アヴァンギャルドの「死」-アドルノの美学理論の射程 照井日出喜

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 束の間の熱狂ののちに非業の死を遂げたロシア・アヴァンギャルドの透徹した感性の一群とは異なり,現代のアヴァンギャルド芸術は侈くも華やかな商品の一塊としてグロテスクな安楽死を遂げつつある。絶望の吹き抜ける空洞のなかで世界に向かって内なる優美=ユートピアを突きっけ,みずからの存在をもいともたやすく飲み込んで膨脹する虚偽の体系に対する無力であるとともに先鋭な批判を放射し続けるはずの美的精神は,衰弱した「個人性」の放つ甘美な芳香の誘惑に溺れ果て,形而上学的な理念の実体性を喪失した残骸と化して,オブジェの洪水のなかを安らかに流れゆくかに見える。 ほぼ半世紀前に吐き出された,「真の芸術,つまり出来あいのモデルに手を加えることには満足せず,今日の人間および人間性の内的要求に表現を与えようと努める芸術は,革命的である以外にはありえない」*1という,昂然とした響きを持つアヴァンギャルドの意志は,過去の1つのエピソードとして荒涼たる時間の底に埋葬されたかのようである。たしかに,洋酒企業の名を冠した現代音楽祭は,ハーレムや娼家のBGMとしての音楽の出自からすれば分相応のものではある。 しかし,それゆえにこそ,「シェーンベルクは死んだ」というブーレーズの名高くも激越な宣言*2に代表される新しい音楽の志向したものの根源が問われねばならない。
 1970年代後半以降の作曲の傾向について,近藤譲は,「若い作曲家達は,歴史の中の自己の位置を明確にしようといったことには興味を示さず,自分にとって心地よい音楽に身を委ねるようになったようだ」*3と書き,「歴史的意識」の欠如を衝くが,芸術におけるこうしたいわゆるポストモダンの流行という状況は,たんに作品の趣味性ということにのみ還元されるものではない。みずからの領域における伝統的書法への反逆を企てることが衰弱したということは, 20世紀初頭の歴史的アヴァンギャルドが標的として倦むことなく拒絶し続けた,制度として君臨する芸術の支配的な諸規範*4の繰り出す網の目に唯々諾々ともたれかかることであり,そうした諸規範を成立させる社会的な全体性の根源としての歴史性に対して無関心的にとどまるということである。たんに若い作曲家たちのみではなく,近年のシュトックハウゼンにおける「瞑想性」なるものも歴史的アヴァンギャルドが喇笑の対象とした自閉的な「耽美主義的瞑想性」を再現させるインプロヴィゼーションにほかならず,クセナキスやゲージの作品の多くが追求する技法のイノヴェーションも,ときとして「不確実性の専門家だけのための音楽,テクノクラートのためのテクニシャンの見世物」*5という評言が突き刺さるものとなる。「社会のために作曲するのも,社会に反対するために作曲するのも,同じことで,作曲家はいずれにしても危険を冒すことになる」*6という,ルイジ・ノーノとの対話におけるラッヘンマンの社会に対するアンチテーゼとしての音楽をその二律背反性を意識しつつも志向する言葉は,全体の流れのなかでは空しくかき消されるかのようである。
 たしかに,歴史的アヴァンギャルドにおける芸術と生活実践とを強引に結合させようとした願望は,もろくも溶け去ることになる。生活実践へと入り込む通路が塞がれた状況のもとでは,社会を震憾させるべき試みも秘教的なイヴェントへと退化せざるを得ない。攻撃的な意志の表白がほとんど狂気じみた威力を持つものであったとしても,ハプ二ング的要素しか持たぬものは,意図としてまさしく[作品]概念自体の破壊をもくろみながらも,所詮はたんなるハプ二ングとして一種の見世物へと引きずり降ろされる。 ブルトン等が参加した[サド候爵の遺言執行式]という「儀式」の秘教的な閉鎖性*7は,シュールレアリスムの内包した破壊的エネルギーが,内属したはずの社会性を喪失することによって神秘主義的な自己充足性へと変質し,アヴァンギャルドが自己崩壊を遂げたことを示す好例をなすものであるが,一回性の「発想」による「覚醒」なるものの行き着く墓場はおそらくこの種のものであろう。もとより,ケ−ジをはじめとするいわゆるネオ・アヴァンギャルドは,歴史的アヴァンギャルドとは異なり*8,生活を根底から転覆させる手段として芸術をとらえ,いわば自覚的なピエロとして,本来みずからが拠って立つべきもの自体への絶望的な反逆へと突き進むということはさしあたって無縁のまま,みずからの感性と「音楽」把握にふさわしい表現手段と音素材との探求自体に価値を認める。 じっさい, 「音楽」というものの「拡張」を可能なかぎり追求したものとして,『4分33秒』は1つの極限を示したことは事実である──「コンサート」という形式における演奏者と聴衆との固定された関係自体を解体して見せてくれたこともさることながら,しかし,作曲技法の伝統のあらゆる呪縛から解き放たれ,〈音〉をなんらかの手段で「構成」することからも逃れ出た「完全な」自由の「実現」が,まさしく形式的自由として無内容なものに過ぎぬことを(おそらくは才人ケ−ジの意図に反して)暴露する意味でも極限的な「書法」であった。「すべてが音楽である」とするならば「作曲」という行為自体が空虚な無でしかあり得ず*9,それが語るべきものを失った作曲家の自嘲の道化的表出ならばイヴェントを構成すること自体が偽である。もっとも,ヴェーベルンの緊密性に続こうとしたセリー音楽の展開も,グラフィック・ノーテーションによる不確定性の音楽も,エレクトロニクスを用いた,もともと作曲家には信用されぬ演奏者という媒介の存在を必要とすることなく作曲家の感性の表現を可能とする電子音楽も,伝統的な「音楽」の諸要素を否定し尽くした『4分33秒』からすれば色梗せたものとして映ずるかも知れず,いわば1つの頂点が示された極限性への反動として,たとえばネオ・ロマン主義が調性の再興という折衷主義を振りかぎして前面に現われてきたともとらえられよう。とはいえ,「過去の芸術原理を甦らせようと努力したところで,せいぜい死産の児に等しい結果を生むに過ぎぬ」*10ことは明らかである。マーラーの世紀末は20世紀の世紀末ではない。「調性,具象性,伝統的な文学諸形式」に「不信」を抱きつつも「タブーとはしない」*11か否かという問題の設定ではなく,現代に生きねばならぬ芸術家がみずからの時代に向かって痛苦にみちた懐疑と批判とを叩きつけるときに,シェーンベルクとカンティンスキー(および表現主義者たち)とカフカ以前の,いわば19世紀のイミテーションにも似た書法がどれほどの有効性を保持しているのかが問われればならない。たしかにカンディンスキーも,「内面的──必然的なものであればすべての表現手段は神聖である」と書くが,しかし,それは,その「内面的──必然的なもの」が「今日の内面的な基礎」*12という時代性の要素に支えられたかぎりでのことであった。
 他方,こうした時代性を痛切に意識しながらも,歴史的アヴァンギャルドの志向した「生活実践と芸術との融合」が挫折するのは,芸術作品が商品としてしか存在し得ず,消費財として扱われ,したがってまた当然のこととして冷然とした市場の論理のもとに従属させられるところでは,それゆえ,アヴァンギャルドがほかならぬその論理に対していかに挑発的な反撃を試みようとも,彼らの作品群が「生活実践」とは断ち切られた次元で「日常生活の人畜無害な付録」*13として飾り物となる運命から超越することができぬということからすれば,不可避なものであった。 ──1948年10月24日,ブタペストでのハンガリー語による『ロ―エングリン』の上演のさい,ローエングリンの聖杯の物語のアンコールを求める聴衆よりもヴァーグナーに忠実であろうと意志し,「なんという厚かましさだ!」と叫んで指揮台を降り,騒然たるスキャンダルを引き起こしたクレンペラー*14のような変人は,振付師にも似た「サーカスのムチを振るう猛獣使い」*15のスター性によって興行が成り立つ現代の音楽界ではもとより例外でしかない。数万円もの入場券を手に入れて遠来のオペラやオーケストラのコンサートに出掛ける聴衆は,アドルノが分析した半世紀前のアメリカの聴衆と同様,みずからが支払った金額に対する「物神崇拝」においてすでに感動の極みにある。さまざまな見世物の類と並んで同じ興行主によってバッハやラヴェルのコンサートが新聞広告として掲載されているのを見れば,たんなる売り物としてこれらの間にはなんらの区別もないことが一目瞭然である。そして,もとより,「レコードによって,音楽と貨幣との関係は鮮明に自らを現わし,曖昧であることをやめ」*16るのであり,批評家の月並みなコピーに飾り立てられて,音楽は市場を駈けめぐることになる。
 芸術が商品の論理のもとでのみ存在するということは,有用性と効率性の原理という形式合理性が支配し,したがってまた「理性」が変容を遂げる社会のなかでそれが存在するということである。「理性の危機は個人の危機において現われる」*17個人の危機は主体の退行にほかならない。ホフマンスタールが『チャンドス卿の手紙』に託した詩人の絶望は,慎み深く,みずからの「書く」という行為にのみ向けられていた。 しかし,アドルノが『聴取の退行』で冷酷なまでに描き出して見せた芸術作品の受容自体の衰弱という問題は,「主体」なる古典的な美しさを放つ呼称を持つ存在が順応主義のもとにものの見事に引きずり込まれる事態と照応するものととらえられる。実体性のインパルスの欠如した「趣味人」の輩出は文化の虐殺である。「美的主体」なるものの形成は,消耗品としての芸術という状況のもとでは幻惑的な欺眠の夢にほかならない。地下鉄でブラームスハ短調シンフォニーのフィナーレのテーマを口笛で吹き鳴らす男への嫌悪を吐き捨てるアドルノの傲然たる貴族主義*18のみが,芸術の危機の致命的な進行の本質を認識し得るのである。

II

 みずからも属するシュールレアリスムについて,古賀春江は,「超現実主義は純粋性へ憧憬する意識的構成である」*19と書いた。 この純粋性への憧憬こそは,芸術家を芸術家たらしめる根源をなすものでなければならない。ユートピアの優美な唇が悲しみに蒼白となって「否」を発するシューベルトも,深い沈潜と沈黙との張りつめた構成によって世界との緊張を築き上げるノ―ノ(”Fragmente-Stille, An Diotima”)も,チリのクーデターに対し,その事実を知る以外になす術のない個人の無力を音素材に託したヘンツェ(”Tristan”)も,その憧憬の鋭敏さによって卓越した表現力を獲得する。
純粋性への夢は,偽なる体系の前でつねに圧殺される危うさに曝される。世界のあらゆる振動をことごとく感知する地震計のごとき能力を神か悪魔かに与えられてしまったがゆえに,詩人は「みずからの内面における調和を希求すること」を「倦むことのない行為」*20となしながらも,まさしくその同じ理由によって,そうした調和の構築の不可能性に絶望しなければならず,「諸現象の無限の広がりを苦悩しつつ身に受け,そしてこの苦悩にみちて身に受けるということからヴィジョンを作り上げること」*21をみずからに課さればならない。非人間性を本質とする偽なる現実性と内的調和への渇望とに引き裂かれる芸術家は,「魂が憧れに死ぬ」(ハイネ)深淵の深みにくくり付けられたまま,多様な叫びを作品に結晶化させることを通じて,世界に対するみずからの「個」の論理を貫ぬく。ヴィジョンの多様性は素材と技法の多様性として,それ自体が「個」に生命を吹き込むものであり,芸術家の希求する純粋性には,固有の領域における表現技法自体の完全性への意志が含まれる。松本竣介の透明な響きをたたえるリリシズムも,三岸好太郎コンポジションの静寂も,あるいはポロックの凄絶な反逆のリズムも,まさしく「個」の存在の深さが作品において実現され,したがって,「個」の存在の現実における希薄さを痛切に意識させるがゆえに,作品として生きるのである。
 純粋性の希求は芸術の内部でなされなければならない。同時に,純粋性というユートピアの別名の追求は,本質的に,自閉的なものにとどまることは許されない──それこそはユートピアの自己解体にほかならぬからである。それは歴史的に規定された現実性の悲惨に対する批判的なかかわりをその生命となすがゆえに,みずからを越え出て行くことをみずからに倫理的要請として課さねばならない。ザラストロのアリアが描くユートピアは, 18世紀においてはたしかに〈未来〉へと湧き立つ意志の表出であったに違いないが,現代では,その実現の不可能性を告知するがゆえに聴く者の心に悔恨として響き渡る。「芸術は理論と同じくユートピアを実現することはできぬ」*22のであり,「芸術は幸福の約束であるが,この約束は守られることはない」*23のである。しかし,まさしくこの無力を思い知るがゆえに,突きつめられた「個」の論理は,みずからにおける純粋性への憧憬の厳しさを媒介として,偽なる全体への反逆へと歩み出る──逆にいえば,「社会的正義へと赴くことのできぬ個人主義は,全体主義的なものへと退化していく危うさを孕む」*24のである。すなわち,芸術の内部における純粋性の希求は,純粋性が憎悪し,排斥するものとつねにかかわらねばならぬとい意味において,暗く長く尾を引く彫に絶えずまとわりつかれねばならない──「自律性」と「社会的事象」との芸術における凄絶な葛藤*25は,詩における永遠性の要求が時を飛び越えてではなく時を貫いてこそなされねばならぬとするツェランの言葉*26のごとく,純粋性への透徹した意志を突き進める誠実さの証しである。全体性の孕む虚偽を感受する芸術は,したがってまた「人間存在の全体」*27すなわち「人間の運命」*28と根源的にかかわるがゆえに,あるいは「個」が「世界に身を挺する主体」*29であるがゆえに,錬金術的な絶対性としての芸術の自律性を貫徹させること自体が,社会的アンガージュマンと重なり合う。それというのも,支配・被支配の原理に組み込まれることから免れることの不可能な現実性に向かってアンガージュする契機の欠如は,みずからの希求の純粋性そのものを損なうことにほかならぬからである。ルッソロ実験音楽をはじめとするイタリアの未来派に属する芸術家たちがテクノロジーの礼讃をたずさえてファシストへと変容を遂げていくプロセス*30は,社会的次元をとらえる視点の歪みに依存する。まさしく,「政治的非真理は美的形態を汚す」*31のである。たしかに,物質的生産力拡大のための「社会主義政体」と知的創造を保証すべき「個人の自由の無政府主義体制」との融合*32というほとんどドン・キホーテ的な夢は,彼岸にうごめく霧のなかで軽やかな飛沫となって砕け散ったかに見える。 しかし,全体的なものに無原則的に統合されることを拒絶する「個」が最も鮮やかな形を取って現われる舞台としてあることを芸術が意志する以上,この不可能な融合へ向かう意図の喪失は,必然的に「政治的非真理」へと流れ込んでいくものにほかならない。とはいえ,「個」が灰色の汚物にまみれてみずからの表現を求めるときには,「喜びと悲しみ,祝祭と絶望,エロスとタナトスとの抜きさしがたい葛藤は階級闘争の問題に解消されるものではない」*33こともまた自明であり,したがって,後者を基準なるものに祭り上げて芸術作品における前者を「評価」しようとする意図はそれ自体が偽である。アヴァンギャルドの前衛性を支える条件は,みずからの拠って立つ技法自体のイノヴェーションと社会的・政治的な先鋭性との必然的かつ矛盾的な諸関係に耐える意志*34を放棄しないという次元に存する──ヘルダーリンの悲歌が,天空に消え去り行くかすかな遠雷のごとくに,それぞれの「乏しき時代」に生きねばならぬ酒神の聖なる使徒たちの到来を告知する。
 この次元の現われ方は,もとより「個」としての芸術家に依存する。変奏がトータルとなることによって,変奏が素材自体へと連れ戻され,したがって主題も変奏も消失する十二音技法の音楽構造自体に,アドルノは,「解放され,孤独化した現実的主体」*35が映し出されるのを見るが,しかしそれも,作品の放射する緊迫した感性自体がまさしく音の響きとして表現されているからにほかならず,べルクの『ヴォツェック』の告発の力も,パッサカリアやインヴェンションといった技法の形式的な完全性のみによって生み出されるわけではない──それは,ノーノの "…sofferte onde serene…" が,たんに表現手段のイノヴェーションによって自己主張しているのではないのと同様である。
とはいえ,「解放され,孤独化した主体」こそは,「商品」という媒体なしには存在し得ぬ芸術そのもの姿でもある。商品であることを憎悪しつつも,売り物としての後ろめたさに引き裂かれるのが芸術の宿命にほかならない。しかしまさしくそれゆえに,社会のなかのみずからの置かれた位置自体に対して,芸術は反逆の意志を保持しなければならない。歴史的アヴァンギャルドの「芸術の制度」の破壊*36へ向かう挑発的な抗議は,そのかぎりで今もなお鳴り響く。地位と名声に群らがる腐り果てた美術界なるものの状況──それは今日でもまったく同一の臭気を放つが──に対し,痛烈な批判を展開したのはカンディンスキーであった*37ブルトンへの手紙のなかで,美術館の取り澄ました空間にゴッホの絵が飾られることへの嫌悪を執拗に吐いたアルトーは,「いやしい豚のような魂をむき出しにし,あらゆる人びとのまえに示した同じパリの人間たちが,今や,ヴァン・ゴッホのまえで,生きているときには,彼らや,彼らの父母が,その首をよじったあのヴァン・ゴッホのまえで,行列を作っている」*38と書く──西武資本がみずからのデパートでロシア・アヴァンギャルドの展覧会を開くという大いなる「寛容」も,もとより不可思議なことではなく,絵画が投機の対象へと凌辱される事態は,倒錯した「正常性」の自己告白にすぎない。
 たしかに,「気がくるったヴァン・ゴッホ」(そしてアルトー自身)「のように,苦労して輝き,赤く燃えあがらなくとも,すべては存在しうる」*39に違いない。セイレーンの妖しい誘惑に対する狡智が,「合理性」の名のもとに支配の原理が貫徹する「精神的動物の国」の原型をなすものであるとすれば,ほかならぬ第三者の手によって心ならずも媚薬を飲まされ,罪に彩られた激情の狂おしくも優しさにみちた高みから愛の死へと赴くトリスタンとイゾルデは,いわば近代における芸術の運命のメタファーである。
 歴史という名の敵意にみちた血まみれの臓物を引きずり,「何ものかを求めてやまぬ反逆的な心の高まり」*40を絶望と背中合わせに商品という十字架に打ちつけられ,「現実性に傷つき」ながらなお「現実性を求め」*41燃え尽きゆく内なる優美へのオマージュを閃かせてみずからを没落へと迫いやり,追いつめるところでのみ,アヴァンギャルドナルシシズムの蒼白な炎を放つ短剣を振りかざすことができる。

*1:アンドレ・ブルトン,レオン・トロッキーF独立革命芸術のために」(巌谷國士編),『パイデイア』6号,1969年, 120ページ。

*2:ピエール・ブーレ―ズ『ブーレーズ音楽論』(船山・笠羽訳),晶文社, 1982年, 265ページ以下,参照。

*3:近藤 譲『耳の思考』,青土社, 1985年, 48ページ。

*4:Vgl. p. Bürger, Theorie der Avantgarde, Frankfurt a. M. 1982.

*5:ジャック・アタリ『音楽/貨幣/雑音』(金塚訳),みすず書房, 1985年, 191ページ。

*6:松平頼暁『20・5世紀の音楽』,青土社, 1984年,227ページに引用。

*7:アラン・ジュフロワ『視覚の革命』(西永訳),晶文社, 1978年,41ページ以下,参照。

*8:Vgl. P. Bürger, a.a.O., S. 80; K. Hirdina, Der Kunstbegriff der Avantgarde, in : Weimarer Beitrage, Berlin und Weimar 9/1986, S. 1483 f.

*9:松平頼晩・近藤 譲・細川周平「ケージ以降に音楽は始まる」,『現代思想』1985年5月号, 172ページ以下,参照。

*10:W. Kandinsky,Über das Geistige in der Kunst, Bern o.J., S. 21.

*11:p. Bürger, Das Altern der Moderne, in : L. V. Friedeburg/J. Habermas (Hrsg.), Adorno Konferenz 1983, Frankfurt a. M. 1983, S. 194.

*12:12 W. Kandinsky, a.a.O・, s. 83 f.

*13:P. Bürger, Das Altern der Moderne, a.a.O., S. 191.

*14:Hungaroton LPX 12436.

*15:Th. W. Adorno, Einleitung in die Musiksoziologie, in : Gesammelte Schriften, Bd.14,Frankfurt a. M. 1980, S. 294.

*16:ジャック・アタリ,前掲書, 141ページ。

*17:M. Horkheimer, Zur Kritik der instrumentellen Vernunft, Frankfurt a. M. 1985, S. 124.

*18:Vgl. Th. w. Adorno, ijber den Fetisclicharakter in der Musik und die Regression des Hörens, in: Gesammelte Schriften Bd. 14, S. 27.

*19:中野嘉一古賀春江』,金剛出ic, 1977年, 156ページ。

*20:H. v. Hofmannsthal, Der Dichter und diese Zeit, in: Gesammelte Werke, Prosa II, 1977,S. 248.

*21:Ebd., S. 251.

*22:Th. W. Adorno, Ästhetische Theorie, in : Gesammelte Schriften Bd. 7, Frankfurt a. M. 1972,S. 55.

*23:Ebd., s. 205.

*24:M. Horkheimer, Kants Philosophie und die Aufklarung, in: a.a.O., S. 215.

*25:Vgl. Th. W. Adorno, Ästhetische Theorie, a.a.O., S. 16 ff.

*26:Vgl. P. Celan, Ansprache anläßlich der Entgegennah me des Literaturpreises der Freien Hansestadt Bremen, in : Gesammelte Werke, Dritter Band, Frankfurt a. M. 1986, S. 186.

*27:M. Blanchot, Überlegungen zum Surrealismus, in: p. Bürger (Hrsg.), Surrealismus, Darmstadt 1982, S. 44.

*28:Ebd., S. 46

*29:メルロー=ポンティ『知覚の現象学I』(竹内・小木訳),みすず書房, 1984年, 8ページ。

*30:田之倉稔『イタリアのアヴァン・ギャルド白水社,1981年,273ページ以下,参照。

*31:Th. W. Adorno, Engagement, in: Gesammelte Schriften Bd. 11, Frankfurt a. M. 1974, S. 420.

*32:ブルトントロッキー,前掲, 122ページ。

*33:H. Marcuse, The aesthetic dimension, Boston 1978, p. 16.

*34:Vgl. K. Hirdina, a.a.O., S. 1478.

*35:Th. w. Adorno, Philosophie der neuen Musik, in : Gesammelte Schriften Bd. 12, Frankfurt a.M. 1975, S. 59.

*36:Vgl.p. Bürger, Theorie der Avantgarde, a.a.O., passim.

*37:Vgl. W. Kandinsky, a.a.O., passim.

*38:アントナン・アルトー『ヴァン・ゴッホ』(粟津訳), 筑摩書房, 1986年, 69ページ。

*39:同, 55ページ。

*40:同,27ページ。

*41:P. Celan, a.a.O.