現代社会の「個人化」と親密性の変容――個の代替不可能性と共同体の行方―― 小田亮


1.はじめに

 世界的にみて現代社会が新しい段階にきているということはしばしば指摘されている。この段階は、経済的には「新資本主義 new capitalism 」、政治的には「ネオ・リベラリズム」の時代と呼ばれており、社会学的には、新たな「個人化」(「非線形的な個人化」)[Lash 2001]によって社会のあらゆる面での「液状化」[バウマン 2001]が始まっている段階とされている。「個人化」とは、職業やライフスタイルや人間関係や消費などのあらゆることが、社会の規範や規制といった枠組みによらずに、個人の選択の対象になってきたことを意味する。それ自体は、19世紀に始まる「モダニティ=近代」の特徴の延長線上にあるといっていい。しかし、現代の「個人化」は、19世紀から20世紀半ばすぎまでの「個人化」とでは(延長線上にあることは間違いないが)その様相が異なっている。
 ドイツの社会学者のウルリッヒ・ベックは現代の社会の流動化と個人化の特徴を「リスク化」という語で説明している[ベック 1998]。「リスク化」とは、いままで安全で安心と思われていた生活がリスクをともなったものとなることを意味する。ただし、それは、現代社会の治安が悪くなったとか、危険が増したということを意味するわけではない。それは、生活の多くの局面が自己選択の対象となったことにともなって、選択に失敗する機会もまた増えたということを意味する。そのような生活のリスク化は、近代社会の成立とともに始まった。つまり、近代になって「自分の生活を自分で選択する」という理念が成立したことにともなって、その選択によるリスクが生じてきたというわけである。
 けれども、1980年代以前の社会ではまだ、個人化とそれによるリスクは社会の「液状化」をもたらしてはいなかった。「自分の生活を自分で選択する」といっても、ある程度の段階で振り分けがなされ、自分に振り分けられた職業は一生のものであり、生活はある程度安定していた。つまり、選択の結果がある程度は見えていたのである。しかし、現在においては、学歴があっても先が見えないし、会社も家庭もこの先何が起こるかわからないという「不確実性」「不安定性」が生活全般を侵している。新資本主義による資本の再編成は、労働力を最大限にフレキシブルにしようとし(採算の合わない部門から合う部門への労働力の絶え間ない移動と、労働力の非正規社員化)、絶え間ない自己選択を人びとに迫ると同時に、ネオ・リベラリズム時代の現在では、「自分で選択した結果は自分で責任を負う」という「自己責任」の価値観によって、リスクはますます大きくなっている。そのために、「個人化」が生活のあらゆる局面で推し進められていると同時に、人びとの間の持続的な関係の形成が困難になっている。しかし、そのような状況においても、人びとが他者との親密な「つながり」や趣味のサークルや自助グループなどの「中間集団」での関係を求めていることもたしかだろう。また、ネオ・リベラリズムには、個人の自己責任という価値規範とともに、ナショナリズムおよび家族主義の価値規範が付随しているが、これも、持続的で安定した関係の喪失の代償として国家や家族への帰属を求めているといえるだろう。
 本稿では、持続的な関係の形成が困難になった現代社会において、人びとがどのような関係を作っているのかを、「親密圏の変容」と「私のかけがえのなさ(個の代替不可能性)」という観点から見ていき、その問題点のありかを人類学的に考察してみたい。


2.「若者の変貌」と親密圏の変容

 社会学者の土井隆義は、現代の子どもたちの「自己」のあり方の変貌、裏を返せば、他者との関係の取り方が変貌しており、それは「親密圏の変容」と捉えられるという。土井は、その本の中で、現代の10代の若者たちが、友だちや家族との関係からなる親密圏では、その関係を維持するために高度に気を遣って、互いに「装った自分の表現」をしあっている一方で、公共圏にいる人間に対しては無関心で、一方的に「素の自分の表出」をしていると指摘している。土井は、井田真木子の『十四歳』(1998年、講談社)のなかの18歳の少女の「親友」についての次のような言葉を引用している。「言いたいことがあっても、どう言ったらいいかわからないし、わかっているのは、個人的な奥の奥まで触れられたら、あっというまに逃げてしまって、それまでの親友関係、全部壊れてしまうってことだけなんです」。土井は、従来までは、親密な関係とは、気の許せる関係であり、演技など必要なく、関係が壊れてしまうのではないかという恐れなしに安心して「素の自分」を出せる関係だったが、いまの子どもたちにとっては、その関係が、演技しあわなければお互いの関係が破綻するのではないかとつねに怖れるような関係に変質したという。
 そして、土井は、電車の中などの公共の空間で、自分の欲望の趣くままにふるまう、たとえば携帯電話で喚声をあげながら会話する人とか、制服から私服に着替えたり化粧したりする少女など、その同じ場所に居合わせている他者が意味ある存在ではなく、風景の一部となっているようなふるまいは、親密圏での関係を維持するのに気とエネルギーを使いはたして、それ以外では使えなくなっていることに由来するという仮説を出している。すなわち、「昨今の日本の若者たちは、私たち大人から見れば異常なほどお互いに配慮しあわないと、関係の維持が困難だと感じているようです。そのため、親密圏の人間関係のマネージメントに際してもきわめて莫大なエネルギーを注ぎ込んでいるようです。だとすれば、公共圏の第三者に対しては逆にまったくの無関心であり、意味ある他者として感受されていないというもう片方の事実は、親密圏において、彼らがもてるエネルギーのすべてを使い果たしていることの表れだといえないでしょうか。親密圏の人間関係の維持運営だけで完全に疲弊して、その外部にいる人間に対しては、もはや気を回すだけの余裕がないのです」[土井 2004:15]と述べている。
 これと似たような仮説は、同じ社会学者の森真一も出している[森 2005]。森は、仲間内の「ウチの世界」の外で、マナーがないかのようにみえる行為が多くなったことをマナーが衰退したのではなく、「ウチの世界」での「マナー」に神経を遣う、マナー神経症の時代になったという。そしてその変化は、近代の初めに遡る。すなわち、近代になって、移動の自由など、社会が流動化して、いままで疑うことのなかった「ウチの世界」のルールや価値観があたりまえのものではなくなってきて、「ウチの世界」が崩壊の危機を迎えて、それを防ぐために「ウチの世界」のルールが厳しくなった結果、掟破りといわれて「村八分」に遭わないように「ウチの世界」の人びとの「目」をこれまで以上に気遣うことになった。そのために、「ウチ」が気詰まりになった結果、「ソト」で気遣いせずにふるまいたいという欲望が強くなったというのである[森 2005:49-50]。
 そして、森は、現代社会で、その欲望がますます強くなってきたのは、仲間集団や家族までも利益社会化(ゲゼルシャフト化)してきているからだという。友達などとの仲間集団も家族も「楽しさ」だけを共有する、求心力の弱い集団になってきているからこそ、結びつき自体を維持する努力をしないと解体する恐れがあるというわけである。たとえば、家族について、森はつぎのようにいう。「かつての継承家族は、経営体として存続するためにメンバー同士が結びつくのはあたりまえでした。それに対して、現代家族はメンバー同士の結びつきはあたりまえではありません。たとえ血縁という紐帯があっても、数多くある選択肢のひとつにすぎないのです。ですから、結びつき自体をつくり出す努力をしないとバラバラに解体するリスクがあるのです」[森 2005:102]。補足すれば、近代以前の家業をもつ継承家族は、経営体であり、その経営のために役割分業も決まっていたし、家父長が強い権限をもっていたのも、企業の経営者と同じように、経営体の長としての役割だったし、そのような経営体としての家には使用人など、血縁関係のない者もメンバーにいたのである。しかし、労働や生産の場ではなく、消費の場となった現代家族では、そのような上下関係を含む役割関係の根拠が希薄になっている。そして、家族の機能である消費と再生産(子育て)も、外部に「アウトソーシング」することが可能になり、結びつきの根拠は、家族は愛し合わなければならないという新しい規範による「愛情」や「楽しさ」になったというわけである。
 家族ですらそうなっているのだから、それ以上に結びつきの根拠の希薄な仲間集団はもっと維持することが難しくなっているといえるだろう。森は、父と母の仲が悪くなり、自分もかなりきつくなったけど、ウチのことだから友だちにも話すこともできなかったという少女のインタヴューのビデオを学生たちに見せて、「私なら自分のつらさを話せない相手を『友人』とは呼ばないけれども、みんなはどうか? なぜ『友人』に自分のつらい気持ちや悩みを相談できないのだろうか?」と訊ねてみたという。その結果は、多くの学生たちが「『友人』だからこそ悩みを相談することはない」と回答し、その理由として、「身内の恥をさらすようなものだから」、「相手が相談内容をバラしてうわさの対象になってしまうから」、「相談しても問題が解決されるわけではないので、無駄だから」、「友人といる時間は楽しくすごしたいので、相談なんかしてその場の雰囲気を暗くしたくないから」、「相談したら、相手が自分より一段上の立場になり、対等な関係が持てなくなるから」、「相手に重荷を背負わすことになるかもしれないから」などといったことを挙げたという。森は、学生たちが挙げた理由について、友人であってもかなり不信感を持っていること、上下関係や相手への負担といったことを避け、楽しく対等な関係を維持しようとしていることがうかがえるとしている[森 2005:106-107]。
 つまり、結びつく根拠が希薄となった現代の仲間集団や家族のような親密圏の結びつきは、上下関係や負担などを伴う役割関係をそこに持ち込むだけで、壊れてしまうような不安定さをもっており、その不安定さを解消するために、仲間内に関心を集中させるとともに、そのソトには関心を遮断してしまうというわけである。
 さて、公共圏においてそこにいる他人を意味ある人間とも思わないようなふるまいをすることに関して、2人の社会学者の仮説は似ていた。つまり、親密圏や仲間内での関係維持にエネルギーを使い果たして、その外部にまで気が回らないという仮説だが、ただし、土井説と森説とでは違いもある。それは、土井が、公共圏でのそのようなふるまいが基本的には現代の若者や子どもたちに始まったことと捉えているのに対して、森が、そのような「思いやり(配慮)の落差」が近代の当初からあったことであり、いわばその落差の度合いが現代になって大きくなったというように、近代との連続性において捉えており、また子どもに限られたふるまいではないと捉えている点である*1
 また、土井は、なぜ親密圏での関係を維持するために高度に気を遣って、互いに「装った自分の表現」をしあうようになったのかという原因を、「個性」が煽られているためといったもの以外に示していない。森は理由を示しているが、その理由とは結局は、共同体が解体して、家族も仲間集団も利益社会化して不安定になったためという19世紀以来の社会学者の社会変容の1つ覚えの理由に帰結してしまう。そこには、近代以前の共同体における関係が単一的で人格的で情緒的だという、オリエンタリズム的な二元論による前提が見られるといってよい。


3.関係の選択化と自己の多元化

 社会学者の浅野智彦もまた、土井らと同様に、若者たちの親密性の変容を指摘している[浅野 1999.2006]。浅野は、量的調査(アンケート調査)に基づいて、現代の若者たちの友人関係のなかには、〈選択的コミットメント〉とでも呼ぶべき親密さの新しい形が見られるのであり、それを従来の親密さの形である〈包括コミットメント〉という基準から見ると、〈浅い〉希薄な人間関係にみえるだけだという。
 浅野は、親密さについての従来の見方は、「本当の自分」をどれだけ相手に見せられるか、その度合いによって〈深い−浅い〉が計られていたという。つまり、本当の自分を見せているつきあいは〈深い〉が、本当の自分を隠しているつきあいは〈浅い〉というように。このようなつきあいの「深さ」をもつ親密な関係が価値のあるものだということが自明性をもっているので、新しい形の親密さを評価できないのだと。そして、このつきあいの「深さ」の自明性には、社会学的根拠があったと、浅野はいう。すなわち、「これまで親密な関係が取り結ばれる場が、主として家族、夫婦、恋人など生活の広範な文脈を共有する、その意味で包括的な関係の場にかぎられていたということだ。このような関係から離脱することは非常に困難であったため、その内部で首尾よく生きていくためには、各人がどのような人間であるのか、自分にも他人にもはっきりとわかるような一貫した同一性をもつことが強く要求された。それゆえに『深さ』の図式があたかも自然なものであるかのような信憑性をもちえたのである」。そして、「このような親密さを〈包括的コミットメント〉と呼ぶとすれば、いまやその包括性は(離婚の増大に象徴されるように)少しずつ解体しつつあると言ってよいだろう」という[浅野 1999:49-50]。つまり、〈包括的コミットメント〉から、「参入・離脱の比較的容易な関係において、生活の文脈を限定的・選択的のみに共有するような親密性」としての〈選択的コミットメント〉へとシフトしつつあるとするのである。そして、〈選択的コミットメント〉の特徴として、「人間関係があくまでも限定された文脈の中でのみ取り結ばれることを前提としていて、その場では自分のすべてを見せなくてもよい」(たとえば、自己啓発セミナーで、他のメンバーと抱き合うぐらいに親密になるが、セミナーの外での相手の姿をまったく知らなかったり、ネット上の関係では名前も顔も知らないケースさえある)、「そのような関係が参入離脱の自由なものとしていくつも並び立っていることを前提としていて、ひとつの関係が気に入らなければ、いつでもそこを出ていってもうひとつの別の関係に入れるという選択可能性が保障されている」、「そのような関係を他の目的の手段として利用するのではなく、関係をつくっていく過程自体を楽しもうとするコンサマトリー(即時充足)な志向性をもつ」という3点を挙げ、そのような関係においては、「『唯一の本当の自分』という固定された消失点はしだいに溶け去り、いくつもの『私』、どれもそれなりに自分らしい複数の『私』へとほどかれていく。たったひとつの中心だった『私』は、いくつもの中心へと散開していくのである」[浅野 1999:51]と述べている。
 浅野のいう「深さ」の自明性が生まれたのは、親密圏の関係が「役割」から離れた情緒的なものであるべきだという規範ができた近代以降であるが、社会学者は(たとえば近代家族の情緒性が近代に生まれたという議論をしているにもかかわらず)、共同体や家族が人格的で情緒的な関係だったことを自明のものとする傾向がある。それについてはまた後で議論することにして、「複数の『私』への散開」を肯定するような議論は、1980年代に議論された高度消費社会ないし都市化によるポストモダニズムでの「柔らかな個人」(山崎正和)や「スキゾ・キッズ」(浅田彰)といった議論に似ているだろう。
 たとえば、川本三郎は1984年に出版された『都市の感受性』という本のなかで、つぎのように述べていた。

[現代の子供たちは]ホンネのいっぱい詰まった単一アイデンティティ型の熱っぽいコミュニケーションよりも、軽さと洒落っ気に満ちた軽佻浮薄のウソのコミュニケーションを楽しむ。なぜなら真実の自己にのっとった誠実で真摯なコミュニケーションは人間を固定化してしまうのに対し、演技的・遊戯的なコミュニケーションはいかようにも変化する多様な自己(山崎正和の言葉を借りるなら「柔らかい個人」)を許容し、誠実という名の非寛容におちこむことを救ってくれるからである。それは多極化した人間の生き方を開示しつつある都市文明のひとつの帰結である。子供たちは正義や誠実といった固い内容で他人と深く関わり合いを持つことを慎重に避ける。熱っぽい“血と汗と涙”のコミュニケーションで丸ごと他人と関わってしまうのではなく、つねに“どれも本当でない自分”という断片を他人とのすきまに配置し暑苦しく閉鎖的な人間関係になることを慎重に避ける、そうすることでドグマやイデオロギーや欲望に振りまわされることを回避しようとする。[川本 1988:43-44]。

 ただし、19800年代のポストモダニズムの議論が、あらゆる固定化を回避する演技的コミュニケーションによる多様な自己の「どれも本当でない自分」という断片化への手放しの礼賛であったのに対して、1990年代後半の浅野の議論は、より慎重なものになっている。浅野は、このような新しい親密さの形はようやく広がりつつある現在進行形の現象であり、それは、これまで「本当の自分」ということばに実質的な意味を与えてきた諸関係が解体していくことを意味するが、その一方で現在の社会において「本当の自分」ということを非常に価値のあるものでありそれを目指すべきだとする規範的視線だけはいまだに根強く残存しているゆえに、いまや空虚な記号となった「本当の自分」の空白を埋めることが求められるとし、その空白を埋めるゲームのやり方に注目すると、現在の親密な関係は、以下の4つの形態に分けられるという。
 第1のゲームは、その空白を「ごく身近で具体的な共同体の他者(典型的には「親子」「家族」「恋人」)にたよって充填しようとするもの」で、「具体的な他者たちの視点から『本当の自分』に意味を与えようとする試み」[浅野 1999:52]である。しかし、浅野は、具体的他者はしばしば「私」の予期を裏切るので、複雑に分化したこの社会では絶え間ないリスクとそこからくるストレスにさらされることになり、そのことがこのゲームの参加者を他のゲームへと追いやることになるという。
 第2のゲームは、「ファンダメンタリズム」のゲームで、「ある種の宗教団体に代表されるようにこの空白を何か超越的で普遍的な他者にたよって充填しようとするもの」で、「空虚になってしまった『本当の自己』に、超越的・普遍的な他者の視点から実質的意味をもたらそうという試み」[浅野 1999:53]である。浅野は、このゲームは、超越的・普遍的な他者に由来するもの以外のあらゆる「本当」を拒絶して信仰を共にする仲間との間でのみ親密な関係をつくるという閉鎖性をもたらすという。
 第3のゲームは、「この空白をメディアを介した他者にたよって充填しようとするもの」で、「モノを消費することによって自分らしさを演出するかたちで『本当の自分』に意味をもたらそうという試み」[浅野 1999:53]である。この親密さのゲームは、ブランド品などのモノの記号の意味を共有している比較的広範な消費共同体の中で展開される。だが、このゲームでは、「これが自分だ」という「終わり」がないため、人は絶えず古い「本当の自分」を脱ぎ捨て、最新のものに着替えなくてはならないため、そのキャッチアップの過程が飽和状態に達すると、つぎの第4のゲームが浮上してくるという。
 第4のゲームは、「これまで信じられてきたような『本当の自分』などありはしないのだということをはじめから認めてしまうこと、そしてそれを他者にたよって充填しようとする試みから降りてしまうこと、ここから始まるもの」であり、「『本当』が多元的・多中心であることを前提に、その都度の感覚・好み・趣味によってその都度の自分をどれもそれなりに自分らしい『私』として認めていこうとする試み」[浅野 1999:53]である。浅野は、どの自分もそれなりに自分らしい「本当」であるのだから、もはや「本当の自分」ということ自体が意味をなさなくなると述べ、これが〈選択的コミットメント〉に対応する親密性だという。浅井はそう呼んでいないが、この第4のゲームは、「ポストモダニズムのゲーム」と呼べるだろう。
 浅野は、第4のゲームとして始まったニューエージ・ムーブメントが、近年になって第2のファンダメンタリズムのゲームへと転回したという例を挙げて、この4つのゲームが複雑な相互作用のなかに存在していると指摘してはいるが、基本的には、「ポストモダニズムのゲーム」である第4のゲームを肯定していることは確かだろう。
 同じ本のなかで、芳賀学も、ポストモダニズム的な営みを肯定しているようにみえる[芳賀 1999]。芳賀は、友人、親友、恋人といった相手(家族も当然含まれる)との間の「本音」を明かしあえる情緒的人間関係(第1次関係)と、それ以外の他者との役割的な人間関係(第2次関係)という、従来の区別にはあてはまらない若者たちの人間関係(これを芳賀は「1.5次関係」と呼ぶ)に注目している。この「1.5次関係」は、浅野のいう〈選択的コミットメント〉の行われる場である。そして、芳賀は、この「1.5次関係」が「自分らしさ」の追求にともなうパラドックスを埋めるものだとしている。そのパラドックスとは、「自分らしさ」という価値が浸透している若者たちが、「いまの自分のままでいいのか」というメッセージを絶えず流している消費社会において、自分の感覚や感情を基準に「自分らしさ」を自由に選択しようとすると、逆に自分らしさを確定することが困難になるというものである。たとえば、「現代の都市社会で、人々が自由に自分らしさを追求していけば、どうしても人びとの生き方は多様にならざるをえない」[芳賀 1999:25]が、考え方や生き方が違う人びとのなかで自分と他者とのあいだに解釈のズレやコンフリクトが生じることになるし、また、自由に自分らしさを選択したとしても、メディアで流される他者の選択のほうがよく見えたりするし、モノの消費と同じように、その選択には「終わり」がなく、どこまでも満足は得られないということになる。つまり、「個人化」にともなうリスクがあるというわけだ。
 そこで、若者は、多様な他者とのコンフリクトを避け、不安定な自分らしさを守るために、状況に応じたロールプレイという「自己の二重化」戦術によって、他者との距離をとろうとする。すなわち、「こう振舞っているけど、それはここに合わせているだけ」であり、その場に合わせて役割演技している「行為する自分」と「内面の自分」(「本当の自分」)とは異なっているとする戦術である。それは「さまざまな他者が存在し、高速で変化する社会環境には、素早く対応できるがゆえに、うまいやり方」[芳賀 1999:27]であり、いまの自分に安住することなくつねに変わることが要求される現代社会に対して適応するための戦術でもある。しかし、この自己二重化の戦術においては、相手の「本音」が見えにくいため、「こうした関係の中でいかに肯定的に扱われたとしても、自分の生き方にある程度以上の確かさを感じることは難しい」[芳賀 1999:28]。つまり、「自分らしさ」が十分に確保できるのは「本音」を明かし合うことのできる情緒的人間関係(第1次関係)においてであるが、かといって、「自分らしさ」に鋭敏になった若者たちは、他者との距離は以前より必要と感じられるようになっているゆえに、「相手からの承認が必要だからといって、無防備になって距離を詰めればよいといわれても、それはおいそれとは採用できない」[芳賀 1999:28]というジレンマがある。このように「自分らしさ」にこだわればこだわるほど、「自分らしさ」が不確定になるというパラドックスが、そこにはみられる。
 芳賀は、このパラドックスを乗り越えようとするやり方の1つが、「内面の自分」と「行為する自分」の二重化を解消し、「本当の自分などどこにも存在しない」と「内面の自分」を否定して、たとえ、生活の多様な場面で振舞う自分の姿が一貫していなくても、その場その時で「行為する自分」のそれぞれ全てが「自分らしい」とするやり方だという。そして、こうした考え方の普及によって生み出された新しいコミュニケーション空間が「1.5次関係」であるという。そこでは、場や時をこえた情緒的な人間関係(第1次関係)とは異なる、場と時を限定された新しい情緒的人間関係が結ばれるのである[芳賀 1999:29-30]。このやり方は、浅野のいう〈選択的コミットメント〉にぴったり当てはまる。
 芳賀は、それとはもう1つのやり方を挙げている。それは、「本当の自分探し」というやり方である。芳賀も、浅野と同じように、「本当の自分」など存在しないという考え方が広まりつつあるが、その一方で、そのように希薄化した「本当の自分」を、現状の生活の外に、まだ実現していない可能性としての「本当の自分」を探し求めて埋めようとするようとする考え方も若者のあいだで強いとし、それは「内面の自分」という観念が徐々に消滅していく移行期ゆえのものだと示唆している。つまり、芳賀も、「本当の自分」を否定したうえでの「状況に応じたロールプレイ」というポストモダン的戦術を基本的には肯定しているといえよう。


4.「キャラ」的人間関係とポストモダニズム批判

 1990年代後半の浅野と芳賀の議論*2は、基本的には、固定化されたアイデンティティの否定と、断片化され浮遊する多元的な自己の肯定という、1980年代のポストモダニズムの議論の延長線上にあるといっていい。しかし、2000年代になり、新資本主義ないしネオ・リベラリズム時代における社会そのものの液状化や不安定さがあらわになってくると、〈選択的コミットメント〉や「状況に応じたロールプレイ」による自己の不安定さが批判の対象になってくる。前節で紹介した土井隆義や森真一の議論においては、事実の認識や「自分らしさ」の追求による問題点の認識の点では、浅野や芳賀と共通しているが、そこから生じてきた自己の断片化や多元化そのものが問題視されるようになったのである。
 土井は、その場その時の生理的感覚に依拠した「自分らしさ」は、その持続性と統合性を維持することが困難であり、自己意識が断片化し拡散していくために、「自分らしさ」そのものを見失っていくと述べている[土井 2004:33-34]。自己肯定感に持続的な安定性を見出すことが困難になった子どもたちは、この不確かな自己肯定感を支えるために、親密圏の身近な他者からの自己承認を絶えず与えてもらうことによってしか、安定的な自己を保つことができなくなっている[土井 2004:46]。そして、その自己承認の欲求が、友だち関係を異様に重いものにし、関係の安定性を担保してくれるものはもはや消失しているのに、無理してでもお互いに関係を保ちつづけなくてはならなくなっているという[土井 2004:47]。それが、その外の公共圏に対する配慮のなさと自閉につながっていくというわけである*3
 また、森真一も、〈選択的コミットメント〉や「1.5次関係での状況に応じたロールプレイ」を仲間内で行うことが、ウチとソトとの思いやりの大きな落差を生んでいると指摘していた。森は、状況に応じたロールプレイを「キャラ的人間関係」と呼んでいる。そして、現代の若者が編み出したこの「キャラ的人間関係」は、不安定になった仲間集団や家族の不安定さを解消するためのものだという。キャラクターの略語である「キャラ」とは、仲間集団内での役柄を指すもので、「ツッコミ役」とか「ツッコマレ役」、あるいは「見守り役」、「カワイイキャラ」「オチャラケキャラ」「クールキャラ」「キレるキャラ」などと呼ばれるものがあり、「キャラを立てる」「キャラが立つ」、「キャラがかぶる」といったように使う。
 森は、「キャラ的人間関係」を、「共同体が解体して、若者を外側から規制する規範が効力を失ったために、自分の力で集団内に居場所・ポジションを確保しなければならなくなった、そのために、若者はキャラを立て、キャラから外れる自分を消すための感情管理を行うのだ」という比較的肯定的な中西新太郎の説や、「自分の居場所とは、集団内でキャラがかぶらない場所のことだ、だからキャラがかぶる場合は、自分がそのキャラから降りて別のキャラを演じるのであり、ただそこにいるだけでは存在を認めてもらえない、そのため、集団全体のなかで、他者に認めてもらえるような意味のある居場所を探すという痛ましく、さびしいゲームが会社、学校、家庭で繰り返されている、キャラの配置・バランスから、自分の居場所を見つけるような人間関係のとり方は、気心の知れている人たちの間でこそ成り立つ、つまり、仲間内にコミュニケーションが閉じてしまっている」という、否定的な鷲田清一の説を引きながら説明している。そして、「キャラがかぶる」ことに対して若者たちが抱く恐れや不安感について、つぎのような女子学生のレポートを紹介している。「特に女の子は思うのかもしれませんがキャラかぶりは恐怖です。同じような人は2人いなくてもイイというか、同じような人2人で上下を決められてしかも下だったら恐怖といいますか、競争とかで人間関係がこじれるのを恐れてキャラ分けしてるのかもしれません。違うレーンを走ってたら勝負しなくていいですから」[森 2005:86-87]。
 この女子学生のレポートは、「キャラ」が「役割」と同じく、比較可能で代替可能なものであることを示している。森も、集団内のキャラは役割と似ているという。けれども、森は、キャラと役割は違うといっている。「役割とキャラが決定的に異なるのは、キャラ的人間関係がメンバー同士楽しく過ごすための役割分担・分業だという点です。仲間同士でいる場を盛り上げるための配役がキャラであると私は考えています」[森 2005:89]。決定的に異なるといっても、これでは目的が違うと言っているだけで、構造の違いはないことになる(したがって、楽しく過ごすことが目的の集団内の「役割」と言い換えられることになる)。しかし、キャラと役割とでは構造的にも異なっているように思われる。つまり、キャラと役割は両立しないくらいに異なっているのではないか。それは、若者たちが「役割」ということを理解していないという、土井の指摘にもつながる。
 土井は、NHKテレビの教育番組の中で、ある小学校の児童たちが「先生と私たちは平等なはずなのに、先生が私たちに指示したり、いばったりするのはおかしい」といった不満を口にしていたことについて、「社会的な成長のなかで形成されていくものとして自分の本質をとらえていないので、この世に生れ落ちたときから大人と対等な一人前の人間だと自分のことを思っているのでしょう」と述べて、「社会化による成長」というリアリティが欠如していると言っている。しかし、この子どもの言葉に見られるのは「役割」というものに含まれる「上下関係」の拒否ないし忌避ではないだろうか。その結果、土井もいうように、「昨今の教育現場では、かつて教師と生徒のあいだに成立していた役割演技の関係が成り立ちにくくなって」[土井 2004:28]いる。「かつての生徒たちが教師の言葉には従うべきだと感じていたのは、人間としての個人的な魅力を教師に感じていたからでは」なく、「教師という役割主体が、その演技として発した言葉だったから」であり、「教師の強制力は、彼に付された役割によって支えられていた」[土井 2004:29]。それは、会社で上司、課長や部長の指示にしたがうのと同じであり、それは何も教師や上司を尊敬しているからではなく、そのような役割だからである。
 若者たちは役割演技ができなくなっているわけではない。キャラを立てるといったキャラ的関係は、ロールプレイ(役割演技)によって成り立っている。しかし、キャラと役割の違いは、キャラ的人間関係には上下関係がないという点にある。リーダー的キャラも他の者と対等であって、一方的に指図したり自分の考えを押し付けたりすればその関係は壊れてしまう。「キャラがかぶる」ことを忌避するのは、先の女子学生のレポートにあったように、上下関係がそこに生まれてしまうからである。キャラ的人間関係は別のレーンを走っている対等なもの同士の関係であり、だから教師と生徒というような上下関係を含んでいる役割関係を忌避するのである。このように上下関係のない、上下関係になれば壊れてしまうような対等の関係のなかで、自分でキャラを立てたり降りたりしながら、関係を維持していくのはたしかに大変で、その関係は不安定なものになる。役割もまた、同じ相手との関係でも、場によって変えなくてはならない。パーティと教室とでは役割が異なるし、家族でも家族だけの食事と葬式の場とでは役割が異なり、ふるまいを変えなければならない。しかし、役割はそのつど制度的に決められている場合が多く、与えられたものであり、場や状況の違いさえ把握していれば、役割を変えたり演じたりすることはそれほど難しくない。それに対して、キャラの場合は自分でキャラを立てたり、替えたりしなくてはならない点で、よけいに気を遣うと言えるかもしれない。つまり、役割関係もまたその都度変更していかなければならないけれども安定しているのに対して、キャラ的関係はやはり不安定なのである。森は、「キャラ的人間関係」が「不安定さを解消するためのひとつの方法」と言っていたが、その不安定さ解消のためのやり方がまた不安定さを高めてしまうという逆説がここにも見られる。
 森は、土井と違って、このような「キャラ的人間関係」がただちに未熟で不完全な自己しか育てないと問題視しているわけではなく、その関係が一面的で、個人の目的のために集団を使い分けている点において、現代家族や仲間集団が利益集団化していることの証しとして「キャラ的人間関係」を持ち出している。ただし、森は、「けれども、第1次集団である家族や仲間集団から、個人の人格形成や人格の維持に対する重要性が消えてしまったわけではな」く、「そのような集団は、集団メンバーの結合を解体させる遠心力に対抗するために、求心力を強化しようとする」ために、自分の関心や「思いやり」が集団内に集中して、ウチとソトとの「思いやり」の落差を生むという「欠点」を指摘していおり[森 2005:110-111]、「キャラ的人間関係」に批判的にみえる。


5.「自分らしさ」から離れた「個のかけがえのなさ」へ

 さて、2〜4節で、社会学者による現代社会での「親密性の変容」についての議論を見てきた。この変容は、1980年代の高度消費社会時代からネオ・リベラリズムないしは新資本主義時代の社会変容と関連がある。物質的には飽和状態になったにもかかわらず、新しい商品を購入させつづけなければならない企業は、「自分をステップ・アップせよ」とか「いまの自分のままでいいのか」というメッセージを絶えず流していなければならない。消費社会では「個性」や「自分らしさ」は購入したモノによって表現されるが、個性神話や「自分らしさ」の価値も、自分の趣味や感覚といった移ろいやすい刹那的なものを基準にして際限なくモノを消費する/させるための価値観となっている。そして、モノを購入するように自由に「自分らしい生活」を選択できたとしても(モノと同じくお金がなければ自由に選択できないのだが)、メディアで流される他者の選択のほうがよく見えたりするし、モノの消費と同じように、その選択には「終わり」がなく、どこまでも満足は得られないということになる。つまり、消費社会における「自分らしさ」を表現するためのライフスタイルの「個人化」にはリスクがあるというわけだ。
 浅野は、空虚な記号となった「本当の自分」の空白を埋めるゲームのうちの第3のゲームとして、「モノを消費することによって自分らしさを演出するかたちで『本当の自分』に意味をもたらそうという試み」[浅野 1999:53]を挙げながら、「そのキャッチアップの過程が飽和状態に達すると、つぎの第4のゲーム[〈選択的コミットメント〉のゲーム]」へと移行すると言っていたが、消費社会はその飽和状態に達することを延々と先延ばしにするため、このゲームへの移行は、むしろ「自分らしさ」を表現しようとする消費ゲームのなかでかえって自分らしさを見失っていくことでなされるのだといえよう。そしてその移行は、浅野がいうような「これまで信じられてきたような『本当の自分』などありはしないのだということをはじめから認めてしまうこと、そしてそれを他者にたよって充填しようとする試みから降りてしまうこと」から始まるといったような移行ではなく、結局は「自分らしさ」を表現する試みから降りてしまい、「本当の自分」などないという否定は、現状の生活の外に、すなわちまだ実現していない「自分」を探し求める〈私探し〉のゲームへと移行する可能性のほうが高いのではないか。あるいは、社会の「液状化」による不安のなかでは、「本当の自分」のなさの不安定さに耐えられず、超越的な他者によって空白の自己を埋めるファンダメンタリズムパラノイア的なナショナリズムのゲーム(浅野のいう第2のゲーム)に移行するのではないだろうか。
 そして、浅野のいう〈選択的コミットメント〉が、ネオ・リベラリズム時代の新資本主義による労働力のフレキシブル化と「自己選択」「自己責任」という価値観に適応するためのスキルであることも、また見やすい。リチャード・セネット[1999]が指摘しているように、これまでは自由の獲得を意味していた、選択の多様さとフレキシブルな行動は、いまや新しい統制の形となっている。「融通のきく自己、断片的な人生のコラージュ、その間断ない転生」といったポストモダニズム的な価値観は、短期的な労働経験、フレキシブルな統制、継続的なリスク・テイク」といった新資本主義の労働の再編成に適った精神状態にほかならないのである[セネット 1999:189]。
 浅野ものちには、現代の若者たちのつながり方(すなわち、繊細な「やさしさ」による〈選択的コミットメント〉)について、いくつかの「欠点」もあると述べ、「容易に排除に反転することがある」、「つながりを維持することが若者たちにとって荷が重い仕事となっている」、「仲間内の過剰な敏感さが、その外にいる人びとに対する冷淡で無関心な態度の裏表になっている」、「関係が多元化しているというわりには、意外に狭く同質的である」、「ネオ・リベラリズム的な資本の再編成に適応するためのスキルにすぎない」といった批判を挙げている[浅野 2006:243-244]。
 しかし、浅野は、「だからといってその肯定的な側面も一緒に捨て去ってしまうのはあまりにも乱暴なやり方」だとし、「そもそもこのような敏感さとそれにもとづく社交スキルは、若者たちが好きで選んだものというよりは、与えられた状況を生き抜くために彼らが身につけざるをえなかったものというべきだろう。それを否定したとして、大人としてはそれにかわるどのような代案を提示できるというのだろうか。むしろその繊細さをより肯定的な方向へ展開しうるように支援することの方がはるかに実り多くはないだろうか」[浅野 2006:244]と述べている。けれども、「繊細さをより肯定的な方向へ展開する」というのは、その仲間内での繊細さこそが外部ないしは公共圏への冷淡さや無関心の原因だとする土井や森への反論にはならないだろう。
 もっとも、ここで若者たちのつながりの作り方がネオ・リベラリズムの資本の再編成に適ったものであるようにみえることを批判しようとしているのではない。浅野がいうように、それは「与えられた状況を生き抜くために彼らが身につけざるをえなかったもの」である。である以上、土井が暗に示唆するような、自律的個人の確立というモダンの価値を回復するといったものは代案にはなりえない。つまり、大事なのは、「繊細さをより肯定的な方向へ展開する」ことでも、「自律的な個人を確立する」ことでもない。「自分らしさ」や「個性」や「キャラ」といったボスとモダン的な価値も、自律的な個人といったモダン的な価値も(その両者は対立するように見えるけれども)、フレキシブルな自己として絶えず自律的に(すなわち他者との関係ぬきで)自己選択を行う一方で、自律的な個人としてその結果を自己責任として負うことのできる個人という、新資本主義に適った個人を形成するためのものでしかない。ポイントは、人びとが与えられた状況を生き抜くために行っている自己の多元化や断片化やフレキシブル化が、「超越的な他者による空虚な自己の充填」や「自分らしさや個性を追求することでかえって自己を見失う」ことにならないような、他者とつながりうる自己の継続的な起点を見出すことにあるだろう。その起点を確保することによって、一見してたんなる状況への適応やフレキシブルな統制構造の再生産にしかみえないものが、フレキシブルな統制の構造のただなかに自分のための隙間を空ける実践へとそのままつながることになるだろう。そして、その多元化・断片化されていながらも、安定した自己の起点となるのが、〈顔〉のある関係性において見出される「私のかけがえのなさ=代替不可能性」である。
 これまで取り上げてきたように、社会学者たちの優れた研究が、現在の若者の関係のあり方については共通の認識に達しながら、それについての解釈や判断が、「繊細さをより肯定的な方向へ展開する」というポストモダン的方向か、あるいは「自律的な個人を確立する」というモダン的方向かという二者択一の2つの方向へと分裂している理由は、ゲマインシャフトゲゼルシャフト、あるいは情緒的な全人格的関係と役割的関係との二元論という社会学的思考に囚われていることと、「個性」や「自分らしさ」ということと「自分のかけがえのなさ」や「個の代替不可能性」ということとを混同してしまっていることにあるのではないか。
 消費社会化と個人化が進んで、「自己選択」や「自己責任」や「個性」や「自分らしさ」や「自分探し」や「私探し」、「キャラ」、それに「かけがえのない私」や「オンリー・ワン」といった語が時代のキータームになっているけれども、それらは相互に関連しあいながらまったく異なった「自己」を表している。まず、それらの違いについて、それらと「役割」との関連をみながら、明らかにしておこう。そして、その過程で、共同体的関係としての情緒的関係と公共的関係としての役割的関係との社会学的な二元論を批判していきたい。
 「個性」や「キャラ」「自分らしさ」は、「私のかけがえのなさ」とはまったく違うものだ。「かけがえのなさ」とは、「個の代替不可能性」ないしは「個の比較不可能性」のことであるが、それは、「個性」や「自分らしさ」といった特徴や「キャラ」や「役割」などと無関係に成り立つものだからである。この区別を説明するには、柄谷行人[1994]による「単独性」と「特殊性」の区別が便利だろう。柄谷は、失恋した男(女)に「女(男)は他にいくらでもいるじゃないか」という慰め方は不当だという。「なぜなら、失恋した者はこの女(男)に失恋したのであって、それは代替不可能だから」[柄谷 1994: 14]であり、「この女(男)は、けっして女(男)という一般概念(集合)には属さない」からである。あるいは、幼い子を亡くした母親に、「代わりにまた産めばいいじゃないか」とか「もっとかわいい賢い子がまだいるじゃない」いうことが不当なのは、亡くした子が、他の子供では代替不可能な「かけがえのない」存在であり、それは「かわいい」とか「賢い」といった性質や特徴とは無関係になりたつ「比較不可能な〈個〉」だからである。この代替不可能で比較不可能な〈個〉を、柄谷行人は、「特殊性」と区別された「単独性」ということばで言い表している。
 それに対して、「特殊性」は、他との差異において成り立つもので、一般性による類のなかの比較可能な違いを表す。そして、「役割」や「キャラ」や「自分らしさ」は、他との差異において成り立つものであり、比較可能で代替可能なものである。たとえば、文化人類学の講義をする大学教員という役割は(近代の「労働者」という存在一般がそうであるように)代替可能である。交替するときに問題となるのは、よりましな教員かどうかという比較可能性であり、労働者の職務を典型とする機能的な役割とは、代替可能で比較可能なものとされている。また、家族における「家父長」(社会によっては「家母長」)や「父親」や「母親」や「夫」や「妻」や「長男」や「次女」、あるいは社会によっては「奉公人」や「居候」なども「役割」である。親族集団においても、「本家」や「分家」、直系や傍系、あるいは社会によっては互いに冗談を言い合わなければならない「交叉イトコ」や「母方オジ」といった親族関係なども「役割」であり、その限りにおいて代替可能なものである。あらゆる社会関係は、役割と役割のあいだの関係(役割連関)としてある。
 とりわけ、親族集団や家族が、近代家族のように職住分離がなされ「家業」をもたなくなる以前では、それらの第1次集団は経営体であり、会社におけるのと同じように、職務としての役割分業がそこにはあった。第1次関係としての家族が情緒的人間関係になったのは、家族が消費の場となり、愛情でしか求心力を作り出せない近代家族の成立移行のことである。
 そして、自分の役割は、社会関係に応じて多様に変化する。学生に対しては教師という役割を身につけなければならないけれども、家族に対しては夫や父親といった違った役割を身につけるし、職場の同僚と大学生時代の友人に対してはまたそれぞれ違った役割を演じるが、それらは近所の人に対して演じる役割とは違っている。私たちが日常的に行っている役割から役割への転換はめまぐるしく、しかもその役割は多様で、まったく異なっているため、別に若者たちの〈選択的コミットメント〉や「キャラ的人間関係」ではなくとも、自己の同一性や一貫性はどのようにできるのだろうかと思えるくらいである。
 実際、「個人化」が進行する近代以前の社会では、「内面の自分」の同一性や一貫性は必要なかっただろう。近代以前でも人びとは多様な役割を演じていたが、それらの役割は自分で選択するというより、関係や場が決めていたものであった。「生活の広範な文脈を共有する場」で生きることが多かった近代以前では、同一の関係においても場や状況が異なれば役割は異なっていることも多かった。そこでは、複数の自己が同一の関係にも散開していたのである。浅野智彦は、第1次関係における親密さが「深さ」の自明性をもっていたのは、「これまで親密な関係が取り結ばれる場が、主として家族、夫婦、恋人など生活の広範な文脈を共有する、その意味で包括的な関係の場にかぎられて」いて、「その内部で首尾よく生きていくためには、各人がどのような人間であるのか、自分にも他人にもはっきりとわかるような一貫した同一性をもつことが強く要求された」と書いていたが、それは共同体に対するオリエンタリズム的見方であり、そのような「生活の広範な文脈を共有する場」では、むしろ「一貫した同一性をもつこと」など必要とされなかったのである。
 「一貫した同一性をもつこと」は「個人化」の進行とともに始まったというべきだろう。個人化によって、それらの多様な役割は自分で選択するものと感じられるようになり、それを選択する主体の一貫した同一性というものが生じてくる。けれども、その選択した役割は、近代前期においては、それぞれの社会関係において1度身につければ安定しつづけるようなものであった。他者との社会関係のなかで身につけた個々の役割が安定していることによって、そこには、自分の担うさまざまな役割の「束」を統括する自我というものを感じることができた。
 しかし、「個人化」がラッシュのいう非線形的な個人化となり、社会自体が液状化した現代では、ある社会関係における役割を身につけても、それが安定することはなく、さまざまな役割の束が「自己」を作っているという感覚自体がもてなくなってきている。つまり、それは「束」にならないのだ。その結果、「自己」は具体的な社会関係や役割と無関係の「私はワタシ」というものとなる。そうなると、それは「個性」としか言いようのないものとして感じられるようになる。いいかえれば、「個性神話」は、非線形的な個人化によって生じるのである。
 もちろん、この「個性」や「自分らしさ」は、「キャラ」がそうであるように、代替可能で比較可能なものだ。「かけがえのない私」という感覚は、それらの代替可能な「キャラ」や「個性」を超えたところに成立する。そして、個の代替可能性が恋人や親子関係を典型とする親密な関係において現れていたように、〈顔〉のある関係ぬきには成立しないものである。重要なことは、この個の代替不可能性(「かけがえのなさ」)を生じさせる〈顔〉のある関係は、役割関係においても作られていくということである。たとえば、教員と学生という役割関係において、教員としての私は自分の教えている学生の顔を知ってはいるけれども、教員という役割をはたしている限りにおいて、そこに〈顔〉のある関係はない。学生の〈顔〉は見ていないのだ。しかし、そのうち学生のうちの何人かとは教員という役割を超えた、〈顔〉のある関係となることがある。学生だからここまで職務としてつきあえばいいという範囲をはみ出した関係の過剰性とでも呼ぶべきつきあいが生じるわけである。これは、学生と教員とのあいだに限られるわけではない。馴染みとなったある店の店員とのあいだに、顧客と店員という役割関係を超えた、〈顔〉のある関係がつくられることもあるだろう。このように、生活の場における〈顔〉のある関係性は、つねに機能的な役割連関の関係性以上のものである(〈顔〉とはそもそも「関係の過剰性」のことである)。
 また、近代の固定化された組織における代替可能な「役割」や、流動的であるが同じく代替可能な「キャラ」による関係が、一義的・単数的なものであるのに対して、〈顔〉のある関係性においては、同じ相手がさまざまな関係に応じて複数の機能やキャラを担っていて、日常生活の場ではそれらが錯綜している。たとえば、かつての共同体においても、同じ親族でも、農作業をするときの役割と山仕事をするときの役割、祭りのときの役割はみんな異なっていた。そのような、いわば「関係の複数性」は、現代の身近な〈顔〉のある関係でも見られる。ただ、それが意識されていないために、ちがった自分の「キャラ」を立てるためには仲間集団などの中間集団を変えなければならないと思い込んでいるのではないか(逆にいえば現代社会では帰属する集団を変更したほうがてっとりばやいということでもあるが)。
 そのような〈顔〉のある関係の「関係の過剰性」ないし「関係の複数性」において、個の代替不可能性やかけがえのなさというものが実感できるようになる*4社会学者は、親密圏と公共圏との関係性の違いを、ホンネを明かし合える情緒的人間関係とホンネを隠す役割的人間関係との違いとするが、その違いは、この役割関係を超えた「関係性の過剰性」があるかないかにあるというべきだろう。
 そして、もし「本物の自分」というものが感じられるとしたら、それもまた、この「関係の過剰性」においてであろう。そのつながりは確かにわずらわしいものであるが、それは「ホンネを明かし合える全人格的関係」といったものではまったくない(そんな関係はありえないし、あったとしてもそのような「役割」を演じているだけにすぎないだろう)。また、そのわずらわしさは、自分が期待した役割を相手がはたさないことからくる、役割関係にともなうリスクとも関係がないし、あるいは、その関係から離脱が容易でないことからくるストレスとも違っている。それは、相手が自分にとって「かけがえのなさ」をもつがゆえにその〈声〉を聴き取り、自分とは異なっているその思考に寄り添わなければならないという「わずらわしさ」である。そして、その「かえがえのなさ」にしか「私のかけがえのなさ」もまた実感できないというわずらわしさなのである。
 さらに重要なのは、個の代替不可能性ないしは「かけがえのなさ」を基盤にした関係は、「社会的なもの」であるということだ。それは、個の代替不可能性には根源的な偶然性が含まれているからである。哲学者のアルフォンソ・リンギスは、そのことをつぎのように言い表している。

 きみはリーノーの病院で生まれた、きみはリオ郊外の名もないスラム街のある汚い小屋のなかで生まれた。きみの存在は、いかにかけがえのないものだろうか! 偶然にある女とある男が出会い――地球の25億の男のなかから、偶然にその男と出会い、思いもかけず男は女を気に入り女は男を気に入り、2人は服を脱いで交接し、そしてヴァギナのなかへと繰り返し射出される精子のなかから、ひとつが偶然にこの卵子と出会い、そのなかに吸収されたのだ。100万の偶然の出会いが作り上げる人生行路の曲がり角を、どこか少しでも違ったふうに曲がっていれば、生まれたのはきみではなく誰か別の人物だっただろう。[リンギス 2004:167]

 このような根源的な偶然性こそ、「私のかけがえのなさ」(個の代替不可能性)の基層にあると同時に、東浩紀大澤真幸がいうように、社会的なもの条件でもある。すなわち、自分が他者でもあったかもしれないと感じることこそ、社会的連帯や共感を支えるものだからである[東/大澤 2003]*5。逆に言えば、非線形的な「個人化」によって生じる「私のワタシ」というループの閉塞を破って私を散開させるものこそ、個の代替不可能性、すなわち「かけがえのない私」という実感なのである*6


6.おわりに

 はじめにのところで、ネオ・リベラリズムでは、個人の自己責任とともにナショナリズムや家族の価値を同時に強調するということを指摘した。個人の自己責任の強調は「個人化」にともなうものである。にある。よく指摘されるのは、「個人化」と「グローバル化」とが進展したため、社会の固定された価値という基盤が「液状化」してなくなり、その「不安」がナショナリズムの強化を生んでいるというものだ。しかし、そのような説明は、「個人化」による不安とネオ・リベラリズムナショナリズムの結びつきを説明してはくれるが、「個人化」が直接にナショナリズムと結びついていることを説明し切れていない。つまり、現代のナショナリズムは、集団主義的なナショナリズムというより、個人の価値を絶対視する「個人化」によるナショナリズムだという点を捉えきれていないため、ネオ・リベラリズム時代のナショナリズムを、グローバル化や社会の液状化による不安からくる、集団主義ナショナリズムへの回帰という「反動」と捉えてしまっている。そして、その捉え方に含まれる、グローバル化と新資本主義それ自体が国家を解体していくのだから、ナショナリズムの強化は一時的な反動に終わり、いずれ消えていくという見通しは、現実によってすでに裏切られているだろう。
 それは、3節で取り上げた、浅井智彦の、「本当の自分」の空白を補填する4つのゲームの推移についての見通しと似ている。浅井のいう4つのゲームのうちの第2の「ファンダメンタリズムのゲーム」が、ネオ・リベラリズム時代におけるナショナリズムと宗教回帰の現象に当たるものといえよう。そこでは、「この4つのゲームが複雑な相互作用のなかに存在」していて、第4の「ポストモダニズムのゲーム」から第2の「ファンダメンタリズムのゲーム」への逆行もみられると指摘されてはいたが、それは過渡期の現象であって、全体的には第4のゲームへと推移していくということが示唆されていた。しかし、その見通しも、第1のゲームのなかの「家族主義のゲーム」と、第2の「ファンダメンタリズムのゲーム」のなかの「ナショナリズムのゲーム」と、第3の「消費社会のゲーム」とを組み合わせた上で、第4の「ポストモダニズムのゲーム」も、労働のフレキシブル化によって自己責任と結び付けた上で取り入れたネオ・リベラリズムの価値規範が広まるという現実に裏切られているといえるだろう。
 そして、ネオ・リベラリズム時代のナショナリズムを過渡期の反動とする捉え方は、「個人化」とナショナリズムの結びつきが、ネイションの創造=想像の仕方にすでに含まれていたということを見落としている。ベネディクト・アンダーソンは、ネイションを「想像された共同体」と呼んだが、しかし、ネイションの特徴が顔を合わせる直接的な関係の範囲を越えている(アンダーソンはそのことを「想像された」という言葉で表している)ことにあると言っているのではない。そのような意味ならば、アンダーソンもいうように、ある程度の規模をもつ共同体は、ネイションに限らず部族や氏族や村落共同体も含めて、多かれ少なかれ想像されたものである。アンダーソンは、「実際には、日々顔付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される」[アンダーソン 1997: 25]と述べている。重要なのは、ネイションとネイション以前の共同体の想像のスタイルの違いなのであり、ネイション以前の想像の共同体が「個々それぞれ独自に、無限定に伸縮自在な親族関係や主従関係のネットワークとして想像された」のに対して、ネイションは、そのような具体的な関係のネットワークなしに無媒介にネイション全体と個人とを結びつけるような想像のスタイルによって創られているということなのである。
 このように個々の具体的な関係のネットワークという媒介なしに想像される共同体というものは、実は、近代の「個人化」と方向が同じである。つまり、周囲の人々との顔のある関係なしにネイションと無媒介に結び付けられる想像のスタイルは、個人化と軌を一にしているのである。そして、それは、周囲の人々との顔のある関係の価値を低下していくものであって、個が浮遊しながら周囲との関係といった「しがらみ」から自由に自己決定していく営みと、ナショナリズムとは矛盾するどころか親和性があるのである。
 その「自由」の代償が、そのような顔のある関係から生じる「個のかけがえのなさ」を否定しまうこと、そして、自分という個が結びつく全体であるネイションを排他的なものにしてしまうことなのである。現代社会の「個人化」は、一方では共同体のしがらみからの「自由」を意味していたが、その自由の価値は、共同体というものを情緒的で全人格的関係からなっているとする、オリエンタリズム的な二元論によって支えられたものだった。そして、「個人化」は、他方では、個の代替不可能性と根源的な偶然性を否定し、それゆえに、「私のかけがえのなさ」と「他者との連帯・共感」を犠牲にしてきた。
 そのようなリベラリズムの自由への解放の物語が、新資本主義によるポストモダニズムの体制化とともに、色あせてきた現代にあって、リベラリズムは、ネオ・リベラリズムとともに体制内で「個人化」を推し進めるものとなりつつある。ポストモダニズムが固定化された近代を資本主義の力によって解体しようとしていたものであったのに対して、それは、国家権力によってシステムを改革しようというものとなっている。もちろん、リベラリズムが否定してきた共同体なるものの価値を声高に唱えるようなコミュニタリアニズム共同体主義)も、そこでの共同体なるものがオリエンタリズムによって創られたものである以上、オリエンタリズム的二元論を逆転させたものでしかなく、ファンダメンタリズム的なナショナリズムを、ネオ・リベラリズムとともに推し進めるものでしかないだろう。
 私たちが「若者たちにおける親密圏の変容」という問題を考察してきて見えてきたのは、1980年代以降のリベラリズムコミュニタリアニズムポストモダニズムという対立が、ほとんど意味をなさなくなってきている現代社会のあり方であった。そのことは、もはやシステムを設計しなおして問題を解決しようという「設計主義」が限界を露呈していることを意味する。
 そこにあって、「私のかけがえのなさ」(個の代替不可能性と根源的な偶然性)を肯定するようなゲームはどのようなものなのか。そして、実際に人びとが意識しないで行っているそのようなゲームをいかにして記述するのか。そのためにこそ、文化人類学的な民族誌的研究が必要となるだろう。


文献表

浅野智彦
 1999 「親密性の新しい形へ」富田英典・藤村正之編『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣、41-57頁。
 2006 「若者の現在」浅野智彦編『検証・若者の変貌』勁草書房、233-260頁。

アンダーソン、ベネディクト
 1997 『増補版 想像の共同体』白石さや・白石隆訳、NTT出版

柄谷行人
 1994 『探究 ?』講談社(学術文庫版)

川本三郎
 1988 『都市の感受性』筑摩書房ちくま文庫版)

セネット、リチャード
 1999 『それでも新資本主義についていくか』斎藤秀正訳、ダイヤモンド社

土井隆義
 2003 『〈非行少年〉の消滅――個性神話と少年犯罪』信山社
 2004 『「個性」を煽られる子どもたち――親密圏の変容を考える』岩波書店

バウマン、ジークムント
 2001 『リキッド・モダニティ――液状化する社会』森田典正訳、大月書店

芳賀 学
 1999 「自分らしさのパラドックス」富田英典・藤村正之編『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣、19-34頁。

ベック、ウルリッヒ
 1998 『危険社会――新しい近代の道』東廉/伊藤美登里訳、法政大学出版局

森 真一
 2005 『日本はなぜ諍いの多い国になったのか――「マナー神経症」の時代』中央公論新社

Lash, Scott
 2001 Foreword: Individualization in a Non-Linear Mode. In U. Beck and E. Beck-Gernsheim Individualization, Sage.

*1:たとえば、森は、人類学者の中根千枝の『タテ社会の人間関係』から次のような一節を引用している。「『ウチ』『ヨソ』の意識が強く、この感覚が尖鋭化してくると、まるで「ウチ」の者以外は人間でなくなってしまうと思われるほどの極端な人間関係のコントラストが、同じ社会に見られるようになる。知らない人だったら、つきとばして席を獲得したその同じ人が、親しい知人(特に職場で自分より上の)に対しては、自分がどんなに疲れていても席を譲るといった滑稽な姿が見られるのである」。

*2:出版年は1999年であるが、書かれたのは1995年だという[浅野 1999:55]。

*3:浅野智彦も、2006年には、若者たちのつながり方について、手放しで喜ぶことはできないし、いくつかの「欠点」もあると述べ、「容易に排除に反転することがある」、「つながりを維持することが若者たちにとって荷が重い仕事となっている」、「仲間内の過剰な敏感さが、その外にいる人びとに対する冷淡で無関心な態度の裏表になっている」、「関係が多元化しているというわりには、意外に狭く同質的である」、「ネオ・リベラリズム的な資本の再編成に適応するためのスキルにすぎない」といった批判を挙げている[浅野 2006:243-244]。しかし、「だからといってその肯定的な側面も一緒に捨て去ってしまうのはあまりにも乱暴なやり方」だとし、「そもそもこのような敏感さとそれにもとづく社交スキルは、若者たちが好きで選んだものというよりは、与えられた情況を生き抜くために彼らが身につけざるをえなかったものというべきだろう。それを否定したとして、大人としてはそれにかわるどのような代案を提示できるというのだろうか。むしろその繊細さをより肯定的な方向へ展開しうるように支援することの方がはるかに実り多くはないだろうか」[浅野 2006:244]と述べている。また、「多元化した自己は断片的であるがゆえに未熟で不完全だ」という土井らの議論に対しては、衝撃的に行われるような犯罪やネット心中などにおいてはこういった議論が説得力をもつかもしれないが、その一方で、たとえばネット心中を思いとどまらせようとする匿名の「善意」も多くあると述べて、「このような事情を考慮に入れるなら、断片的であることは、衝撃的であったり思慮に欠けたりするということを即座には意味しない」[浅野 2006:255]という。私は、自文化中心主義的な態度で異文化としての若者たちを批判することなく、他者の思考や行為や判断に寄り添って理解していくという浅野の立場に共感する(これは文化人類学にとって基本的な態度だろう)、「繊細さをより肯定的な方向へ展開する」というのは、その繊細さこそが外部ないしは公共圏への冷淡さや無関心の原因だとする土井や森への反論にはならないだろうし、また真剣な「善意」は「未熟さ」や「思慮のなさ」と両立するのだから、その「善意」の存在をしめしたところで、これまた反論にならないだろう。

*4: 柄谷行人は、単独性を他との関係を一切断ち切って孤立したものではなく、「他なるものを根本的に前提にし他なるものとの関係において見出される」としているが、その関係性は、「共同体的なもの」とは鋭く対立するもので、共同体のあいだで行なわれる売買(市場交換)をモデルにした「交通」による「社会的なもの」と述べている。ここでも、19世紀の社会/共同体の図式に基づきながら共同体的なもの(それは現実の共同体ではなく、オリエンタリズム的二元論によって創出された共同体である)を嫌悪するあまりに、資本主義のもつ秩序の解体の力を信奉するポストモダン思想の特徴が現われているといえよう。けれども、換喩/隠喩的想像によって創られる共同体における関係性は、けっして柄谷氏がいうような予定調和的な一義的ものではない。それは、自己の一部である「譲渡不可能なもの」を譲渡する一種の賭けとしての贈与によって創られる「社会的なもの」である。そして、重要なのは、そのように創られる関係性は、共同体の「外部」にある単独性の関係にも、あるいは機能的な役割連関にも還元されない「過剰」なものであるということなのである。

*5:このような根源的な偶然性を、東浩紀は「交換可能性」と呼び、大澤真幸は「根源的偶有性」と呼んでいる[東/大澤 2003:74-83]。

*6:近代の線形的な「個人化」も現代の非線形的な「個人化」も、個の代替不可能性や根源的な偶然性を否定したところで成り立つのである。