機能主義の美学 ──アドルノのデザイン論を通じて── 古賀徹

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 特定目的の実現のために構成された人工的環境が今日あまねく地表を覆っている。だが他方で、その目的に規定された環境のなかで、目的の定かでないブランド商品やイメージ広告など様々な呪物的商品がキッチュな猖獗を極めてもいる。脱魔術化の成果としての前者の即物的技術と、そこからの逸脱ともいえる後者のイマジネールな象徴システムとは、分裂したまま相互に対立し、しかもそうしたしかたで共存している。
 合理化のプロセスがもたらした現実について考えるにあたって、われわれはアドルノの唯一のデザイン論とも言える論文「今日の機能主義」(1965)を手がかりにする。アドルノのこの論文は、戦後ドイツのデザイン思想のなかである重要な位置を占めている。というのも本論文は、ホルクハイマーとの共著である『啓蒙の弁証法』とならんで、1968年にピークを迎えた学生運動に大きな示唆を与えたからである。68年運動は、機能主義とモダニズムの原理によって構築された技術環境(学校、交通、都市、住宅など)が、人間性を疎外する監獄として抑圧的に「機能」している現状を徹底的に批判し*1、機能主義の中心的存在だったウルム造形大学の閉鎖に対し思想的影響を与えた*2
 機能主義とは、目的として規定された特定の効果を実現するために、もっとも合理的な技術連関を組織しようとする技術思想のことだとさしあたり考えることができる。すなわち機能主義においては、目的実現の障害となる要素は無論、それに関係しない装飾や象徴的要素も極限まで削減されなければならない。そしてそうした合理的に洗練された目的手段連関こそ、装飾とは無縁なサッハリッヒ(事象的)な美の連関を実現する条件を与えると信じられたのである。
 アドルノは、こうした機能主義の原型的主張を、20世紀の初頭にウィーンを主な舞台として活躍した建築家、アドルフ・ロースのうちに読み取っている。われわれはアドルノのロース批判を検討しつつ、ロースの機能主義が予想しなかった事態、つまり機能連関が殺伐とした技術連関、醜悪な「監獄」に堕するとともに、その技術環境の内部に、イマジネールな消費文化が再来することになる必然性について考察する。それを通じて本論は、機能主義以降の技術思想について何らかの示唆を与えることにしたい。


1、自然支配の原史

 「今日の機能主義」においてアドルノは、「芸術家が模倣をはじめるずっと以前に、ミメーシス的衝動によって生物はそれ自身の環境に自らを適合させてきた」( FH382 )と述べている。われわれは、こうしたアドルノのミメーシス論の原型を、ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』のうちに見いだすことができる。そこへと遡ることにより、技術にまつわるアドルノの思想の基本をまずは確認しておこう。
 『啓蒙の弁証法』によれば、まずもって自然は、はるかに優越するものとして現れるという。その自然の超越性は、同時に精神的な超越、すなわち「マナ」となり、人間に震憾の経験を引き起こす。マナに把捉されると、そこにはある種の空虚さを抱え込んだ存在、つまり巨大な精神的超越に直面して自己の内的な充実を破られた人間が存立するのである。この空虚を補完し、超越体の前で何とか自分を保持する最初の衝動として声が発されるとアドルノは言う*3。その声は、自然の背後に想定される精神的な存在に同化し、その本質を掴もうとする。圧倒する自然の力に直面する人間があげる感嘆と驚愕の声こそが、もっとも原初的な局面における言語、すなわち名であるのに他ならない*4
 このかぎりで名は、まずもって超越物そのものによって引き起こされる受動的反応の結果であるが、しかし同時に、その本質を言い当て、それを我がものにしようとする最初の能動的な衝動の産物でもある。人間はその名を通じて自然の精神的本質をとらえ、それを取り込み、最終的には自然を制御することで、最初の破綻の経験から自己を回復しようとするのである。
 こうしたかたちで成立する原初的な言語のあり方をアドルノは『啓蒙の弁証法』で「象徴 Symbol 」と呼んでいる。呪術師たちは、象徴としての言語を駆使することで、自然の本質としての精神的なもの、つまり精霊たちと同化し、コミュニケートし、それを手なづけようとする。そこで自然との呪術的交流は、一方で自然支配の基礎という意味での技術であり、他方で自然に同化するという意味で芸術である。両者は区別不可能なものとして象徴としての言語を構成しているのである*5
 アドルノによれば象徴を通じた自然との交流の能力は社会的支配の基礎となる。象徴が自然との交流の能力を示すものであるとすれば、そうした象徴的手段を独占する階級(祭祀階級)がその他の階級に対して社会的な権威を獲得するのは当然であろう*6。そこにおける支配は、超自然的な力(マナ)の威光、つまりアウラを背景として遂行される。
 アドルノの以上のような論述を踏まえてみるに、市民階級が台頭してくる近代黎明期(絶対王政期)にいたってもなお、言語は象徴としての力を失ってはいなかったと我々は言えそうである。というのも、その時代においてもなお教会や君主、貴族たちに代表される支配階級は、様々な象徴操作を遂行することで、アウラにもとづく社会的支配を維持しようとしていたからである*7
 これに対して近代市民階級は、ミメーシス原理にもとづく象徴を自然支配の領域から排除し、それを産業科学技術でもって置き換える。科学技術は自然を数量に還元し、その法則的連関を記号として表象し、自然認識の成果を具体的な効用、機能として実現する。また社会的な支配も科学的認識と公共的議論に基づく合理的・官僚的な統治へと移行する。
 アドルノによれば、こうした「脱魔術化 Entzauberung 」( DA9 )の努力は、呪術としてのアウラ支配を解体するために、まずもって象徴としての言語を記号としての言語へと解体することにより開始されたという。言語の合理化は、指示対象を明確化すると同時に、たんにその対象を指示するかぎりのそれ自身無内容な標識のごときものへと言語自身を還元することによって達成される。「記号としての言語は、自然を認識するための計算に従事することに甘んじ、自然と相似のものであるという要求を取り下げなければならない。」( DA24 )そしてそれと同時に、自然もまた、記号言語の対象として一義に規定される単純な実体の合成物へと還元される*8
 だがむろん脱魔術化のプロセスは、ミメーシス的要素を言語から完全に廃絶することはなかった。ミメーシスは技術領域から排除されるとしても、芸術という領域で生きながらえる。「形象としての言語は、自然そのままになりきるために複製であることに甘んじ、自然を認識するという要求を取り下げなければならない。」( DA24 )記号化されないもの、明晰な言語によってとらえられないものは、「響き」ないしは「形象」としての「言語」へ、つまり象徴としての芸術作品のうちに回収される。近代において芸術は、脱魔術化による自然の傷を補完するもの、認識により分断され失われた総体性を回復するものとして、とはいえ技術的実践の領域からは完全に追放された領域のなかで無害にもそれを企てる「目的から自由な芸術 die zweckfreie Kunst 」( FH378 )として、自律化される*9
 ところが近代における合理性のそうした大分割に取り残されたのが「目的に規定された芸術 die zeckgebundene Kunst 」( FH377 )、つまり手仕事による工芸の分野であった、とアドルノは言う。カントにおいて「自由な美」に対立して「付随的な美」と定義されたこの領域では*10、自然を目的的(概念的)に認識操作すべき技術の論理と、ミメーシスを基軸とする美の原理が、統合の契機を持たないままたんに併存しているにすぎない。そこで技術的製品は象徴的な要素を抱え込んだまま、機能的連関それ自体として自立することができないままである。
 アドルノによれば、アドルフ・ロースが激しく反発したのは、こうした残存・反動局面*11に対してであった。近代的な組織形態に対応する新しいデザイン思想は、たんに残存するだけではなく、反動的に復古してきた象徴的な要素を「装飾 Ornament 」と名指し、それを機能に反するもの、役に立たない浪費として排撃する。ロースのユートピアは、一切のアウラ的な象徴権威主義から解き放たれ、同時に非合理な社会的な支配関係からも解放され、人間が自らのさまざまな可能性を最大限に実現する機能連関にほかならない。したがって彼によれば、技術領域における一切の装飾は「犯罪」なのである*12


2、抑圧する機能主義

 ロースの装飾批判はたしかに、近代における技術と芸術の大分割に取り残された工芸的領域を殲滅することを目的としていたといえる。だがアドルノはここに合理主義的デザインの最初の蹉跌を読み取る。アドルノによれば、象徴と機能との両義性を拒否してそこから純粋な機能だけを取り出すなどということはそもそも不可能なのである。
 自然の圧倒的威力に触発されて自然の不変な本質を取り込もうとする、人間の最初の能動性とともに象徴は成立した。それと同時に象徴とは、変動する自然現象の背後に想定される精神的なものを取り込もうとするものであった。そうした精神的なものへのミメーシスは啓蒙された言語の基礎となっているとアドルノは言う。そうした引き継ぎがあるからこそ、それがいかに合理化されたとしても、記号は、その物質的基礎を超えた意味、すなわち対象のイデア的本質を言い当てることができるのである。つまり記号は象徴をその可能性の条件としている。
 機能主義は記号としての言語に立脚している。とすれば機能主義が象徴を装飾として排除しようとしても、象徴は機能の可能性の条件として、すでに機能的なもののなかに住み着いているということになろう。とすれば、象徴的要素を徹底的に排除しようとしても、それが自らの可能性の条件であるかぎり、そこで実現される機能は決して純粋な機能となることができず、したがって排除は永遠に反復されることになろう。かつて象徴もまた、自然との交流と制御という一定の「機能」を果たしていた。ここで機能主義がそうした自然との交流を時代遅れのものとして否定するとすれば、そこで実現される機能もまた、いつの日にか時代遅れのもの、つまりは象徴的で装飾的なものとして、より純化された機能性の観点から否定されることになるだろう。「かつて機能的であったものはいまやその反対物へと転化しうる。」( FH376 )象徴はかつて機能であった。そして機能は象徴に転化する。機能が象徴性を徹底的に排除しようとすれば、それは自己自身を否定する無限の反復衝動のうちに陥ることになる。
 象徴が立脚するミメーシス原理のうちには、外部を制御すると同時にそれに対して自分を開く(同化する)という側面が存在していた。そこでは現状の自己のあり方が自然との関係の中で作り替えられる契機が存在した。しかしながら合理化のプロセスが象徴性を徹底的に排除する強迫的な運動に捕捉されるとき、そこに残存するのは、自己変容の契機を喪失した一方的指示への衝動のみであろう。そういう強迫的支配衝動の兆しを、アドルノはロースのうちにすでに読み取っていた。
 アドルノはロースの象徴批判のなかに性的な抑圧を読み取ろうとする。アドルノによればロースは象徴を性的な象徴(シンボル)と同一視していたというのである。「ロースは装飾の起源を性的な象徴のうちに見いだす。装飾を廃止せよというロースの要求は、性的な象徴体系に逆らう彼の意思と対になっている。」( FH381 )透明な指示作用によって分節できない猥雑なもの、理性の統御に服さず逆にそれを脅かす自然、それらを代表するものとして性的なシンボルは禁圧の対象となる。ロースにとって象徴は、対象とミメーシス(一体化)しようとするエロティックな要素を内包するものであり、装飾はそうしたミメーシス的な衝動の名残として残存するものであった。アドルノは言う。「装飾に対するロースの憎悪を十分に理解するには、彼が装飾のうちに合理的な対象化と相容れないミメーシス的な衝動を感じ取っていたことを踏まえる必要がある。」( FH381 )
 かつてミメーシスは自然へと同化するエロティックな行為であり、そのかぎりで快楽の要素を伴っていた。しかしながらミメーシスが同化する当の自然が狼雑なものとして狩り出されてしまった今日、ミメーシスは何に寄り添うことができるというのだろう。アドルノによれば、今日のミメーンスは、合理性の暴行への嘆き、つまり悲しみとしてのみ遂行されるほかないという。啓蒙の手によって時代遅れのもの、余計なものと名指された装飾は、もはや機能することなきミメーシス(象徴)の残骸である。その残骸へ身を沿わせ、それを通じて合理性の暴行を追想することが、自然に寄り添うことを任務とするミメーンスに残された最後の可能性となっている。
 これに対して機能主義は、そうした嘆きの声をなお圧倒する技術として、つまり一切の悲しみを抑圧する介理性として貫徹される。ここで技術的合理性は、自然へのミメーシスの可能性を自ら圧殺したという点でやましさを抱え込んでいる。一方で装飾はその無惨な姿によってその暴行を告発している。それゆえにこそ、合理性は装飾を憎悪し、その快楽の声を鳴り響かせることによって嘆きの声を圧倒せねばならない。技術の根底にあるミメーシス衝動は、いまや合理化されて理性という姿をとり、自己自身を憎悪する。そうした合理性は、自己に内在するミメーシスの痕跡に対するたえざる否定衝動に駆動されるという意味でそれ自体苦しんでいるのであり、強制された合理性なのであり、強迫的なものなのである*13。そうした自己暴力にドライブされて、機能主義は一切の「余計なもの」を徹底的に狩り出しにかかる*14


3、象徴の回帰

 いまやわれわれはひとたびアドルノから離れて、もう一度、はじめに提起された問題に立ち戻るべきであろう。そこでは、仮借なく合理化された機能的連関の内部で、なにゆえにキッチュで呪術的なものが猖獗を極めているのか、その矛盾と併存が問題とされていたのであった。われわれはここで精神分析のいう反動形成の概念を利用することができるかもしれない。反動形成に関するフロイトの考察においては、啓蒙(成長)の過程で自己が抑圧したものが、十分に解消されることなくそのまま「不気味なもの」*15として回帰する現象が論じられる。もし啓蒙の合理化のプロセスがアウラを帯びた象徴を端的に排除し、その批判によってそれを十分に解消せしめることが可能であるとすれば、それは抑圧とはならず、象徴的なものが啓蒙のただなかに回帰することもないであろう。しかしながら啓蒙はそうしたことを為しえず、ただ象徴原理を抑圧するのみである。なぜなら象徴批判としての合理化の原理そのものが、その核心において象徴的なもの、ミメーシス的なものを克服・解消しきれず、むしろそれをつねに前提としているのだから。
 ミメーシス原理は、自然という外部性に向かって自己を同化させるという自己変容の契機を伴っていた。しかしながら技術的今理性がそれ自身のうちに潜在するミメーシス原理を抑圧すると、合理性はそれ自身に内在する自己変容の契機を自分自身で禁圧することになり、その結果、現状の社会で必要とされる技術連関に自分で自分を拘束することになる。それは酷薄な社会の酷薄な実用性のたんなる拡大再生産を、それとは別の可能性を示そうとするものへの容赦ない攻撃を引き起こすことになるだろう。こうして合理的な技術連関は、単純な自己保存のみを目的とする以外のいかなるしかたでも基礎づけられないそれ自身非合理な合理性へと転落する。一切の変容可能性を禁圧する合理性の自己拘束、これをアドルノは「美的に醜悪」( FH392 )と断じ、68年運動はそれを「監獄」と名指したのである*16
 そして他方で、禁圧されたミメーシス、抑圧された自己変容の可能性は、まさに魔術的な象徴として、合理的禁圧そのものによって呼び出される。合理性は禁圧の痛みを回復するために、自己が抑圧したものをもう一度無意識のうちに呼び求めるのである。その回帰形態の最大のものは消費の象徴システムであろう。われわれは、合理的連関という「監獄」に拘束されたまま、自分と社会が今とは異なった形態をとりうるかもしれないという、その自己変容のエネルギーを、あるときは象徴としての”素敵”な商品を、あるときは出口としての薬物を、そしてあるときは補完としての性を購買する回路のなかで徹底的に消尽させられる。だが様々なキッチュ・ブランドの運動連関は、あるいはアディクションとして、あるいは幻惑のシステムとして、それ自身、すべての可能性を遮断する監獄連関の一部なのである。現状の機能主義はミメーシスを解消するのではなく抑圧する。これがアドルノの主張であった。とするならば今日の機能主義は、ふたたびミメーシスとのあらたな関係を模索しなければならないだろう。そしてその途上において、技術の新しいあり方が展望されなければならないであろう。


4、ファンタジーと布置連関

 物を構成する素材と形式との結合は、それ自身合理的技術の成果として実現される。だがそれが抑圧により実現されているとすれば、その結合は強制的であり、したがって物のうちにはその強制とは異なる形象化の可能性が潜在していることになろう。そうした潜在的可能性への感覚をアドルノは「ファンタジー」と名指し、そうした感覚を認識した建築家としてル・コルビユジエを挙げている。「芸術家が感受しそれと取り組むところの個々の素材と形式のうちには、その両者が明確な意味を持たないとしても、素材と形式を超えた何かが明らかに存在する。ファンタジーとはこの剰余に神経を通わせ覚醒させることにほかならない。」( FH387 )
 アドルノが提唱するファンタジーは、啓蒙の反動形成という意味でのイマジネールなものでは無論ない。それは、装飾的な要素を洗い落としてきた果てに出現する形式と素材との即物的結合が、自らが異なったしかたで存在したかもしれないその可能性を、自分自身の手で握りつぶしてきたことに対する記憶に基づく。アドルノはこうした切り捨ての集積を物の歴史とよぶ。自分が何をどのように切り捨ててきたのか、その結果自らがいかなる傷を負うことになったのかと、物は自らの苦悩に満ちた歴史を沈黙のうちに問うている。その「問い」と「苦悩 Leiden 」( ND203 )を受け止め、それに応えようとするのが、アドルノが言うファンタジーなのである。アドルノは言う。「素材と形式のうちには歴史が、しかもその歴史を通じて精神もまた蓄積されてきたのだ。歴史と精神のうちから素材と形式がそれ自身のうちに蓄えてきたのは実定的な法則などではない。それは素材と形式において鋭い輪郭をもつ問いの姿をとる。芸術のファンタジーはこの問いを察知することでそこに蓄積されてきたものを呼び覚ます。ファンタジーの歩みはつねにほんの少しだが、それは個々の素材と形式がその沈黙した物言語によってファンタジーに投げかける言葉なき問いに応える。」( FH387 )
 こうしたアドルノの立論を引き継いでやや独自に考察してみれば、その応答は、「問い」という形で提示される物の苦悩に対して、もう一度、別の物質を手当することによって遂行されるといえよう。機能主義がその機能の座とする物の苦悩は、自己自身に内在するミメーシス的要素を自らの手で抑圧することではじめて自身を成立させてきた記憶に基づいている。したがってそうした苦悩に対応してあらたに手当てされる物質は、物が抑圧してきたミメーシスの声、そのミメーシスの向こうにある自然の声を代弁するかたちをとる。そのかぎり、その手当てする物質は、苦悩する物が抱く憧憬、すなわち「ファンタジー」に対応するものであり、物の問いに対する1つの解答であり、物の苦悩に対する1つの応答であると、アドルノを引き継いで言うことができよう。この意味でファンタジーは、目的とその手段というかたちで編成された既存の技術連関に対して対抗的となる。アドルノはいう。「ファンタジーはそれ自身が依拠する内在的な目的連関を粉砕する。」( FH388 )
 だがここで、物の苦悩に対して手当てされる物質もまた、魔術的な象徴ではなく、それ自身合理化された記号として、それ自身の抑圧の歴史、すなわち苦悩を抱え込んでいる。とすれば物質はそれ単独では物の苦悩を癒すことはできない。応答はつねに複数の、しかも連鎖する物質の継起によってのみ追求されるべきものとなるだろう。そうした連鎖の総体、つまり物の問いに応答する物質の総体は、それ自身1つの言語として物の苦悩を語り出している。これは物の苦悩に対する1つの感受性のあり方、つまりエステティックな配置を示すものということができる。アドルノの言う「配置 Konstellation 」( ND164 )とは、強制から離脱して別の可能性を実現しようとする「ファンタジー」が結果として実現する形象にほかならない*17
 いかなる素材と形式の一致も、それがすべて抑圧に基づくとすれば、十全なものということはできない。個物はそれ自身の内部に振動を抱え込んではじめて存立している。その振動は、傷の苦しみとして、手当を要求している。この手当の連関こそ、空間(フォルム/ラウム)をかたちづくる。アドルノは次のように言う。「建築におけるファンタジーとはしたがって、目的を通じて空間を分節化し、目的を空間へと転成させる能力、つまり目的にしたがって形式を樹立する能力ということになるだろう。」( FH388 )
 われわれは機能主義と同様に、ある概念目的を実現するかぎりの物質配置として空間を定義する。しかしそれはたんに目的概念を実現する手段としての酷薄な空間ではなく、物としての概念が抱くファンタジーを表現するものである。なぜならここで言われている空間の「分節化 artikulieren 」とは、その目的概念が現状とは別様であるかもしれない可能性、すなわちその概念によって抑圧された自然の声を代弁するものとして、目的概念の傷と苦悩に対応する形で紡がれる、物質の継起のことを指すのだからである。
 ここでいう自然とは、記号による分割以前の、象徴とミメーシスの段階を指すものではもはやない。というのもそうした十全な自然を展望しようとしてもすでにそれは、失われたユートピアとして表象されるしかなく、したがってそれは反動的に形成された自然でしがないからである。自然の声はむしろ、何かを苦しめているがゆえにみずからもまた苦しんでいるという啓蒙の事実を根拠として、現状のあり方から少なくとも逃れでる出口はありうるのだ、という可能性として、抑圧する啓蒙のただなかに差し込んでくるものだと言えよう。そうした可能性に耳を傾け、それに物質を与えようとすること、それこそがファンタジーの概念によって展望されていることであった。
 機能主義が生き延びることができるとすれば、それは機能主義が自己の合理性を放棄して魔術化するのでもなく、また無反省な合理化の果てに魔術的な象徴を回帰させるのでもなく、その機能目的それ自身にたいする反省を通じてそれを乗り越える機能連関を構成しうるかぎりのことであろう。そうした「ファンタジー」に満ちた技術連関の構成は、現状の技術連関に対するたえざる差異化として追求される。



本文中の引用記号は以下の著作を示し、そのあとの数字はそのページ数を示す。

Adorno
[ FH ] Funktionalismus heute: in Ohne Leitbild, Gesammelte Scheriften 10, Suhrkamp
[ ND ] Negative Dialektih, Geasammelte Schriften 6, Suhrkamp

Horkheimer / Adorno
[ DA ] Dialektik der Aufktarung, Fischer, 1988

*1:体制化された機能連関に対するこうした「抵抗」のモメントは、グラフィティ(落書き)をはじめとする今日のヴァンダリズム(公共物汚損運動)の源流をなすとともに、エコロジズムや文脈主義、コトのデザインなどの、ポスト・モダン的な各種の技術思想の底流を形成することになった。そうしたドイツ・デザイン思想の大きな転換点に位置するものとして、本論文をまずもって位置つけることができる。

*2:マックス・ビルを学長として1955年に創立されたウルム造形大学は、エルゴノミクス(人間工学)の観点から産学連携を推し進め、バウハウス以来のドイツ・モダンデザインの思想的、制度的中枢を形成していた。機能主義的デザイナーが「資本家の手先」に堕してしまったとの批判は、州政府による助成金削減決定に影響を与えるとともに、ウルム造形大学をその内部から脅かし、果てしないイデオロギー的対立をその内部に生みたした。Thomas Hauffe, Design, 1995, Dumont, pp.123.

*3:「活動する霊としてのマナは、投影ではなく、自然の持つ現実的な優越した力が、未開人の無力感のうちへ呼び起こす反響である。」( DA21 )

*4:アドルノはいう。「見慣れないものを経験する驚きの叫びが、そのものの名となる。この名前こそが、既知のものに対して未知のものが保持する超越を定着し、畏怖を聖なるものとして固定する。」( DA21 )

*5:優越する自然は、人間の思惑と無縁なものとして、圧倒的に変動する。それが変動するかぎりにおいて人間は自然を制御することができない。したがって人間は、自然のうちで不変である要素、つまり変動を貫いて反復される要素を自然の本質としてとらえようとする。この反復されるものの不変性こそが、象徴としての言語によって指し示される意味内容の同一性の基礎となる、とアドルノは言う。「反復する自然こそ、象徴的なものの核心である。」( DA23 )

*6:「呪術師たちは、精霊の世界とその特性を身に体して、彼らの同業的知識と支配力とを広げていく。聖なる本質は、それと交渉する呪術師に乗り移る。」( DA27 )

*7:ハバーマスは『公共性の構造転換』において、そうした支配空間を「誇示的 repräsentativ 」な公共性の空間と定義した。Habermas, Strukturwandel der Öffentlichkeit, Suhrkamp, 1990, S.58.

*8:機能主義は、人工的に制作された対象物だけではなく自然をも、単一の明示化された機能を積算した複合体として把握する。つまり機能主義によれば、自然と人工物はすべて機械の結合体、しかもこの上なく精妙に構築され運営される複合体なのである。そうした複合体が明晰判明であるのは、それが象徴によって一括して漠然と表象されるからではなく、その構成要素のすべてが明示的な記号によって指示されることが保証されているかぎりにおいてである。この意味で機能主義は、記号としての概念を唯一の目的として組織される目的手段関係の連鎖、すなわち機械的な技術として実現される。そこでは、「事象に即した sachlich 」( FH378 )もしくは「素材に正直な materialgerecht 」( FH379 )技術の実用領域が存立することになる。

*9:アドルノはカントの「目的なき合目的性」を、現実目的から切断されつつなお憧憬としての全体的合理性の回復を目指す、もう1つの合理性のあり方として解釈する。そこにおいては、技術は目的から解放されてはじめて現実世界から自己自身を切断し、そうすることで技術的連関の内では抑圧されている素材の契機に対して、それを解放する真に正しい形式性を与えることができると信じられるのである。

*10:カント『判断力批判』第1編16節における「自由な美 pulchritudo vaga 」と「付随的な美 pulchritudo adhaerens 」の区別を参照。

*11:近代市民階級は合理主義的啓蒙思想によって社会的実権を握るようになると、とりわけウィーン市においては、そうした残存領域を一掃することなく、自らの本来的な啓蒙原理から後退し、みずからをふたたびがっての貴族のように象徴的なもので装飾ようとした。こうした市民階級の反動局面(歴史主義)に十分に奉仕したのが、工芸であった。

*12:ロースの論文集『装飾と犯罪』より。「装飾とは浪費された労働力であり、しかもそれを通じて浪費された健康である。それはこれまでつねにそうであった。だが今日それはまた浪費された素材であり、しかもそれは同時に浪費された資本である。」Adolf Loos, Ornament und Verbrechen, Prachner, 2000.

*13:アドルノは言う。いまやミメーシス衝動は技術化されて「それ自身なお悲しみや嘆きとして、そうした悲しみや嘆きの表現を禁止する快楽原則に従う。」( FH381 )

*14:アドルノによればロースは、そうした狩り出しの果てに「街々の通りという通りが自い壁のごとくに輝く」「聖なる都市、天国 の首都であるシオンの街」(ロースの言葉のアドルノによる引用、FH383 )を成就しようと夢見たという。われわれはここで「白い」という形容詞が強調されていることに気づく。ロースのいう最大限に解放された事物と人間の可能性がまさに実現するその地点において、一切の色彩への嫌悪、つまり混交と汚染への強迫的な排除衝動をわれわれもまた、読み取ることができる。

*15:フロイトの論文「不気味なもの das Unheimliche 」においては、「親しいもの das Heimliche 」と不気味なものとの共属性について論じられている。「この不気味なものは実際には何ら新しいものでもなく、また、見も知らぬものでもなく、心的生活にとって昔から親しい何ものかであって、ただ抑圧の過程によって疎遠にされたものだからである。」『フロイト著作集』第3巻、人文書院、347頁。

*16:アドルノの見方に反してアドルフ・ロースの実際の建築物は酷薄な印象を与えない。それは依然として上質で高級感に溢れており、今日の目から見れば、ロース自身が対決したユーゲント・シュティールの影響を完全には脱していないように見える。しかしながらロースの装飾排撃の主張はその後一面的に受け取られ、ハンネス・マイヤーヒルベルザイマーなどのバウハウスの系列に属する機能主義的なデザイナーの後には教条化・形式化が進み、戦後の高度成長期の大量の建築物へと受け継がれてゆく。

*17:『否定弁証法』の次のような叙述に注目しよう。「概念がその内部において切り捨ててしまったもの、概念がそうあることができないようなしかたでそうありたいと強く願うようなこの剰余 das Mehr を、外部から代表するのはもっぱら配置関係 Konstellationen のみである。」( ND164)