日常性という視点とヴォランタリズム批判 小田亮


1.日常性批判と意識化至上主義(ヴォランタリズム)

 私の報告は、日常性ということを「関係の複数性・多義性」が維持されることとして捉え、マスメディアや法や貨幣といった媒体によって合理化された間接的なコミュニケーションによって再構成された生活世界を日常性として、それを批判するような「日常性」の見方や、日常性に潜む排除や差別を意識化することで変えることができるといった見方から、日常性という視点を取り戻す試みをしてみたいと思う。
 日常生活において人びとは、「精神障害者」や「触法精神病者」や「女性」といった「カテゴリー化」を行ない、「多様で豊饒なるひとびとの生命や生活を具体的に『抑圧』し、自らの生活世界から、そうしたひとびととの貴重な出会いのチャンスを『排除』してしまう」[好井 1999:16]。好井裕明さんは、そういった日常的な「カテゴリー化」による差別を暴露し、解体すること、自分自身が浸りきってしまっている日常的差別を「対象化」し、日常生活を批判することこそ、「批判的エスノメソドロジー」の課題だという。
 このような「非対称的なカテゴリー化」の批判は、エドワード・サイードオリエンタリズム批判とつながっている。周知のように、サイードは、『オリエンタリズム』のなかで、ミシェル・フーコーによる知と権力の結合についての議論を引きながら、近代ヨーロッパの東洋研究(オリエンタリズム)が、西欧近代が創り出した「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」であったと指摘している。それは、東洋には、因習や専制に縛られて周囲の環境や関係に深く依存している存在だという、近代啓蒙主義の自己の理想的イメージとは正反対の像を投影すると同時に、自分たち西洋には、周囲の環境や関係性から身を引き離しているゆえに、特殊な文化や周りのしがらみに縛られない普遍的で客観的な知を得ることができる主体という位置を与えるものだった。この関係性から自立して近代西洋の白人ブルジョワ男性の理想像を「啓蒙主義的主体」と呼ぶことにしよう。そのような主体は、周囲の環境や関係に左右されない超越的な固有の視点を確保し、周りの環境や他者の全体をその超越的視点から客観的に把握するがゆえに、その他者を支配できるとされる。
 近代オリエンタリズムは、支配と規律=訓練の言説であり、その言説によって、オリエンタリストはオリエント全体を一望できる外在的な点に立ち、自分で自分を表象する能力のないオリエントに代わってオリエントを表象できるという現実が創り出される。サイードは、オリエントが、「オリエント的停滞、オリエント的官能、オリエント的専制、オリエント的非合理性」といった紋切り型の言説の流通によってオリエント化されると述べている。サイードのいう「オリエントのオリエント化」は、「他者の他者化」といいかえられよう。
 批判的エスノメソドロジーは、非対称的な「カテゴリー化」による「他者の他者化」の様態を暴き、批判するものである。しかし、その批判がなぜ「日常性批判」とされるのか。もちろん、それは現代社会の日常生活がメディアや法や貨幣といった媒体による「カテゴリー化」に浸りきっているからだということになろう。そこでは対面的な関係もそれらのメディアに媒体された間接的なものになり、〈顔〉の見えない関係になっているとされているようだ。そこで、自分で気づいていないうちに浸っている「カテゴリー化」による日常的な差別を暴き、それを意識化することで、あいまいに過ごしている日常の自分を自省することが、非対称的な「カテゴリー化」による「他者の他者化」を克服する道だと説かれる。このような認識し自省する主体は、好井さんのつぎのような言葉に端的に表れている。「身近な、親密とされるひととの関係性という問題。具体的な日常の暮らしにおける差別という現象。それは『差別問題』を考えていく上での基本だ、と主張しながらも、みごとにそうした主張と乖離した日常をおくっている『わたし』の姿をまのあたりにして、さすがに愕然となる。/エスノメソドロジーは『見えているが気づかれていない』現象を解読するというが、『わたし』がやってしまっている日常の暮らしでの排除・差別行為こそ、まさに、それにあてはまるのではないか」[好井 1999:122]。ここで述べられているのは、あいまいなままほうっておかれていることを対象化し意識化することで、日常を改革できるという主張である。それを「意識化至上主義(ヴォランタリズム)」と仮に呼んでおこう。ここでの疑問は、しかし、このような意識化は、好井さんが「カテゴリー化」の問題点として述べている、「多様で豊饒なるひとびとの生命や生活を具体的に『抑圧』し、自らの生活世界から、そうしたひとびととの貴重な出会いのチャンスを『排除』してしまう」ということの克服になるのだろうかということである。意識化によって首尾一貫した主体を確立することは、オリエンタリズムによる啓蒙主義的主体の形成に似てしまっているが、そのような主体の確立は、日常性のなか、生活世界の中でなされるのではなく、そこから身を引き離すことによってなされるとされているようにみえるが、その距離の置き方によってこそ、「自らの生活世界から、ひとびととの貴重な出会いのチャンスが『排除』」されるのではないのだろうか。
 批判的エスノメソドロジーの議論は、すでに私たちの日常生活にメディアを介した「カテゴリー化」が浸透し、身近で親密な関係をも完全に支配していることを前提としている。けれども、メディアや法や貨幣といった媒体によって合理化された間接的なコミュニケーションが私たちを取り囲んでいる状況にあっても、対面的な関係、顔のある関係は、つねにそこから逸脱する過剰性をもっているという見方に立ち、啓蒙主義的主体を形成するための「他者の他者化」は、私たちが日常生活のなかでいやおうなく巻き込まれていく他者との顔のある関係によって崩されていくという見方をすること、それが「日常性の視点」を取り戻すことにつながるだろう。


2.関係の複数性・過剰性について

 日常生活での対面的な関係は、役割関係に還元されない「過剰性」というか「複数性」をもつ。ここでいう「関係の複数性」というのは、1人のひとが「複数の関係」からなる束だというのではなく――それは一義的に決められた役割関係の束にすぎない――、ひとつの関係が複数の意味をもつという意味で使っている。関係の複数性が矛盾や葛藤もなくほうっておかれていること、本報告ではそれを「日常性」と呼びたいと思う。
 ところで、日常に潜む差別の一例であるセクシュアル・ハラスメントは、「カテゴリー化」によって見えなくなっていた関係の「複数性」ないし「過剰性」が対面関係において交差してくる出来事としてある。会社や大学におけるセクシュアル・ハラスメントは、会社での協働関係や役割関係や大学での教員と学生といった役割関係以外の関係を、相手が望んでいないのにその関係に持ち込もうとする行為である。ハラッサーは、相手との関係が対面的な関係であるにもかかわらず、相手の〈顔〉を見ていない。つまり、たとえば「職場の花としての女性従業員」といったカテゴリー化によって、その関係を〈顔〉のある関係ではなく、カテゴリーに媒介された間接的な関係としているわけである。それを「セクシュアル・ハラスメント」と名指すことによって、見えるもの、告発可能なものに変えていったことには大きな意義があった。しかしだからといって、「職場での関係から会社の労働関係以外のものを一切排除せよ」あるいは「教員と学生という役割以外のものをそこから排除せよ」という常識的な解決方法は、〈顔〉のある関係がつねに「過剰」であるということを忘れている点で、有効なものとはならないだろう。それは、ほとんど不可能なことを求めているか、組織を媒介した役割関係という関係を〈顔〉のある関係に持ち込むことで、近代的主体の確立と生活世界の植民地化、間接的コミュニケーションによる合理化を促進してしまう。
 たしかに、セクシュアル・ハラスメントはされる側にとって不愉快なものであろう。その不愉快さは、相手が自分をカテゴリーとして見ていて、〈顔〉を見ていない(その関係を代替不可能な単独性として見ていない)ことからくる。けれども、あえていえば、その不愉快さや危険性は、煩わしさとともに、他者との〈顔〉のある関係にはつきものである。セクシュアル・ハラスメントが問題となるのは(あるいはその不愉快さが許容範囲を越えるものとなるのは)、そのような不快な行為にたいしてはっきり拒絶したり告発したり証言したりすることがかえって被害者たちの不利になるという状況があるからである。その状況を生み出しているのが、イヴ・セジウィックのいう男たちのホモソーシャルな絆である。いいかえれば、セクシュアル・ハラッサーが対面的な関係を〈顔〉のない関係にできるのは、男たちのホモソーシャルな絆においてである。したがって、セクシュアル・ハラッサーに近代的主体としての自律と自覚を求めても、解決にはならない。かれらはすでに男たちのホモソーシャルな絆において近代的な啓蒙主義的主体となっているからこそ、相手の〈顔〉を喪失させることができるからである(それは、もちろんセクシュアル・ハラッサーに責任がないということではない)。
 つまり、セクハラの問題性は、個々の行為そのものの不愉快さにあるというより、男たちの間の「ホモソーシャルな絆」にある。セジウィックは、女性を自分たちのあいだの絆から排除する「男たちのあいだのホモソーシャルな欲望」が、近代社会では強烈な「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」と結びついていると述べている。つまり、近代社会においてこのホモソーシャルな絆が成立するのは、男性間の関係の、ホモソーシャルホモセクシュアルとの連続性からくる過剰性を排除することによっているのである。とすれば、セクシュアル・ハラスメントを防止するために関係の過剰性や複数性を排除せよという解決方法は、女性嫌悪をうみだし、セクシュアル・ハラスメントをまさに問題化しているホモソーシャルな絆を作りだし、わずらわしい〈顔〉のある関係から身を切り離して主体を確立することとおなじやりかたになってしまっているといえよう。
 「関係の複数性」ということを、クリフォード・ギアーツの「バザール経済」論[Geertz 1979]での「常連化(cliantelization)」についての議論とそれに対する安富歩さんの解釈[安富 2006]によって説明してみたい。ギアーツは、バザール経済の特徴を、?売り手と買い手が特定の限られた空間に密集していて、同じ場を共有する者同士である、?取引の交渉は対面関係において行われる、?取引の相手は不特定多数の人びととなるが、取引は個人と個人の間で行われる、?商品が標準化されておらず、伝達システムも不十分なため、商品の品質や機能についての情報や取引相手の情報が不正確で不均衡になっているといった特徴を挙げている。確かに、バザール経済における取引は、市場交換であり、そこには需要と供給による価格形成のメカニズムも働き、その取引の関係はその場限りでの敵対的な関係だという市場交換の特徴を有している。けれども、バザールで取引する者(ギアーツの扱っているモロッコのバザールでは「スーワークsuwwaq」と呼ばれる)は、バザールを生活の場にしている者たちであり、そこには取引関係以外の、ただおしゃべりをしたり情報を得たり、一緒にぶらぶらしたりといった、さまざまな関係のネットワークができている。そして、取引においても、取引を繰り返すうちに、「常連化(cliantelization)」が起こる。
 ギアーツは、この常連化を、情報の不正確さや不均衡からくるリスクを軽減するためのものとしているが、安冨歩さんは、この「交渉」とその繰り返しによる「常連化」した長期的な関係を「共同体における贈与」による社会関係形成と類似しているという。しかし、となると、市場交換の関係、「共同体が果てるところ」にあるはずの市場交換におけるその場限りの敵対的な交渉の関係に、それとは相容れないはずの贈与交換の関係に似た関係が作られているということになると安冨さんはいう。そして、このことは、市場/共同体(市場交換/贈与交換)という伝統的な二項対立の棄却へとつながるものだと示唆している[安冨 2006:197]。
 けれども、このことは、市場交換の関係と贈与交換の関係との区別がないということを意味していると取る必要はないだろう。その区別は「常連化」においても維持されている。その異なる関係が、日常性においては、つまり生活の場を共有していることで「馴染み」になった相手との関係が日常的な場では同じ1つの具体的な顔のある関係のなかに連結されてその関係が複数化しているということなのである。その点を考えるのに、安冨さんが深尾とのフィールドワークで見出した中国の黄土高原の農村での事例[深尾/安冨 2003]が示唆的だ。陜西省北部の農村では、家屋建設などに際する村人間の労働提供には、親族や友人など関係の近い人による相互扶助的な無償の労働力の提供である〈相夥〉と、現金を代価にした労働力の提供である〈雇〉とがあり、区別されている。しかし、興味深いことに、ある家屋の改修に施主の友人が〈相夥〉に来ていたが、18日間にわたる友人の労働提供に対して、施主がこれは過大だとして報酬を現金で払う、すなわち〈雇〉に途中で切り替えたという事例があったという。この事例は、〈相夥〉=労働力の贈与交換と、〈雇〉=労働力の市場交換とが単純な二者択一ではなく、同じ関係に互いに矛盾をきたすことなく混在していることを示している。しかし、それは安冨さんがいうように、〈相夥〉と〈雇〉の中間形態があり、区別が明確ではないということを意味しているのではなく、日常性における「馴染んだ」関係には、異なる意味が混在して「関係の複数性」が生じていることを意味していると言ったほうがいいだろう。
 このように、日常生活における関係には複数性や多義性がある。そして、この複数性・多義性こそ、他者との対面関係に巻き込まれたときに、その他者をカテゴリー化によって一義的に他者化することなく、「馴染んだ」顔のある関係にすることを可能にしているのである。


3.「真正性の水準」と日常性

 レヴィ=ストロースは、『構造人類学』に収められた論文「社会科学における人類学の位置および人類学の教育が提起する諸問題」(初出は1954年)のなかで、将来おそらく人類学から社会科学へのもっとも重要な貢献は、彼が「真正さの水準」と呼んでいる社会の2つの様相の区別だと述べる。すなわち、すなわち、人びととの生きた直接的な接触による小規模な「真正(オーセンティック)な社会」の様式と、より近代になって出現した、印刷物や放送メディアによる大規模な、「非真正な(まがいものの)社会」の様式との根本的な区別にあると判断されるだろうと述べている。
 レヴィ=ストロースは、近代社会においては、人間関係は、かなりの部分、書かれた資料やメディアを通しての間接的な再構成にもとづいていると指摘し、そこでの過去とのつながりは、もはや語り部や古老などの人びととの生きた直接的な接触を意味する口頭伝承によるのではなく、図書館につまった本や新聞などのマスメディアや行政機構によって媒介されているという。そして、これらの媒介は、途方もなくわれわれの接触を拡大しているが、同時に、われわれの接触に、非真正な性格を付与していると述べる。
 ここでレヴィ=ストロースが「非真正の(まがいものの)」社会の存在様式と「真正な」社会の存在様式とを区別しているといっても、前者のみが虚構で、後者は実体だといっているのではない。ここで言われている真正さ(オーセンティシティ)の水準とは、「法」や「貨幣」や「メディア」に媒介された合理的かつ間接的なコミュニケーションと、身体的な相互性を含む〈顔〉のみえる関係、すなわち具体的な人と人の〈あいだ〉における非合理性を含んでいるコミュニケーションの質の違いと情報量の質的違いを指しているにすぎない。前者の非真正のレベルにおけるコミュニケーションは、一義的な「客観的真理」を基盤にしているがゆえに、レヴィ=ストロースが引用しているウィナーがいうように「利用価値のある情報をはるかに少ししか含んでいない」。しかし、この区別は、関係の代替可能性と代替不可能性との違いにも重なっており、「非真正のレベル」においてこそ、サイードのいうオリエンタリズムのような「カテゴリー化」による「他者の他者化」が可能だが、真正なレベルでは、この報告で述べてきた「関係の複数性」が維持されて、「他者の他者化」を不可能にするのである。サイードのいうオリエンタリズムは、言説の流通とそれによって日常的な相互関係から自分のみを引き離すことによって可能となった。批判的エスノメソドロジーが批判する「カテゴリー化」も、日常性というより、この「非真正のレベル」に向けられたものだったはずである。
 そして、そのようなコミュニケーションの質における真正さの水準の違いは、現代でもまったくなくなってしまったわけではないと、レヴィ=ストロースが言っているのも重要である。より大きな非真正の社会のなかに包摂され、「法」や「貨幣」や「メディア」に媒介されたコミュニケーションの領域がどんどん拡大していっても、その包摂によって不完全になりながらも、日常生活の顔のある関係において、真正なレベルが残っているということこそが、意識化至上主義(ヴォランタリズム)によらないで、「他者の他者化」を克服する可能性を支えているからである。そのような視点こそ、人類学のメリットなるものであり、そのために「日常性」という視点を取り戻す必要がある。


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