不定形の ジョルジュ・バタイユ

 ある辞書が、もはや単語の意味ではなく働きを示すときから存在し始めるとしよう。たとえば「不定形の*1」は、ある意味をもつ形容詞であるばかりでなく、それぞれのものが自分の形をもつことを全般的に要請することによって、価値を下落させる役割をもつ言葉である。それが指すものはいかなる意味でも権利をもたず、いたるところで蜘蛛やミミズのように踏みにじられてしまう。実際、アカデミックな人間が満足するには、世界が形を帯びる必要があるだろう。すべて哲学というものは、これ以外の目的をもってはいない。つまり、存在するものにフロックコートを、数学的なフロックコートを与えることが重要なのだ。それに対して、世界はなにものにも似ていず不定形にほかならない、と断言することは、世界はなにか蜘蛛や唾のようなものだ、と言うことになるのである。

*1:『ドキュマン』 1929年度第7号(12月)の「辞書」の項目である。掲載項目は、「睡」(マルセル・グリオール「(1)魂としての唾」、ミシェル・レリス「(2))よだれ」。頭文字はC)、レリス「解氷」(D)、バタイユ不定形の」(1)である。「不定形の」は、非常に短い文章であるが、『ドキュマン』でバタイユが展開した問題を凝縮している。そのため、近年この短文は頻繁に言及されている。『ドキュマン』においてバタイユは、「観念」や「観念論」を批判していた。そして「不定形の」では「形態」を批判するが、彼の立場は一貫している。「観念」の原語はフランス語の「idee」であり、「形態」は「forme」である。前者の語源はギリシア語の「イデア」であり、イデアは「見える形」を意味する。プラトンは、このイデアを哲学的概念として用いたが、それとほぼ同義で「エイドス」という概念も用いている。そして、この単語は「形態」を意味する。つまり、バタイユの観念論批判は、ここで「イデア」「エイドス」批判としての形態批判として現れているのだ。観念論者、哲学者は、世界に形態の網の目をフロックコートのように張り巡らし、形態にもとる異質なものを「不定形の」という形容詞を用いて貼め、踏みにじる。しかしバタイユは、世界はいかなる形態にも似ていず不定形であると断言しながら、それを肯定する。こうして肯定されるのは、「~である」形ではないが、しかしけっして無形ではなく、なにか蜘蛛や唾のような、「のような」得体の知れぬ不定形、形態の侵犯、そして侵犯的な形態である。訳語に関して付言するなら、「不定形の」の原語である「informe」は、通常は形容詞として用いられ、バタイユもそのように用いている。ただし、名詞化する用法も可能であり、レリスは、先行項目「睡(2)よだれ」において、そうして唾を「不定形の象徴そのもの」と定義している。また、本文中の「価値を下落させる(declasser)」は、「分類を潰乱する」と訳すこともできるし、最後の「不定形にほかならない、と断言すること(affrmer)」は「......と肯定すること」と訳すこともできる。