直接に何かすぐに役にたつ(「お金になる」とか「就職が有利になる」とか「もてる」とか)ということを想定しているのでしょうから、その答えは何の役にもたたないということになるでしょう。けれども、あえていえば、文化人類学は、すぐに役にたつか立たないかという基準で生きていくような生き方とは違った生き方を想像するうえで、とても役に立つ学問だともいえるでしょう。というのも、文化人類学は、ひとつの社会での「ものの見方」「ものの考え方」を変えていくことができるからです。たんに「ものの見方」「ものの考え方」を変えるだけなら、他の学問にも当てはまるでしょう。経済学を学ぶことは経済学的なものの見方・考え方を身につけることです。しかし、文化人類学的なものの見方・考え方を身につけることは、他の学問とはすこし異なるところがあります。文化人類学的なものの見方・考え方は、あるひとつの社会(ある時代・ある文化)における当たり前の見方・考え方を当たり前ではなくすることを目的としています。いいかえれば、個別の文化としての自文化の相対化です。

 そして、それを可能にしているのは、文化人類学に含まれている、ある意味では分裂した二つの視点です。すなわち、人類学は、人類の各社会(各文化・各時代)はそれぞれ独自だけれどもそれぞれ合理的なものの見方をもっていて、その合理性の違いは優劣ではないという視点(文化相対主義的視点)と、人類の各文化には、数万年かけて人間が人間になった過程を共有していることからくる、普遍的な共通性があるという視点(人類文化の普遍性という視点)という二つの視点です。

 この相対主義と普遍主義は対立しているように言われますが、現代の人類学では対立するものではありません。というのも、人類学が目指しているのは、個別文化としての自文化の相対化を通して、人類文化の普遍性を探ることだからです。そのことを具体的に説明してみましょう。本に書いたこともありますし(『構造人類学のフィールド』世界思想社、1994年)、毎年のように概論のはじめに同じ例を用いているので、もう聞いた人もいるでしょうけれども、私がそれを説明するときによく挙げる例が、私たちの社会に見られる、外から帰宅したときすぐに手を洗うという習慣です。実際、そのような習慣を身につけている人は少なくないし、たとえ自分がそうしていなくてもその習慣を当たり前のことと思っていて、すくなくともそれが奇妙な習慣だとは思っていません。大貫恵美子さんという、アメリカ合衆国で活躍している日本人の文化人類学者は、『日本人の病気観』(岩波書店、1985年)という本の中で、外から帰宅したときに手を洗うという習慣について、「日本人一般に受け入れられている説明法は、「外にはたくさんばい菌がいるからだ」というものだと書いています。つまり、そのような習慣を自分たちでは、「黴菌=病原菌」という科学的用語を使って説明して、あたかもその習慣には合理的な根拠があるかのように思っているわけです。

 しかし、この習慣は、ヨーロッパやアメリカやアフリカなど、他の文化にはほとんど見られない珍しい習慣なのです。他の文化にはないと聞かされても、それは日本人には衛生観念が発達している証拠と思ってしまう人もいるでしょう。少なくとも、その行為がいわゆる「迷信」と考えられている観念によるものとは思わないでしょう。「迷信」というラベリング=レッテル貼りは、他者や他の文化に用いるもので、自分たちのやっていることを「迷信」とは呼ばないものです。しかし、衛生学的に見れば、「外にはバイキンがたくさんいるから帰宅後すぐ手を洗う」ということに合理的な根拠はありません。というのも、バイキンの数は家の外と内では変わらないからです(というより、バイキンには家の外と内の区別はできません)。そうなると、帰宅後すぐ手を洗うという、私たちには当たり前のことが実は不思議なことなのだと思えてきます。

 そのような習慣に合理的根拠がないとなると、近代人のもうひとつの反応は、そんな「迷信」による習慣はやめてしまえというものです。こういった態度もよく見られるものです(こんなことをしているのは日本だけだ、いますぐやめるべきだといったことをテレビのコメンテーターはよく言います)。では、この「帰宅後の手洗い」という習慣は、捨て去るべき迷信なのでしょうか。

 そのことを考えるために、私たちが迷信というレッテルを貼るような他者の(異文化の)習慣と並べてみましょう。とりあげるのは、イングランドをキャラバン・カー(彼らは「トレーラー」と呼ぶ。以前は馬車)で移動しているジプシーと呼ばれている人々の慣習です。

 ここで「ジプシー」という呼び方について、注釈をしておきましょう。「ジプシー」という呼称は白人からの他称で、「エジプト人」という語に由来します。他にも地域によって、ツィガン(ツィゴイネル)やボヘミアンなどと白人から呼ばれてきました。近年は自称の「ロマ」(単数はロム)とかその形容詞形である「ロマニ」と呼ばれることが多くなっています。ただし、ジプシーやツィガンなどと呼ばれてきた諸集団がすべて「ロマ」という自称を使っているわけではありません。ここでは、英国の人類学者のジュディス・オークリーの『旅するジプシーの人類学』(晶文社、1986年)という本を基に紹介しますが、オークリーの表記のまま、ジプシーという他称を用いています。ついでに言うと、マスメディアなどでは、「エスキモー」や「ブッシュマン」も差別語だからと、機械的に「イヌイット」や「サン」と置き換えている場合が多いのですが、「イヌイット」はカナダに住む人々の自称であり(もともとはアイヌやロマと同じように「人間」や「人びと」という意味)、グリーンランドではカラーリットと自称し、アラスカでは「エスキモー」が公的な総称(自称はユピックやイヌピアット)となっています。また、「ブッシュマン」についても、菅原和孝さんの『ブッシュマンとして生きる』(中公新書)によれば、「サン」がコイコイ民族からの蔑称であることが明らかになって、最近では総称的な自称として「ブッシュマン」を用いていることが多くなっているようです。「ジプシー」にしろ「エスキモー」にしろ「ブッシュマン」にしろ、個別の民族集団の自称ではなく、諸民族集団の「総称」ですが、個々の民族集団を超えて連帯しようとするときにも、「総称」が必要となるわけで、それをひとつの民族集団の自称に置き換えることはかえって問題があり、なかなか難しいことになっています。

 ジュディス・オークリーによれば、イングランドのジプシーたちは、ジプシーの言語であるロマニ語でモカーディという《穢れ》の概念をもっています。これは、たんなる汚れという概念(ロマニ語でチクリ)とは区別されていて、からだの内部にきたないものが入る状態を指す概念です。チクリの状態、たとえば服やからだの表面がほこりまみれであったり、油よごれがついていたりしても、身体の内部が清浄なら何の害もないとされますが、モカーディの状態は端的に危険で害のある状態とされます。では、どうなるとモカーディとなるのかというと、オークリーのまとめによれば、身体から出たものや剥がれ落ちたものが、身体の内部に再び入ってくるような場合です。つまり、垢や剥がれたかさぶたや抜けた髪の毛、そして排泄物が口などのからだの穴を通して、からだの中に入ってくることがあれば、非常に危険な穢れた状態となるとされ、考えるだけでもおぞましいこととされるのです。

 ジプシーたちはゴールジョ(非ジプシー、白人)たちが表面的な清潔さを理想としていて自分たちジプシーを汚らしいと見ているのを知っています。しかし、ジプシーたちに言わせれば、ゴールジョこそ穢れた人々であるとなります。というのも、ゴールジョたちは、家の中でからだを洗ったり、衣服を洗ったりするし、食器や食べ物を洗う流し(のシンク)で手を洗ったり、家の中にトイレを作って家の中で排泄をするからです。ジプシーたちは、家の中(キャラバン・カー、「トレーラー」の中)で、体を洗ったり洗濯したり排泄することはとても危険なモカーディを招いてしまうことであり、彼らはけっしてしません。また、たとえば、ゴールジョたちはキッチンの流しであらゆるものを洗い、顔や手を洗う石鹸や歯ブラシさえもキッチンの流しのそばに置くが、ジプシーたちは、そのことだけで、ゴールジョが穢れていることは明らかだと言うのです。ジプシーたちから見れば石鹸は穢れたものであり、炊事をする所で体を洗うなんてことはとてもきたない行為なのです。

 したがって、ジプシーの人々にとって、まずなによりも、身体の中に入るものを洗うことと身体の外部を洗うことの区別・分離が大切になります。体を洗う桶や洗濯用の桶は、彼らの住居である「トレーラー」の外に置かれています、食器洗いの桶はトレーラーの中に置かれています。食べ物や食器、それにそれを拭くためのふきんを洗う桶と場所は、手や他の体の部分や衣類を洗う桶と場所とは区別し切り離しておかなければならないのです。そうでないと、手や体や汚れた衣服などを洗って落ちた垢が、食べ物や食器に付いてしまい、再び口から体の中に入ってモカーディ(穢れた)状態になるかもしれないからです。

 このような洗濯と炊事の区分にも現れているように、身体の内部と外部の象徴的区分は、空間的な内部/外部の区分、すなわち居住空間であるトレーラーの内部の領域とトレーラーの外部の領域との空間区分に関係しています。すでに述べたように、トレーラーの内部では体を洗ったり洗濯したり排泄する行為が禁止されています。衣類の洗濯、排便や放尿は外の、少し離れた所でしなければならないのです。ゴールジョは自分たちのキャラバンに便所を作り付けるが、それもまたゴールジョがきたないことの証拠であり、ジプシーたちはそのスペースをもの入れに使います。イングランド政府や地方自治体の当局は、ジプシーの人々がトレーラーに便所を備え付けないことや、設備の整った公立のキャンプ・サイトを提供しているのにちゃんと使わないことで文句を言いますが、ジプシーたちは、台所のそばに便所や浴室のあるサイトの家屋など、不潔で住めないと言います。たとえ目に見えるところに糞便が落ちていても、ゴールジョとはちがって、ジプシーにとってはショッキングなことではないが、しかしそれが食べ物や台所に近くにあるのは(たとえトイレによって被い隠されていても)ショッキングなことだというわけです。つまり排泄物が、ものを食べる(口に入れる)空間であるトレーラーの内部から離れていて、身体の内部との接触が考えられないのであれば問題はないけれども、口に入れる食べ物や食器のそばにあって接触の危険があるような場合、それは、からだの内部と外部、家(居住空間)の内部と外部の区分を揺るがすようなものとなって、危険なこととされるのです。いいかえれば、ジプシーの人びとは、居住空間の外で排泄をしたり洗濯したり体を洗うという習慣によって、居住空間の内部と外部を(身体の内部と外部の区分と交錯させつつ)意味の異なる空間として区分しているわけです。

 ここで、最初に挙げた日本社会で外から帰宅後にすぐ手を洗うという習慣と、ジプシーたちの外で体を洗ったり排泄したりするという習慣を並べてみてみましょう。表面的にはまったく異なる習慣のように見えます。けれども、その意味を考えると、この日本人の奇妙な習慣も、ジプシーたちの慣習と非常に似ていることに気づきます。つまり、帰宅後に手を洗う習慣も、家の外で排泄したり体を洗う習慣も、同じように、家の内と外の象徴的な空間区分を表現しているものだということです。つまり、私たちは「バイキン」という概念と「外にはバイキンがたくさんいるから、外から帰ってきたら手を洗う」という行為によって、家の外と内との区分をしています。それに対して、ジプシーたちは、モカーディという概念とトレーラーの外で体を洗ったり洗濯したり排泄したりするという習慣によって、居住空間の内部と外部とを区分するということをしているわけです。いいかえれば、居住空間の外部と内部とを象徴的に区切っているのです。

 この家の外と内との区分は、玄関で靴を脱ぐという私たちの習慣にも表れています。西洋風の生活文化とともに靴も西洋から移入したわけですが、日本では、もともとの西洋の習慣とは異なった、家に入るときに靴を脱ぐという習慣を新しく作り出しました。靴を履くという習慣も、一種のグローバル化ですが、ローカルな文化における「象徴的な空間区分」によって、そのグローバルなモノがローカル化されている例だといえるでしょう。つまり、グローバル化によって世界中の文化が均質化しているように見えますが、その受容の際に変更を加えるという形でローカルな文化の違いが作り出されているのです(それを「グローカル化」と呼んでいます)。

 さて、家の外から帰ってきたとき手を洗うという日本の習慣も、トレーラーの外で排泄したり体を洗うという英国のジプシーの習慣も、居住空間の内と外とを象徴的に区切るものだということを見てきましたが、それらは、合理的根拠のない「迷信」などではなく、空間を区切るという「表現行為」なのであり、自分たちの環境をそのように区切って表現しつつ、自分たちの世界そのものを作り上げていく行為なのです。したがって、その世界の区切り方に根拠がないからといって、それは「迷信」だからやめるべきだということにはなりません。もともとどのように自分たちの世界を区切るか、そして世界を意味あるものに作り上げるかといったことに、このように区切らなければならないという根拠などないのです。大事なことは、根拠のない「迷信」を捨て去ることではありません。そうではなく、同じように根拠がないのに、自分たちの区切り方や世界の作り方は合理的な根拠があると思い込み(上の例で言えば、帰宅して手を洗うのは衛生学的な根拠があることだと思い込み)、そのようには世界を表現しない文化や人びとに対して、「迷信」に囚われた人びとだとか衛生観念がない不潔な人びととラベリングをすることこそ、「迷信」に囚われていることだということに気づくこと、これが大事なのです。

 そして、そのことが、最初に述べた、個別文化としての自文化を相対化することを通して人類文化の普遍性(共通性)を探るということなのです。その普遍性=共通性は、同じことをする、同じ普遍的な文化をもつということではありません。帰宅後に手を洗うという習慣を捨て去らなくても、また、ジプシーの人々が外で排泄したり体を洗ったりするという習慣を維持していたとしても、そこには共通性が見て取れるのです。そのような違いの中の共通性にあることに気づくことが、個別文化の違いを通して人類文化の普遍性を探るということなのです。

 異文化理解というと、異文化の見慣れぬ奇妙な慣習や事象を不思議なことではなくすることと考えられています。けれども、人類学的な異文化の研究において、それ以上に重要なのは、自分たちが当たり前のことと思っている自文化の規範や観念が見慣れないもの・不思議なことにみえてくるような視点を作り出すということなのです。つまり、異文化の見慣れない奇妙な習慣が自分たちの習慣と連続していることに気づくと同時に、自分たちの習慣がすこし奇妙なものだというように見えてくる、そのような視点を獲得することこそ、ひとつの社会での思い込みを相対化して得られる、文化人類学的な「ものの見方」であり、そこでは、異文化理解は自文化理解と同時になされるものとなっているのです。

成城大学文芸学部「文化史概論?――文化人類学入門」の講義でのイントロダクション

(2007/4/14更新)