フッサール研究 生活世界の概念をめぐって 木浪明倫

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1 序

 エドムント・フッサール(1859〜1938)の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』には、「生活世界( Lebenswelt )という概念が登場する。普通、1916年にフライブルク大学に移ってからがフッサールの思想上の後期と位置付けられているが*1、その後期の主著にあたるのがこの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』である。フッサール現象学というと、純粋な意識とか理性の規範とか徹底して厳密性を直視するのであるが、『危機』が生活世界、つまり身近な日常の世界を問題にしているのはそぐわないと感じ、関心を持ったのがこのテーマを扱うことに決めたきっかけである。もちろん、フッサールの著作であるから、どんな問題であっても厳密な論述をしているのに代わりはないのだが。
 ここでは、この本の内容を順を追って概観したのち、生活世界とはどういう特徴やはたらきをもった概念なのかということと、生活世界論にともなう問題点について、それぞれ考察してみることにする。


2 フッサールのいう学問の危機とは


『危機』の構成

 『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』は3部構成になっている。これからそれぞれの内容を大まかに順を追ってまとめることにするが、まず第1部では「ヨーロッパ的人間の根本的な生活危機の表現としての学問の危機」という題がつけられている。
 フッサールは、当時流行していた学問の傾向に異議を唱えている。この著作のもとになったのは『ヨーロッパ諸学の危機と心理学』という1935年の講演であるが、このころに先立つ19世紀後半は、哲学や形而上学の体系から生物学・生理学・心理学・社会学・経済学・歴史学などが実証的な個別の科学として分化しだした時代だった*2
 フッサールがこの著書で諸学の危機といったときには、幾何学や物理学が念頭にあり、その他には精密な自然科学に入れてよいものかどうかという観点から心理学を、そして哲学も対象に入っている。
 フッサールによると、当時の実証主義的な傾向が、これらの学問を危機的な状況にしたといっている。実証主義的な学は、理性の意味を考えるということを落としてしまい、学問を、単なる事実についての学にしてしまった。単なる事実学を研究する学者は、物理的なものを研究するようにして心理的なものを研究しようとするという。(例を挙げると、1850年代のドイツのモレスコット、ビュヒナー、フォークト等の生理学的な唯物論などが単なる事実学としての科学の例にあたるといえるだろう。彼らは人間の精神的な諸活動をすべて肉体的・生理的な作用に還元して理解しようとした*3。単なる事実学を研究する学者は、学問的で客観的な真理とは、物理的および精神的世界が、事実上何であるかを確定することだと考える。これは逆にいうと、世界が存在することの意味とか、価値とかいう問題は学問で扱うべき問題でないと考えていることになる。
 そして、理性の意味が顧みられなくなったことによって、哲学は、あらゆる学問の動きを統制するという本来の役目をおうことができなくなっているという。
 第2部では「近代における物理学的客観主義と超越論的主観主義との対立の起源の解明」として、第1部で述べたような実証主義的な傾向の原因をつくった人としてガリレイを挙げる。
 フッサールによると、ガリレイは、自然を数学化して、客観的な物理学を作りだした人である。ガリレイは自然を数学によって説明、理念化して、何でも数学的に公理と演棒で説明できると考えた。また彼が自然をそれ自体で完結した物体の世界とみなしたために、自然と、心的世界とは二元論的に分裂することになった。(10節)そして哲学も、「幾何学的な合理性をもった理論」でなければならないとされるようになった。すなわち、世界は数学的な合理性にしたがっているということを前提とした哲学である。
 そして、近代の物理学主義的な合理主義の特性を述べたのちに、客観主義と超越論主義についての闘争の歴史について書いている。客観主義と超越論主義という、この相対する2つの主義の創建者は、デカルトである。フッサールは、デカルトの方法的懐疑を、自分の主張する超越論的哲学とつながる、あるいは重なる部分はあるものの、客観主義に偏りすぎているとみている。たとえば、デカルトは、一切の前提をもたないといいながら、ガリレイのように数学的合理性によれば存在者をかならず認識できるはずだという目標をあらかじめもっていたとフッサールは批判している。(18節)
 つづいてロックの自然主義*4や、バークリ、ヒュームの懐疑や独我論について批判し、カントの超越論的哲学について書いている。カントの功績およびいたらなかった点については、第3部でもつづけて展開されている。
「危機」という著作全体の半分以上をしめる第3部は、「超越論的問題の解明とそれに関連する心理学の機能」という題がついており、AとBの2つの章に分かれている。
 A章は「あらかじめ与えられている生活世界から問いを遡らせることによる現象学的超越論哲学への途」として、再びカントについてふれ、27節ではドイツ観念論の偉大な諸体系と誉めたカントの哲学でさえも気付かず、暗黙の前提にして顧みなかった生活世界へと論をすすめていく。この第3部Aの部分が生活世界について最も多く説明されているところである。
 B章は「心理学から出発して現象学的超越論哲学へいたる途」という題で、フッサールは今度は心理学を中心として分析している。心理学*5は本当は超越論的哲学となるべきなのに、客観主義的、物理学的な学であろうとしたために、つまり、物理学が物体を分析するのと同じように心を分析しようとしたために、真の心理学になることができていないという。
「危機にの構成内容を大まかに見たので、次は生活世界そのものの説明をしている箇所を見ていくことにする。


3 生活世界とは

 生活世界とは、簡単にいうと文字通り「我々が日常生きていて現実に経験できる世界」のことである。
 34節の説明によると、生活世界はいくつかの特徴をもっている。これをまとめて列挙してみょう。
 まず第1に、生活世界は「根源的な明証性の領域である」ということが挙げられる。ここでいう明証的に与えられたものとは、知覚や記憶によって経験されたり想起されたりしたもののことである。生活世界とはこのような直接的なものの領域であって、理屈っぽい思想によって作り出されたような空虚な理念の世界ではない。(34節 e )
 第2に生活世界は、自然科学(たとえばアインシュタインの物理学)の中で行なう検証を客観的に基礎付けるはたらきをする。フッサールはここでは非常に具体的な例を挙げている。それは自然科学の実験で使う計量器や目盛りである。これらは、現実に存在するものとして疑いなく使われているが、我々はこのような主観的な経験(計量器や目盛り)を客観的科学の実験のために当然のものとして利用している。(b)
 第3に、生活世界は、学を基礎付けると同時に学を包括してもいることが挙げられる。フッサールは、学的理論や仮説は、生活世界に住む人間の生を構成している多くの実験的仮説や企図のひとつであるという。つまりどんな理論もこの生活世界に属しているのである。(e)
 第4に、生活世界は、相対的な世界でありながらも普遍的な構造をもっている。生活世界のあらゆる存在者は相対的である。たとえば、何を真理とみなすかは地域や民族によって異なっている。しかし、「相対的な存在者が生活世界に結びつけられている」という構造自体はアプリオリである。それゆえ、生活世界も学問の研究の対象に十分なりうるといえる。(36節)

 これらの特徴を持つ生活世界と対をなすのは、近代科学によって作られた客観的、理念的な法則の世界である。9節でフッサールは、ガリレイが世界を幾何学的・自然科学的に数学化したと述べている。世界の幾何学的・自然科学的数学化とは、生活世界に客観的科学の真理という理念の衣をかぶせることであるという。
 近代の物理学や心理学などのあらゆる科学も、いま見たように、本来はこの生活世界をもとにしている。しかし、客観的真理を追究するという性質をもつ科学によって、本来、理念の衣の方が、それ自身は世界の見方の1つにすぎないはずなのに、真の存在だと思われるようになってしまった。客観的科学の真理を発見・確定しようとしさえすれば、それで世界を完全に理解したことになるとみなす誤解がガリレイ以降広まっている。そして、学問的な理念の世界の方が、日常の世界よりもすぐれており、我々の世界はなにか欠けたところがあるかのように1段低く見られることになったのである。
 ガリレイは、このような「生活世界と数学的な理念性を与えられた世界(学問の世界)とのすりかえ」を行なった人物であると批判されている。
 フッサールがいっていることは、次のような例に当てはまるであろう。たとえば、物理学で、物体が落下するときの加速度の法則は、現実の世界で試してみても、空気の抵抗などの影響にょって法則の通りになることは決してない。だが我々は普段の生活の中で、あらゆる物体の落下はかならずその法則にしたがっていると信じている。だから、誤差が生じて法則にあわないほうがおかしいと思ってしまう。
 フッサールは、この科学に先立つはずの生活世界を、哲学は普遍的な問題として考えるべきだとしている。そして、学以前の世界の「単に主観的・相対的な」直観も、ある程度は真理の領域であり、侮蔑すべきものではないともいう。直観とは、第三者的な媒介を挟まずに直接に、ありのままにとらえるということだが、この直観の領域をフッサールは重視するのである。当時の数学者や数学的物理学者は、記号(記号は最も直観から縁遠いものといえる)によって思考する代表格であり、フッサールの批判の対象になっている。(9節)


4 問題提起

 さて、43節をみると、「純粋に自然的な世界生活から出発して、世界があらかじめ与えられてあるその与えられ方への問いを提起する」というやり方があるといい、51節では、「生活世界的現象へ焦点を合わせる態度が、出発点として、すなわちより高い段階の相関的態度に対する超越論的手引きとして役立つはず」ということをいっている。どちらも、生活世界が出発点、手引きという役割をはたすことを表しているといえる。そして、何に向かうための出発点かというと、より高い段階の態度である、世界が我々にどのように与えられているかという与えられ方の問いへの出発点である。

 では、出発点や手引きとしてのはたらきをする生活世界は、新たな問いをめざすにあたって乗り越えられるひとつのステップとしての意義しかもだないのだろうか。途中で廃棄されていくべきものなのであろうか。
 ここでは、判断中止の概念をきっかけにして、これを考えてみたい。

 判断中止(エポケー)は、現象学における重要な操作であるが、「危機」を読むと、この判断中止はふたつの段階に分かれていることがわかる。
 第1の判断中止は、客観的科学に関する判断中止である。35節によると、これは単に物理学などの客観的科学を捨て去ってあとは顧みないという意味ではない。また学問がすべて虚構であって信用するに足らないといっているのでもない。客観的科学が行なうような認識の仕方、つまり客観的法則を前提にして学問を研究することを中止するということを表している。
 第2の段階の判断中止は、普遍的な判断中止という。39節によると、客観的科学に関する第1の判断中止だけでは、まだ生活世界を基盤・前提にしたままなので、生活世界があらかじめどのように与えられているのか、その与えられ方までは理解することができない。世界を主題にするためには、客観的科学だけではなくあらゆるものを括弧に入れなければならない。つまり、第1の判断中止よりさらに徹底して無前提の態度をとることが肝要であり、それを普遍的な判断中止というのである。
 つづく40節には、普遍的な判断中止にも適切なやり方があることが書いてある。普遍的な判断中止は、ばらばらに1歩1歩たどるような遂行の仕方ではいけないという。これは具体的には、心理学を前提にしないとか、知覚を疑うとか、これは信じないがこれは信じるといった個々のものに関しての判断を中止するのではないということだろう。このようなことをしても、それぞれの場合ごとに違った世界の現われ方と前提が我々に生じるだけで事態は進展しないことになろう。
 それでは、ばらばらに1歩1歩すすめていくのとは違う普遍的な判断中止とはなにかというと、フッサールは「自然的な世界生活の全体と、妥当性の入り組んだ網(それが隠されていようとあからさまになっていようと)とを貫通している全体的な遂行作用を、はたらかせなくする」ことだと定義している。この定義は、難しい言い方をしてはいるが、簡単にいえば自然的態度に入り込んで生きるのをさし控えるということを意味していると思われる。外界が客観的に存在すると素朴に信じる「自然的態度」を完全にやめ、世界の妥当の仕方をすべてについて超えていることが必要になる。これが超越論的判断中止であり、普遍的な判断中止は、この方向をとらねばならないとされている。

 それでは、超越論的判断中止にょって最終的にめざすことになる超越論的哲学とはどんなものなのであろうか。

 フッサールは14節で、客観主義と超越論主義の定義づけを行なっている。
「客観主義」は、経験によって自明なものとしてあらかじめ与えられている世界を基盤として、その「客観的真理」について問う。つまり、世界がそれ自体において何であるかを問う。それに対して「超越論主義」では、世界は学以前の経験や思考による主観的な形成体としての存在である。この主観性に立ち帰って根本的に問いかけることにょって初めて、世界の究極の存在意味に到達できると考えられている。だから、それ自体において最初のものは、主観性であることになる。
 また、27節では「超越論的哲学」という言葉を次のように定義している。
「客観主義に対して、あらゆる客観的意味形成と存在妥当の根源的な場としての認識する主観性へと立ち帰り、世界を意味形成ならびに妥当形成体として理解し、本質的に新たな種類の学問性と哲学とに道を開こうと試みる哲学」
 簡単にいうと、「主観をあらゆる存在や意味を形成するはたらきのあるものとみなして、その主観性に立ち帰ろうとする哲学」ということになるだろう。
 前述の問題提起の際、生活世界を出発点にして、世界の与えられ方についての問いが発せられるということを指摘したが、世界の与えられ方について考えることは、まさに超越論的哲学であることがわかるであろう。
 フッサールによると哲学の歴史は、客観主義的哲学と超越論的哲学との激しい緊張の歴史である。現象学は、超越論的哲学の最終形式なのである。

 フッサールのめざす超越論的哲学は、主観性に立ち帰るとか、主観が存在者を形成するとかいいつも、単なる独我論や主観的観念論にはなっていない。それは、「相互主観性」という概念があるためであると思う。相互主観性は「デカルト省察」で主題として登場するが、ここでは『危機』の本だけを扱うので、この概念をここでは生活世界との関連で見ることにする。
 相互主観性のことをフッサールは、50節では「われと汝の総合」「われわれという総合」というような自我と他我に関係する総合、54節では世界を「万人にとっての世界」として構成するもの、という少々わかりにくい説明をしている。
 世界が主観によって形成されているとすれば、自分と他人とで同じ世界を形成していないと他人とのコミュニケーショソがとれないことになる。そこで個々の主観が合わさって世界を形成することが必要になる。そういう他の主観があることを考慮に入れている主観、これが相互主観性であると思われる。
 54節から引用してみよう。
「すべての人にとって相互主観的に同一である生活世界は、現われの多様性に対する志向的『指標』として役だち、この現われの多様性は、相互主観的総合の中で結合され、それを通してすべての自我主観が共通の世界とその事物へと向かい、それが一般的な「われわれ」の中で結合されるあらゆる活動の領域となる。」
 つまり、生活世界の意義のひとつは、それぞれの主観をばらばらにしないでひとつに向かわせる指標としてのはたらきをすることにある。こういった指標が超越論的哲学には必要なのである。


5 結論

さて、第1の判断中止にょって客観的科学の根本に生活世界があるということがわかり、第2の判断中止によって生活世界から超越論的主観への移行が行なわれることがわかった。また、生活世界は超越論的哲学への指標であることもわかった。一見すると生活世界はやはりひとつのステップにすぎないように見える。しかし、それでも生活世界は完全に廃棄されて顧みられなくなるわけではないといえる。
 その根拠は次のようなことである。
 (42節)我々が普通常識的に前提しているものを判断中止して反省してみる作業のことを還元という。ゆえに超越論的判断中止による作業を超越論的還元という。超越論的還元は、世界を現象と考えるようになりまた超越論的主観性へと還元する。
 この超越論的還元をいっそう具体的に理解できるようになるために、再び生活世界に立ち戻ってみることが必要になるのである。(43節)以前は客観的科学の理論だげが我々の関心事だったが、いまや世界が与えられるその与えられ方も関心のひとつになっているのである。
 このことからわかるように、1度生活世界から超越論的主観への還元へと進行したとしても、我々の関心は再び生活世界へと戻ってくる。生活世界は一方で廃棄されるものであることは確かではあるが、他方で常に前提として残るものでもある。(44節)


6 最後に

 最後に、生活世界論について当然生じてきそうな問題をふたつ提起して、それぞれについての意見をまとめておくことにする。
フッサールの哲学はあらゆるものを判断中止して前提にしないといいながら、学問以前に自明的に存在する地盤を絶対的に前提しているではないか。生活世界の概念をたてるのは、形而上学が絶対者や実体を前提にして議論しているようなものではないか。
①についての見解
 生活世界や、超越論的圭観などの概念は、形而上学的な実体などではなく、あくまで現象学のための方法・手段である。形而上学においては、たとえば神の概念などは、それを立てることそのものが目的のようなところがある。しかし、徹底して学問の意味や本質を考えるための手段として、生活世界や超越論的主観は立てられているのである。

②生活世界の考え方は、厳密な学としての哲学をめざすフッサールにとって、1歩後退あるいは妥協したものなのではないか。
②についての見解
 生活世界論は、哲学が意識、理性、理念だけでなく、歴史や現実の世界も考慮に入れるべきだということを示した。そういう意味では、厳密さだけでは行き詰まるということを、批判の対象である実証主義に対してだけでなく、自分の哲学にも示すことになったともいえるだろう。しかし、前述したように、生活世界は各人のばらばらな主観をひとつに向かわせる指標の役をはたす。また36節のフッサール自身の註には、判断中止を行なうのと同時に生活世界の前提が必要であることが述べられている。つまり地盤としての機能があるといっている。
 だから1歩後退というより、自分の哲学を遂行していった結果、かならず解明、通過を必要とすると判明した新しい現象学の視点であるといえる。
 また、日常の世界を前提にするからこそ説得力があるとも、理論的になりすぎずに(つまり机上の空論にならずに)彼の哲学がより深まったともいえるのである。


参考文献

生松敬三他編「西洋哲学史の基礎知識」(有斐閣ブックス)
小阪修平他著「現代思想入門」(JICC出版局
新田義弘著「現象学とは何か」 (講談社学術文庫
細谷恒夫編「世界の名著51」ブレンターノ・フッサール」(中央公論社
細谷・木田訳「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」(中央公論社
丸山高司編「現代哲学を学ぶ人のために」(世界思想社

*1:生松敬三他編『西洋哲学史の基礎知識』(有斐閣ブックス)258ページによる。

*2:同書、236ページによる

*3:同書、236ページによる

*4:自然主義について、フッサールは『厳密な学としての哲学』で、自然主義者とは「真正の真理、 真正の美、真正の善とは何であるか」を見いだすという目標を自然科学および自然科学的哲学によって達成できると信じている人々であると説明している。

*5:ヴントの実験心理学などをさす。(67節)