セザンヌと『知られざる傑作』(I) 佐野栄一

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 『知られざる傑作』は、17世紀の架空の天才画家、フレンホーフェルの、栄光と挫折を物語ったバルザックの小説である。物語には、フレンホーフェルのほかに、肖像画家として知られるポルビュスとまだうら若き後の古典主義絵画の巨匠プーサンが登場し、狂言回しを務める。この小説は、架空の物語の中に実在の人物が配されるという、バルザック一流の手法によって書かれている。
 「『人間喜劇』の総序」によるなら、バルザックは「風俗の歴史家*1」を自認する。彼は、単なる「事実の目録*2にすぎない死せる歴史を書く歴史家ではなく、虚構によって真実の生きた歴史を描出する歴史家を自認するのである。もちろん、『知られざる傑作』は「哲学研究」に分類されるもので、社会的真実を描こうという意図とは別の意図に従っている。しかし、範躊を異にするとはいえ、バルザックがここでもやはり虚構を通して「真実」を追求していることに変わりはない。
 この小説は17世紀の歴史的事実とはまったく無縁である。ただ、舞台を現代ではなく遠い過去にとっていることには深い意味かおる。というのも、それは、200年も昔の話でありながらバルザックの19世紀においても、また今日においても、フレンホーフェルの問題が微塵も古びていないことを強く読者に印象付けるからである。むしろ、はるかな過去の驚くべき物語であるがゆえにいっそう、ここには芸術における本質的な普遍的な問題が存在していることを、バルザックはわれわれに感得させる。
 『知られざる傑作』は、数々の大長編で知られる『人間喜劇』の中にあって、たかがか岩波文庫にして50ページにも満たない。だが、このようなテーマの奥行きと深さとによって、芸術創造の問題に関わる者をあるいはそれに関心を抱く者を、しばしば果てない思索へと誘っている。
 たとえば、そうした画家の1人として、ウィレム・デ・クーニングが知られている。代表作とされる『女』と題する6点の具象と抽象の入り混じった作品を制作中、クーニングの念頭には常にフレンホーフェルの問題があったという。
 また、ピカソにおいても同様であった。ピカソは、おそらく、クーニング以上に、フレンホーフェルと長く深い交渉を持った。
 そして、彼らよりずっと早く、セザンヌがいたのである。

 様々な画家の心に共鳴音を響かせる『知られざる傑作』が奏でるテーマとは何なのか、その問題の核心に向かって可能な限り接近しようと試みる前に、この読書体験が画家にどれはどの重みを持ち得るか、まずはピカソの場合を見てみたい。


ピカソとヴォラールと『知られざる傑作』

 ピカソと『知られざる傑作』との関わりは、ピカソが彼の画商アンブロワーズ・ヴォラールから、この作品のための12枚のエッチングと木版による挿絵の依頼を受けたことに始まるらしい。ヴォラールは、彼がまだ駆け出しの画商だった頃、一般に支持よりもむしろ悪評の多かった売れない画家セザンヌを、あえて大々的に売り出すという一種の賭けに出て、見事にその目論見を成功させた。この勝利は、未開地を開拓した画商にとっても、新世界を明かした画家にとっても、後の人生を決定付ける重大なものであった。おそらく、このような因縁からであろう、ヴォラールは、1927年、亡きセザンヌにとって特別な作品であった『知られざる傑作』の挿絵本の出版を思い立ったのだった。
 とはいっても、ヴォラールが『知られざる傑作』によって初めて挿絵本の出版に手を染めたわけではなかった。彼は、既に、ボナール、モーリス・ドゥニ、ルドン、シャガール等による、幾種類もの挿絵本を刊行していた。ヴォラールの著書によれば、彼に出版事業の夢がきざしたのは、セーヌ河岸の古本屋の屋台で、ふと同名の版元を発見したときで、この夢が止むに止まれぬほど強くなったのは、国立印刷所でフランソワ?世時代の美しい活字による印刷物を見てからであったという*3。だが、いかに美しい活字を見たとしても、また、それを凌ぐほどの活字を新たに鋳造できたとしても、ヴォラールには初めから、単なる活版印刷本の版元になるうという意思はつゆほどもなかったろう。彼が刊行しようと思い立った本は、これまでなかった、謂わば音楽の代わりに美術が文学的テーマを奏でるような、あるいは視覚によって文学的テーマが全く独創的なやり方で変奏されるような、美術書の如き文学書であった。そのために、彼は、最初のヴェルレーヌ詩集の出版時から、芸術の最前線に身をおく第1級の画家に挿絵を描かせた。ところが、その芸術性は、高価な挿絵本を好んで購入する愛書家たちにまったく理解されず、商業的には不振であった。そこで、ヴォラールは、ともかく愛書家たちに本を買ってもらって出版の帳尻を合わせるため、たとえば最初2回続けたボナールのリトグラフをやめ、より好まれそうなモーリス・ドゥニの木版に挿絵を加える、といった妥協を行っている。だが、その結果は芳しくなかった。愛書家が歓迎していたのはともかく一目見て分かる「仕上げのいい*4」細密な銅版画か木版画であり、虫眼鏡で細部を見るようなものほど価値があったのである。そこで、ヴォラールは、ついには、独創的な絵を極めて細密な銅版画にするアルマン・セガンに仕事を依頼する、という試みをするまでに至っている。にもかかわらず、そうした試みは、結局ことごとく失敗に終わった。最終的に彼が認めせざるを得なかったことは、現代美術は愛書家の蒐集欲を全く刺激しないということであった。いや、それどころか、その挿絵が前衛的であればあるほど、芸術的独立性が高ければ高いほど、愛書家は拒否反応を示すということであった。しかしながら、ヴォラールには、絵画を物語の説明のために使うことは、断然拒絶すべきことであった。もしそうするなら、自ら版元になる意味がなくなるだろう。彼は、終始様々な妥協を図りつつも、あくまで絵画と文学とを独立したものとして、まったく等価で、しかも互いに協奏しあうものとして、挿絵本を世に出そうとしたのである。
 したがって、1927年あえて『知られざる傑作』の挿絵を、とりわけ「愛書家を困惑させる*5ピカソに依頼したということは、短期的には商売を忘れるということであっただろう。ピカソは、当時、激動する芸術潮流の中心的位置にあり、すでに「青の時代」「薔薇色の時代」の絵画*6は高値で取引されるに至っていたが、それでも一般には次々にスタイルを変える不可解な画家であり、その革新性ゆえに、ことにキュビスムに入ってからは、必ずしも多くの理解を得てはいなかった。ヴォラールは、その著書を読めば分かることだが、あたかも芸術は商売の道具にすぎず、肝心なのは徹頭徹尾商売人であることだ、と振舞う画商である。実際、芸術に対する感傷を、彼は一言半句も口にしない。にもかかわらず、ヴォラールにとって、おそらく、『知られざる傑作』はピカソでなければならなかったのである。この挿絵を描くべき人間は、セザンヌと同じく、絵画における絶対の探求者でなければならなかったのである。彼は言う、「ピカソの新しい作品はどれも、人々の眉をひそませているが、いつかは驚きが讃嘆に変わる日が来る*7」。彼の挿絵本に関連して述べたこのピカソの芸術に対する信頼と自らの眼への自信こそは、ヴォラールを支えていたものに他ならない。
 後に、ヴォラールは、愛書家に全く評価されなかった自分の挿絵本が、いずれも巨額で取引されるに至っていることを嗤っている。彼は、大衆とはそういうものであり新しい芸術がたどる運命とはそういうものだ、ということを、誰よりも分かっていたはずである。なぜならヴォラールの画商としての成功の秘密は、まさにそれを逆手に取るということに他ならなかったからだ。であるとすれば、当時、ヴォラールほど、ピカソを冷静に見、正しく理解し、その将来の商業的可能性を予測していた人物もなかったろう。彼には、画商として、ピカソセザンヌが重なって見えていたにちがいなく、また、芸術を鑑別する者として、2人をつなぐ芸術的紐帯が誰よりも明瞭に見えていたにちがいない。
 このようなヴォラールの芸術家に対する職業的嗅覚は、実に確かであったといいうる。ピカソは、後年自分の唯一の師はセザンヌであると公言するようになるばかりか、このときヴォラールの期待どおり、バルザックの小説に強烈に惹きつけられた。彼はセザンヌ同様、フレンホーフェルの中に自分を見、その制作途上ばかりか1931年挿絵本が上梓した後も、フレンホーフェルと『知られざる傑作』 への想いを長く持ち続けた。ピカソは、このテーマから受け取った刺激をもとに、画家とモデルの関係を、たとえば彫刻家とモデルの関係など、様々にシチュエーションを変化させながら、実在から美を抽象する問題を追究し続けた。こうして、今日、この小説に触発されて描かれた100枚以上ものデッサンが残され、さらに、作者へのオマージュとして、私の手許にある複製画像の数だけでも10枚のペン画によるバルザックの肖像が残されている。

 ピカソと『知られざる傑作』との関わりはまだ続く。ピカソは、1937年から55年までの18年間、パリのセーヌ河岸に近いグラン・ゾーギュスタン街7番地に居住した。彼がこの住所を特に選んでアトリエを構えたのかどうか、事実は詳らかでない。しかし、そこはまさにこの作品の舞台であった。

「1612年も暮近く、12月のある寒い日の午前、見たところひどくみすぼらしい身なりの若い男が、パリのグラン・ゾーギュスタン街の、ある家の門口の前を行きつ戻りつしていた。」


こういう書き出しで、『知られざる傑作』は始まっているのである。常識的に考えて、彼が住所とした場所とフレンホーフェルが住んだ場所とが重なったのは、単なる偶然によるものであろう。だが、ピカソがそれに気づき*8、200年余り前フレンホーフェルがただ1枚の絶対絵画に取り組んでいたと同じ場所で自分は制作している、と、あたかも虚構の事実を自分の身に起こった歴史的偶発事のように感じたことは、なんら偶然ではない。それは、ピカソという画家の芸術的性格を説明する1つの逸話となりうるだろう。


ヴォラールとセザンヌ

 ヴォラールが画商になったのは、1890年、24歳のときであった*9。独立する前、彼はしばらく画家アルフォンス・デュマが副業で経営する画廊*10で働いたが、絵画観の相違から一緒に働けなくなり、モンマルトルに新たに屋根裏部屋を借りて、そこを住まい兼店舗としたという*11。だが、屋根裏部屋では、およそ客がふらりと訪問するということなどなく、もっぱら収集家の情報を頼りに作品を携えて飛び込みで訪問し販売していたらしい。彼は、インド洋に浮かぶフランスの海外領土レユニオン島の公証人の息子であり、しかもついこの間までパリ大学の法学生であった。島にいる両親は中流だったが、彼の下に9人の兄弟がおり、支援が期待できるはずはなかった。したがって、ヴォラールには、名のある芸術家の作品はもちろんのこと、当時ようやく売れ始めたばかりの前衛芸術であった印象派の絵画でも、油彩を中心に商うだけの資力はなかった。そのため、彼は、フォラン、ドガ、ロップス等の版画やデッサンなど、小品の取引をもっぱら行って、それによってわずかな儲けを得、それを少しずつ蓄えていった。
 ヴォラールが初めてセザンヌの絵画を目にしたのは、そのような小さな商売をしていた1892年のことであった*12。まだ独立してから2年目であり、意欲だけは横溢した弱冠26歳の青年のときであった。一方、セザンヌは、その頃「総合の時代*13」と呼ばれる晩年の画業に入っていた。長い試行錯誤の末に、ようやく円熟期を迎え、セザンヌの本領というべき独創的な色彩と筆触と構成とを発揮した斬新な絵を描くようになっていた。ところが、パリではその頃、彼と画家仲間との交渉が極めて希薄になり、絵が認められ始めるのとは反対に、その存在が忘れ去られ、伝説化し始めていた。
 振り返れば、セザンヌがパリに出てきたのは1962年11月の、印象派の草創期が始まるうとする時代であった。当初、彼は、ピサロやモネやルノワールなど、画塾で親しくなった友人たちが、マネから強い刺激を受けながら、野心的な明るい絵を描き始めたのに対し、やたら厚塗りの暗いロマン的な絵を描くまったく取るに足りない存在であった。彼は、むしろ画家としてよりも、ジャーナリズムで華々しい活躍を始めたゾラの、幼なじみで最も親しい友、ということで重きを成していたのかもしれない。周知のように、セザンヌが画家としての最初の変貌を遂げ始めるのは、1873年ピサロに誘われて、彼の一家が住むポントワーズで、一緒に戸外制作を行ってからのことである。それまでのことについて、彼は、アンリ・ガスケに、「君も知っているように、戦争(1870年の普仏戦争──筆者)までは、うんざりすることだらけの暮しで、人生を無駄にしてしまった。レスタックに来てはじめてだよ、じっくり考えなから、ピサロのことがよく理解できたときからだよ…、ピサロは君の息子も知ってる、私と同じ絵描きなんだ*14。」

と語り、エミール・ベルナールには、

「40になるまで、私はボヘミアン生活をして、人生を無駄にした。仕事というものの味わいが自分に分かるようになったのは、そうした生活の後にピサロを知ってはじめてだった。彼は根気のいい男たった*15。」


と語っている。つまり、セザンヌが神話化される晩年の巨匠セザンヌに至る謂わば新生の第一歩を踏み出しだのに、73年という、まもなく印象主義がその山場を越えようとしている時期だったのである。さかのぼれば、マネの『草上の昼食』、『オランピア』の発表が1863年と65年であり、ゾラがレヴェンヌマン紙にマネを擁護し、サロンを痛烈に批判する記事を書いたは66年である。同年から、バティニョール街のカフェ・ゲルボワで、マネを中心とする印象主義者等の集まりが始まり、69年夏には、パリ郊外グルヌイエールにおいて印象派の技法に決定的な影響を与えるモネとルノワールの戸外制作がなさている。そして、普仏戦争でいったん印象派の画家たちが散り散りになった後、74年、「印象派」という名前の元になったモネの『印象、日の出』が発表される「画家、彫刻家、版画家等の共同出資会社による展覧会」、通称第1回印象派展がグラン・ブルヴァールのナダールのサロンで開催されている。このときは、セザンヌも『首吊りの家』、『オーヴェールの風景』、『現代のオランピア』の3点を出し、『首吊りの家』では、著名な現代絵画の収集家アルマン・ドリヤ伯爵の買い上げを受けるという多大な栄誉を手にしている。しかし、その絵はまだピサロ的な絵であって、セザンヌという特異な「気質(タンペラマン) *16」の画家の絵ではなかった。「何を隠そう、私も印象派だった。ピサロは私にものすごい影響を与えた*17。」と、当時の自分を振り返って、彼はジョワシャン・ガスケに語っている。セザンヌは、謂わば、印象派になって生まれ変わり、成長してセザンヌそのものの「気質」になって行くにつれて、徐々に印象派から離れ、まったく孤独な画業に入っていったのである。彼はその後、かつての仲間たちと共同で展覧会を開くこともなくなり*18、ひたすら敵意と憧れの両方を抱くサロンへの応募と落選とを繰り返した。そうしているうちにセザンヌは、一般にはその絵も名も知れない画家になっていったのだった。
 ジョン・リウォルドによれば、86年、ゾラが彼をモデルにした『制作』を刊行し、それによってセザンヌが生涯の友としていたゾラと密かに絶交するにいたったとき、パリでは誰もそのモデルがセザンヌだとは考えなかったという*19。大方の人間は小説の主人公クロード・ランティに亡きマネの一部が投影されているとのみ見ていたのだった。だが、パリの画壇からその存在が忘れ去られようとしていた頃、彼の作品を、行商もやるしがない画材商タンギーが、ゴッホゴーギャン等まだ当時売れない印象派の画家の作品と共に店頭のウインドに飾って、わずかな利幅で売っていた。タンギーセザンヌの絵を彼のかなりの金額に上る借財*20の代わりに貰い受けるか、あるいは預託されていたのである。画家以外に、タンギーの店まで足を運ぶ客は大変めずらしかったが、それでもまれに絵を買う客が来て、店頭に適当なものがなければ、彼はアトリエに案内することも、さらには客の予算が足らなければ絵をはさみで切って売ることもあったという。ヴォラールは書いている。

「もしセザンヌを求めて愛好家が現れると、タンギーは鍵を預かっていたセザンヌのアトリエに案内した。そこには、小さいものは40フラン、大きいものは100フラン、と値段が決められたいくつかの絵の山があって、中から自由に絵を選ぶことができた。そこにはまた、様々なテーマによる値打ちの低い習作の画布もあった。絵の選別はタンギーに任されていた。そこで、100フランはおろか40フランさえも払えない愛好家のためには、これらの絵の断片が供じられるのだ。すなわち、実際に目にし得た光景だが、貧乏などこかの文芸保護者が、3個のセザンヌの『リンゴ』を持ち帰るつもりで、20フラン金貨を彼に差し出すと、タンギーは、手にはさみを持って、小さな「モチーフ」を切り売りする、という次第なのである*21。」


 ところが、90年を過ぎた頃、セザンヌの絵は、見る目を備えた芸術家や評論家に強い印象を与えるようになっていった。それは多分、人々が印象派の絵に慣れ親しむことによってセザンヌの絵に対する違和感を失う一方で新しい芸術に対する感受性を著しく高めたからであり、かつ、セザンヌが、これまで眠っていた彼の審美上の気稟を徐々に制作の中で具現化していったためでもあったろう。早くから特異な彼の才能に注目し、盛んに彼の画業を称えていたピサロやモネやルノワールの言葉の意味が、この時期に至って多くの若い芸術家や芸術愛好家たちに新鮮な共感をもって明瞭に理解されるようになっていったのだった。こうして、若い画家や愛好家たちが、当時セザンヌの絵に唯一接することのできるタンギーの店にしばしば足を運ぶようになったのである。ところが、セザンヌのほうはそれとは逆に、パリには出るものの回数が減り、晩年になるにつれて世間から隔絶したエクスの田園やアトリエに孤独な深い根を下ろすようになていった。『セザンヌ讃』を描いたモーリス・ドゥニは、当時のパリのセザンヌを取り巻いていた状況がどのようなものであったか、次の様に証言している。

「エクス・アン・プロヴァンスの巨匠の生活のすべてが謎に包まれていたために、彼について取沙汰されることはますます不確かに思われてきていたが、その一方で名声のほうは、それを利して高まっていった。(……)彼を引き合いに出して云々する人々でさえも、大部分は彼を知らなかった。実は、これをしたためている私自身も、あえて言うなら、1890年頃タンギーの店に通い始めた時期には、セザンヌを神話上の一人物のように考えたり、もしかすると別の分野の探求を行っている芸術家の偽名かも知れぬと思ったりして、その存在を疑っていたのである*22。」


 まだ若かっかヴォラールも、そうした状況の中で、やはりピガールに近いクローゼル街のタンギーの店で、初めてセザンヌの諸作品に接したのだった。そしてそのとき、「ボディーブロウを受けたような*23」重い衝撃を受けた、と彼は語っている。けれども、画商であるヴォラールは、もちろん感動だけしていたのではあるまい。彼は、印象派の画家たちの感受性を尊敬していたから、彼らのセザンヌに対する賞賛を見て、これはいずれいい商売になるとの確信も抱いたはずである。少数の人々に認められ始めたばかりのセザンヌは、まだ信じられないほど安く、駆け出しの画商が冒険できる大いなる可能性を秘めていた。彼は、そのとき、セザンヌに夢を見、それを暖め始めたのである。
 セザンヌと初めて避遁した翌93年、ヴォラールは、3年間の商売で蓄えた資金と信用とノウハウによって、当時画廊街として有名だったラフィット通りに小さな店舗を借りた*24。慎ましながらも、早くも本格的な画商への転進であった。彼は、そこで、まずは手堅く、名声の確立したマネの、しかしまだ誰も手を伸ばしていなかったデッサン類の、展覧会を開催して成功させたのを皮切りに、ある程度買い手の確かな新しい画家たちの小品による展覧会をいくつか開催して商売の足固めを終えた。かくして、95年春から夏にかけて*25、ついに、ヴォラールは初めてのセザンヌ展を、もはや小品によるのではない油彩を中心とする本格的で大規模なセザンヌ展を、計画し奔走を始めるのである。
 この企画はセザンヌにとっても渡りに船だった。というのも、前年2月6日タンギーが没して、小さな画材店であったとはいえ特別な知名度を持っていた唯一の絵の発表場所を、彼は失ってしまっていたからであった。94年末に書かれたセザンヌオクターヴ・ミルボー宛の手紙の下書きが残されているが、そこで彼は、「誰か画商を私に紹介してください*26」と、文学者に悲痛な訴えかけを行っている。それゆえ、ヴォラールの企画は順調に進む要件がはじめから整っていたのである。ところが、実際には、事が円滑に運んだわけではなかった。肝心のセザンヌが捕まらないのである。ヴォラールは、パリと近郊、セザンヌがいると聞きつけるとそこに飛んで行くのだが、情報の伝わり方が遅すぎて捉えることができず、もぬけの殻をいくつか拾った後、結局分かったことは、セザンヌが既にエクスに帰ってしまったということであった*27。パリの画壇ではセザンヌはまったく孤独な存在だったのである。やむなくヴォラールは、時日が迫る中、セザンヌの息子ポールを捕まえ、手紙を書いてもらって本人の諒解と作品を送る約束をとりつけた。こうして、どうにかエクスから雑然と筒状に巻かれた作品を入手し、木枠と急拵えの安額縁を用意して開催まで漕ぎつけてみると、セザンヌ展は、1度では店舗に収まりきれないほど多数の作品を集めた大展覧会となった*28。それは、ヴォラール個人にとって画商としての運命を決定する展覧会となったと同時に、おそらく近代・現代絵画史にとっても画期的な意味を持つ展覧会となった。
 ヴォラールは、この個展の成功によってセザンヌのただ1人の画商となり、それが彼の商売の大黒柱となったばかりではない。彼は、この成功によって、図らずも芸術家と画商との新たな関係を創出し、芸術の歴史にその名を刻むことになった。この展覧会以後1939年の死に至るまで、ヴォラールが現代絵画に果した役割は、おそらくどのような芸術批評家よりも美術館よりも大きいであろう。彼の商売は、ひたすら、セザンヌに対するように、まだ認められていない新しい天才を見つけ出し、その芸術に賭けることの中にあったからである。
 また、絵画史にとってもこの個展は重要である。これによってより広く世間に知られるようになった彼の絵画は、新たな支持者たちを得て急速に評価を高めてゆくが*29、それにともない、ヴォラール画廊からは数々の様々なセザンヌがフランスばかりでなくヨーロッパやアメリカに拡散してゆくようになる。その結果、新しい芸術を模索する多くの画家たちの目がセザンヌの芸術と遭遇することになり、その出会いの中で、彼の絵画はまったく新しい美の力によって、あたかも強力な触媒のように作用し、20世紀の芸術運動に決定的な影響を及ぼすことになるからである。フォーヴィズムキュビスムもあらゆる抽象絵画も、当時セザンヌから栄養を受け取らなかったものはないのである。
 セザンヌの伝記作家アンリ・ぺリュショは、95年の展覧会の様子について、

セザンヌを最もよく知っており、しかも長年の間の努力の跡を見守ってきた人々にとってさえ、この展覧会は極度の驚異を惹き起こした*30。」


と説明している。この記述は、ピサロが息子に宛てた同年11月二21日付けの次の手紙を根拠としていると思われるが、この手紙からは、まさにペリュシヨが述べているように、セザンヌの旧知の人々にとってさえ、彼の画業の至りついた地点が驚嘆に満ちたものであったことが伝わってくる。旧友ピサロは書いている、

「(……)すばらしいものが並んでいる。(……)おもしろいことに、ずっと前からセザンヌについて感じているあの不思議な、面くらわせるような彼の一面のことを嘆賞していたら、そこヘルノワールがやってきた。私の熱中もルノワールの熱狂の前ではキリストの前のヨハネみたいだった。ドガでさえこの種の洗練された野人の魅力に引きこまれている。モネもそうだ……*31。」


 90年以前、タンギーが店頭でセザンヌを売っていた頃、先に見たように彼の1枚の絵の値段はせいぜい100フランであった。91年エミール・ペルナールが『今日の人々』でセザンヌを取り上げ、賞賛に満ちた論評によって以後絵の価値が上昇したとき、セザンヌの値段は、それでもまだ200フラン程度のものにすぎなかった。3年後の94年、タンギーの死によって彼の所蔵作品の売り立てが行われ、ヴォラールは5枚のセザンヌを手に入れ、その内の2枚の風景画を売っているが、その売値は人手額の約倍の400フランと450フランであった*32。そして、95年、このセザンヌ展において、展示作品中、最高額で売れた作品の価格は600フランであった。最安の水彩にいたっては僅か25フランで取引されている*33。もっとも、油彩画の600フランという値段は、タンギーが売っていた頃の6倍には上昇している。だが、それは、91年に既に年収10万フランを越えるにいたったモネと比較すれば、まだまだ三流作家の作品価格にすぎなかった。
 ところが、セザンヌ展から4年後の99年、アルマン・ドリア伯爵が死去して、彼の所蔵美術品の競売が行われたとき、セザンヌの『フォンテーヌブローの森の雪解け』は、モネによって6700フランで競り落とされた*34。その後、セザンヌが鬼籍に入って7年後の1913年、『赤いチョッキの少年』が競売に出されたが、その落札額は5万6000フランに上った*35。それでもなお、この額さえ、まだ上昇のほんの始まりにすぎない。20世紀後半、セザンヌがオークションでどのくらいの値段で取引されたかをヴォラールが知ったら、さすがの辣腕の画商も嘆息を禁じえなかっただろう。フランスにおいては、19世紀初頭から20世紀初頭まで、貨幣価値の変動は大変わずかであった。1803年4月7日の法令によって定められた通貨体系が、1914年8月5日まで変更されることなく維持されていた*36。それは、たとえば、バルザックの小説に描かれる青年貴族ラスティニヤックの、1819年当時のヴォケー館での生活費が、月額100フランであったから、その生活は、半世紀後月額200フランの仕送りを受けていたセザンヌの暮らし向きに較べて、かなり貧しかった、と素直に見てさほど間違いはないということを意味している。とすれば、ヴォラールのセザンヌ展以後の絵の価値の上昇は、額面どおり、驚異的なものであることが分かる。もちろん、芸術の価値を金て云々するのは愚劣なことである。しかし、金はその対象物が持つ社会的影響力を如実に反映する。セザンヌの絵画がヴォラール画廊でのセザンヌ展以降1世紀以上にわたって上昇を続けているという事実は、まさに、ヴォラールにとってもセザンヌにとっても、2人の出会いが運命的なものだったということなのである。そこに、おそらくは、ヴォラールが後年『知られざる傑作』の挿絵本を出版しようと思い立った動機が潜んでいる。この作品を、ヴォラールは、セザンヌによって知ったか、あるいはセザンヌによって心に深く刻印されたか、にちがいないのである。


セザンヌと『知られざる傑作』

 バルザックの『知られざる傑作』は、セザンヌにとって、特別な小説だったのである。その主人公フレンホーフェルは、セザンヌにとって、特別な人物だったのである。それがどれほど特別なものであったか、エミール・ペルナールはこの物語を話題にしたときのセザンヌの様子を、次のように伝えている。

「ある晩のこと、バルザックの『知られざる傑作』とその物語の主人公フレンホーフェルの話を彼にしていると、彼はテーブルから立ち上がって、私の前に立ちはだかり、人差し指で自分の胸をつつきながら、一言もことばを発せず、同じ動作を何度も繰り返して、この小説の人物こそ私だ、と言わんとした。彼はひどく感動していて、目は涙でいっぱいだった。彼の人生に先んじた人間がいたのだ。その精神は予言的なものだが、彼の精神を見抜いていたのだ。*37

 セザンヌが以前からフレンホーフェルの物語を読んでいたのか、それとも、このとき初めてベルナールの巧みな語りロでこの物語を聞き、自分とあまりによく似た画家の悲劇に感動して、胸を詰まらせたのか、ここの記述だけではよく分からない。しかし、真実は、おそらく前者だろう。ガスケの『セザンヌ』によれば、セザンヌの書棚には『知られざる傑作』が収録されていたぼろぼろになったバルザックの『哲学研究』があったという*38。また、同書の対話編の中でガスケは、セザンヌが「画家たるものは皆、少なくとも年に1回はこれを読み返すべきだ*39」と語ったことを記録している。さらに、ガスケがセザンヌと親しくなった1896年以前の時点で既に出版されていたある雑誌のインタヴュー記事の中に、セザンヌの共感する文学上の人物としてフレンホーフェルの名が挙げられているのが見える*40。そもそもセザンヌはきわめて知的な人間であり、読書家たった。彼はラテン語が得意でルクレティウスの詩を暗誦し、また現代ではボードレールを特に好んでいた。彼は、友人との交遊が気持ちよく進展しているときなど、『悪の華』の中の気に入りの何篇かを一字一句正確に暗誦して聞かせた*41。さらには、セザンヌは、ゾラから新刊が出るたびに献本を受けており、いつも寸評を記した礼状をしたためている。かつてゾラもセザンヌも若く熱気に満ちていた頃、互いに詩を詠みミュッセやユゴーに熱中していた。親密な友情で結ばれていた2人には、互いの領分である文学も絵画も強い関心の対象だったはずであり、ゾラの親しい者たちが集まる木曜会のメンバーは画家か文学者だったのである。彼らはジャンルの壁を越え、新しい芸術を目指して燃えていた。やはり木曜会の常連で2人の郷土の友、ポール・アレクシスとヴァラヴレーグも、詩人であり作家であり美術評論家でもあった。だから、セザンヌが早くからバルザックの読者であった可能性は高い。
 いや、そればかりではない。バルザックは、生前正当な評価を受けたとは言いがたい文豪であったが、セザンヌの青年時代に至ってようやく、同じく不当に低い評価を受けていたスタンダールと共に、しかるべき理解がなされるようになった。この正当な評価に貢献した文学者の1人が、ほかでもないゾラであった。ゾラは、まずテーヌによって一種の文学的覚醒をなし、彼に導かれてスタンダールを発見し、続いてゴンクール兄弟の強い影響を受けた後、やはりテーヌに導かれながらバルザックのレアリスムを知って、バルザックに深く傾倒したと言われる。彼の『ルゴン・マッカール叢書』が、バルザックの『人間喜劇』を強く意識して構想されたことは、およそ仏文学史を学んだ者にとっての常識である。ただ、常識は熱気を教えてはくれない。ゾラがバルザックを発見し、その小説に夢中になったとき、彼の精神はおそらく多くの感動を周囲に熱線のごとく放射していただろう。1867年5月29日付けのヴァラブレーグ宛の手紙で、ソラはバルザックの興奮を次のように書いている。

「ところで君はバルザックを全部読んだかい? なんて男だろう! ぼくはこのごろ彼を読み返しているんだよ。彼は今世紀全体を圧倒している。彼の前ではヴィクトル・ユゴーだって誰だって消えてしまう。──僕にとってはね*42。」


 ヴァラブレーグは、エクス出身のゾラとセザンヌの共通の友人であったが、セザンヌとゾラとは、ヴァラブレーグとの関係よりけるかに濃密な、かけねなしの無二の親友であった。であるなら、ゾラの興奮がより身近なセザンヌに伝えられなかったはずはなく、しかも画家を主人公とする『知られざる傑作』を、もし仮に当時セザンヌが読んでいなかったとしたら、そのときゾラがこの本を紹介する程度の親切をしないとはまず考えられない。それゆえ、セザンヌは、多分20代の頃から、画業に苦悩しながらこの作品を、もしかすると本当に「少なくとも年に1度は」読み返していたのかもしれないのである。そうして、この作品に特別な思い入れと、おそろしく深い愛着を抱いたのである。けだし、セザンヌは、誰からも理解されない芸術上の孤独感を、強烈な衿持と、きまって満足ゆく結果の出ない無力感を、孤高であることの誇りと怒りと悲しみを、唯一フレンホーフェルと分かち合っていたのである。

 では、『知られざる傑作』はどういう小説なのか、フレンホーフェルとはどういう人物なのか、次にそれを考えてみたい。(つづく

*1:Balzac : Avant-Propos de La Comédie Humaine, Pléiade tome 1, p. 11

*2:ibid. p. 9

*3:Ambroise Vollard : Comment Je devins éditeur, De Cezanne à Picasso, mes portriats, collection , Édition Séguier, pp. 19-20.

*4:ibid. P.28

*5:ibid. p.40

*6:Carsten-Peter Warncke : Pablo Picasso, 1881-1973. カーステン=ペーター・ヴァルンケ著『パブロ・ピカソ』、タッシェン、2000年、によれば、1901年から4年を「青の時代」、4年から6年までを「薔薇色の時代」と呼んでいる。

*7:ibid. p.40

*8:ピカソは自分のアトリエを友人に案内する際、そこが『知られざる傑作』の画家のアトリエに他ならないことを語っている。Voir. Françoise Gilot & Lake : Life with Picasso, フランソワーズ・ジレ、カールトン・レイク著、瀬木慎一訳、『ピカソとの生活』新潮社、参照。

*9:ヴォラールはレユニオン島のサン・ドゥニに、1866年7月3日、生まれている。

*10:リュニオン・アルティステック( L'Union artistique ) 画廊。 36 Boulevard Haussmann.

*11:Ambroise Vollard : Souvenirs d'un marchand de tableaux, 1984. ヴラール著、小山敬三訳『画商の想い出』美術公論社、昭和55年、参照。以下、いちいち出典を示さないヴォラールの伝記的事実は、この自伝を根拠にしている。

*12:Ambroise Vollard : En écoutanlt Cézanne, Degas, Renoir, Grasset, la collection , 2003, p. 58

*13:セザンヌの画業は、Sandre Orienti : Tout L'æuvre peint de Cézanne, Flammarion, 1995 によれば、1859年から71年までの「ロマン主義の時代 Période romantique 」、72年から77年までの「印象主義の時代 Période impressioniste 」、78年から87年までの「構成の時代 Période constructive 」、88年から1906年に死去するまでの「総合の時代 Période synthétique 」に分けられる。

*14:Joachim Gasquet : Cézanne, Encre marine 2002, p. 340.

*15:Conversation avec Cézanne, Édition critiqu Présentée par P. M. Doran, Macula 1978, p. 65. エミール・ベルナールは、画家および絵画理論家で、1889年頃(同書による)という最も早い時期に、雑誌のシリーズ連載『今日の人々 Hommes d'aujourd'hui 』でセザンヌを取り上げ、彼を高く評価する評論を書いた。しかし、当時ベルナールはセザンヌとは全く面識がなく、タンギーゴーギャンなど、知人、友人たちが所有するセザンヌを見て知るだけであった。無論、ベルナールはセザンヌの知己を得たいと望んでいたが、パリの芸術家だちとセザンヌとを結ぶ絆はきわめて細く、容易にその機会をつかむことはできなかった。また、あえてエクスを訪ねる勇気も気力もなかった。しかし、1904年、彼は、エジプト旅行の帰途、思い切ってエクスにいるセザンヌを訪ねる決心をする。ベルナールは自分のセザンヌ論が掲載された雑誌を手に、エクスの街を探して、運よく制作のために外出するところだったセザンヌを捕まえた。セザンヌは、画家仲間から気難しい変人と言われ、実際そうした逸話に事欠かなかったが、幸いにもベルナールはセザンヌから望外の温かなもてなしを受け、しかも一緒に絵画制作するよう誘われた。そこで、彼はその申し出を喜んで迎え入れ、約1月にわたって毎日の大半を老画家と共に過ごし、その言動を記録した。ここでの引用はそのときの記録によるものである。──さて、この引用の中で述べられている「40」という年齢であるが、セザンヌが初めてピサロに会ったのは、1861年パリのアカデミー・スイスにおいてであり、22歳のときだった。また、ポントワーズでピサロから印象主義を教えられたのは73年で、これを生涯の画友との、再度の、全く新たな出会いとするならば、それは34歳のときである。では、ここで述べられている40歳という数字は何を意味するのか、単なる彼の言い誤りとも、ベルナールの記憶違いとも考えうるが、あるいはセザンヌの中には漠然と、仕事に対する確かな手ごたえと味わいを感じ始めたのは40歳頃からで、そこに至りえだのはピサロのおかげである、という意識があったことを意味しているのかもしれない。

*16:tempérament  セザンヌが画家の天分を説明する際によく使う用語の1つ。

*17:Joachim Gasquet : Cézanne. p. 267.

*18:セザンヌは、印象派展には第1回と第3回に参加したのみで、以後1度も出展していない。

*19:John Rewald : Cézanne, sa vie, son æuvre son amitié pour Zola, Albin Michel 1939. ジョン・リヴォルト著『セザンヌ、その生涯と作品、ソラヘの友情』、森満二郎訳(青磁社、1943年)参照。なお、ゾラの『制作』は、新しい絵画を探求する画家クロード・ランティが、天分を大成させることなく、全精力をあげて取り組んだ大作の制作途上で自殺する話である。

*20:1885年8月31日のタンギイからセザンヌ宛の書簡には、借財「4,015フラン40」という数字が見える。当時、セザンヌが銀行家の父から受けていた仕送り額は月200フランであった。したがって、彼の借金は約2年間分の生活費になんなんとするもので、当時セザンヌが全くといっていいほど買い手のつかない生活無能力の画家であったことを思うと、この数字は、ただ一途に絵を描くだけの彼では、とうてい返済できるようなものではなかったと思われる。ジョン・リヴォルト編『セザンヌの手紙』、池上忠治訳(美術公論社、1985年)、174−175ページ参照。

*21:Ambroise Vollard : En écoutanlt Cézanne, Degas, Renoir. なお、当時の1フランは、物価、賃金など、種々の比較から、現在の日本円にして、少なく見て1000円、多く見て1500円位だろうと思われる。

*22:Conversation avec Cézanne, Édition critique présentée par P.M. doran,Macula 1978, p.167.

*23:Ambroise Vollard : Souvenirs d'un marchand de tableaux, 1984. p. 79. cité par Isabelle Cahn : L'exposition Cézanne chez Vollard en 1895, Cézanne aujourd'hui, Acters du colloque organisé par le musée d'Orsay, 29 st 30 novembre 1995, Réunion des Musées Nationaux, p. 137

*24:93年10月、ヴォラールは37番地( 37 rue Laffitte )に店を借りる。この店舗は、月額家賃240フラン、営業免許税1900フランの慎ましい店で、奥に台所と1部屋あるだけだった。この店舗を約1年半ほど借りた後、95年4月1日、彼は隣の39番地により広い店舗を借りている。こちらは月額家賃300フラン、営業免許税2500フランで、奥の間と台所のほかにもう1室あった。セザンヌ展が開かれたのは、この39番地の画廊である。なお、セザンヌ展終了後の1896年、再度ヴォラールは同じ通りの6番地に移転する。この新しい店舗は格段に広く、営業免許税は一挙に7000フランへと上かっている。voir Isabelle Cahn : L'exposition Cézanne chez Vollard …… p.136.

*25:ヴォラールがいつ本格的なセザンヌ展の企画を立てそのための行動を開始したかはつまびらかでない。しかし、94年は年末にマネのデッサン展を開催しており(12月17日から20日)、95年は注24で既述のとおり4月に画廊の移転を行っている。したがって、それからであると考えるのが自然であろう。

*26:ジョン・リヴォルト編『セザンヌの手紙』、池上忠治訳(美術公論社、1985年)、185ページ。

*27:セザンヌは6月末にエクスに帰っている。

*28:このときの展示作品数については、確かな資料がない。Isabelle Cahn(前掲書139ページ)によれば、ヴォラールがその著書の中で述べている150点という作品数は誇張された数であろう、という。彼自身、それを認めるように、1929年には100点ほどにトーンダウンしている、という。Cahn は、当時ジャーナリズムが50点ほどと言及していること、また店は広くはないことから、展示作品の掛け換えが行われたことを考慮しても、実のところは50点から100点の間だったろうと推定している。また、展示作品の一部は、当時パリのリョン・サン・ポール街にあったセザンヌのアトリエからも選択、搬入されたものらしい。──ともあれ、モネの本格的な個展となった1883年のデュラン・リュエル画廊での第2回個展が58点であったことと比較しても(モネの第1回個展はシャルパンティエ書店の雑誌「ラ・ヴィ・モデルヌ」ギャラリーにおいて作品数18点)、95年のセザンヌ展が相当の作品数による大規模な個展であったことにかわりはない。

*29:セザンヌ展の開催によって、セザンヌが一挙に巨匠の仲間入りすることになったわけでは、もちろんない。Cahn の前掲書によれば、この第1回個展の展示作品のうち、買い手がついた作品数は開催中に26点、終了2週間以内に4点の、合計30点、総額5,360フランであった。さほど売れなかったと言っていいと思われるが、商売としては成功であった。また、評判に関しても同様である。ヴォラールの働きかけもあって、セザンヌ展は新聞雑誌に10本の報告記事が書かれたが、それは彼が期待したほどではなかった。しかし、そのうち3本の論説は、全面的にではないにしろ、セザンヌの芸術を正当に評価する重要なものであった。つまり、総括すれば、セザンヌ展は、派手な成功に彩られたものではなかったが、画期的なものであり、ヴォラールは、かつて醜聞種に過ぎなかった忘れ去られた画家セザンヌを、初めて正しく世間に出す役割を果たした、と言いうるだろう。──なお、その後の展開を略述すれば、98年、ヴォラール画廊において、第2回個展、99年第3回個展、1901年第4回個展。この間の1900年、モーリスードゥニによって『セザンヌ讃』が描かれ、1904年にはついに、サロン・ドートンヌにおいて、当時名声を博していたピュヴィス・ドウ・シャヴァンヌと並んで、1室すべてがセザンヌに与えられている。

*30:アンリ・ペリュシュ著『セザンヌ』、矢内原伊作訳(みすず書房、1989年)、346ページ。

*31:前掲『セザンヌの手紙』、192ページ。

*32:アンリ・ペリュシュの前掲書の記述によれば、タンギーの死から5ヶ月後の1894年7月2日(正しくは4ヶ月後の6月2日)、タンギー所蔵の美術晶が競売にかけられたが、セザンヌは「95フランスから215フランの間」で取り引きされ、全6点(正しくは5点) の合計で902フランにしかならなかったという。(328ページ参照)──また、ヴォラールの『画商の想い出』によれば、彼はこの売り立てで、5枚のセザンヌを900フランで手に入れたが、セリは10フランから始まり、彼が落札した価格は競売取扱吏員の賞賛を受けたという。さて、ヴォラールは落札したものの、持ち合わせが300フランしかなかった。そこで、その額をともかく手付けという形で置こうとした。すると、吏員は全額揃うまで彼の支払猶予を提案したという。ヴォラールの落札額は望外の高値のように思われたわけである。──ともあれ、以上の記録から、諸条件を無視した乱暴な概要を取り出すなら、94年6月までの時点におけるセザンヌの価格は、だいたい200フラン程度であった。そして、Cahn の前掲書 p. 137 note 19 によれば、ヴォラールはそれを約倍で売っているのであるから、セザンヌ展直前の時点におけるセザンヌの値はだいたい400フランから450フラン程度ということになる。

*33:Isabelle Cahn, op.cit, p. 144

*34:アンリ・ペリュシュ、前掲書378ページ。

*35:アンリ・ペリュシュ、前掲書402ページ。

*36:pierre Gaxoitte des Français, Flammarion 1957,pp. 627-628 参照。

*37:前掲書 Conversation avec Cézanne, p. 65.

*38:前掲書 J. Gasquet : Cézanne. p 131. ガスケによれば、そこには、『あら皮』、『フランドルのイエス・キリスト』、『和解したメルモス』、『知られざる傑作』、『絶対の探求』が収められていた、とのことから、この本は1846年に刊行されたバルザックのフュルヌ版『人間喜劇』第14巻『哲学研究I』ではないかと思われる。

*39:前掲書 J. Gasquet : Cézanne. p. 368

*40:Conversation avec Cézanne, Édition critique présentée par P.M. doran,Macula 1978, p. 103 『セザンヌとの対話』の編者ドランは、この雑誌の出版年代を、この雑誌のコピーを提供したシヤピュイの言にしたがって、1866年から69年の間としている。しかし、この年代特定は、当時のセザンヌが画家として全く才能を認められていなかったことから考えて、にわかに信じがたい。しかしながら、雑誌の出版が、ガスケと親しくなった96年以前、つまりベルナールがセザンヌを訪ねるよりも以前であることは確実な事実である。

*41:たとえば、エミール・ベルナールの証言によれば、セザンヌは野外制作の帰り道、ボードレールの『腐肉』を「間違えずに暗誦した。」という。( Conversation avec Cézanne, Édition critique présentée par P.M. doran,Macula 1978, p.71 )

*42:河内清著『ソラとフランス・レアリスム』(東京大学出版会、1975年)95ページの引用を利用させていただいた。